2015年4月17日金曜日

No.114 教理随想(65) 生まれ更わり(12)

 では人間の魂は、出直して次にこの世に生まれかわってくるまでの間、どのように存在しているのでしょうか。

       このものを四ねんいせんにむかいとり 

       神がだきしめこれがしよこや
              (三、109)
       それからハいまて月日しいかりと 

       だきしめていたはやくみせたい
              (七、68)
 この二つのお歌は『おふでさき註釈』によりますと、ともに明治三年陰暦三月十五日に出直された秀司先生の庶子お秀様のことで、明治十年たまえ様(秀司先生の長女)として出生されますが、ここにはっきりと魂は親神によって抱きしめられている(「神がだきしめ」)と教示されています。

 「やしろ」でない人間の魂とは、あくまで信仰の対象で、その存在は科学的に検証されないもの、時間空間をこえていて、この世のどこかに実体として客観的に実在するといえないもの、従って魂はいつ、どこに、どのように存在するかいうことのできないもの、この意味では、あるとも、ないとも、いえるもので、ただ「神がだきしめ」ている(したがいまして存在しても非活性な状態)としかいえないものと悟れます。
 
  山本利雄氏は魂はモノ(客観的物体)ではなく、モノとモノとの関係、コト(客観的現象)である、と説明しています(『続人間創造』)が、このコトという見方も実体視されるおそれがあり、魂の個別性については考慮されないという問題があるように思われます。
 
  教祖は『正文遺韻抄』中で、次のように仰せられています。

 「此の身上かやしても、心は我がの理ゆゑ、きえてしまうものやない。これが、たましいといふものや。たましひは、まんごふ(万劫)、まつだい(末代)のものである。
そこで、身上かやす理を世上では、死にゆくといふのである。けれども、死にゆきてどうなるかといへば、又、かりものかりて此の世へ出るのである。」(244頁)

 魂とは「それは、どういうものなら、いんねんと云ふもちこす処の理、一日けつこう(結構)にくらしても、晩になりて、兄弟や夫婦の中で、つみつくるといふ事がある。
したならば、あすのあさ、互いにこゝろもちがわるくて、ものもゆはんといふ事になる。中には、一日も二日も、ものゆはん。顔をみても、にらみやひで、通るやうな事もある。 この理はどこからでたか、なにがさしてゐるかといへば、みなわが心がしてゐるのや。
心の理が、のこりてあるからの事や。人の一生終りて、生れかへる場合にも、前生の理をもちこすといふは、このどふりであるで。」(244頁)

 このわかりやすいお話によりますと、教祖は魂とは「心の理」で、生まれかわっても残り続けて、この世の人生に様々な影響を与える、と教えられています。
 
  教祖は慶応元年、おはる様懐妊のとき、「今度、おはるには、前川の父(教祖の父親)の魂を宿しこんだ。しんばしらの真之亮やで。」(『教祖伝』66頁)と仰せられています。

 「先に長男(おはる様の)亀蔵として生れさせたが、長男のため親の思いが掛って、貰い受ける事が出来なかったので、一旦は迎い取り、今度は三男として同じ魂を生れさせた。」(『教祖伝』67頁)とより詳しく仰せられ、生まれかわりの実在をはっきりと教示されておられます。

 村田幸右衛門さん(明治十九年六十六才出直し)の次のような話があります。

 幸右衛門さん(大変声のいい方で、この方のおつとめの節を聞いて、教祖は節を決められたと聞かされています)が晩年になって三才の子供でもしないような仕草をするので、教祖にお伺いすると、教祖は「魂はもう先方へ宿っておるがな」と仰せられたそうです。(『おさしづ語り草』[]桝井孝四郎著89~92頁)

 魂を目に見えない粒子、実体のようなものと考えますと、「魂はもう先方へ宿って」の意味が悟れませんが、魂の宿しこみを、粒子のようなものを入れると考えずに、生命を成立させる気のエネルギーのようなものの注入と考え、その生命にいんねんの刻印を打つ、それによってその後、その生命が成長し、個別の人間として誕生するようになると悟れないでしょうか。(『おさしづ語り草』には、教祖の「魂の生き通り」のお話を疑った人の話がでています。91~93頁参照)

 「人間ノタマヒ(魂)ナルハドジョウナリ」(説話体十四年本)

 「親神は、どろ海中のどぢよを皆食べてその心根を味わい、これを人間のたねとされた」   (『教典』二七頁)
と教えられていますが、この「どぢよ」とは決して生き物としての存在ではありません。生命の元となるエネルギー、気のような存在と悟れます。
 
  最近世界の物理学者から熱い視線を注がれている超ひも理論があり、この理論によって極微の世界から宇宙の成り立ちまで解き明かされると期待されています。
 
  この理論によると、極微の素粒子の世界に踏み込むと、粒子としての性質については、ひもの揺らぎ方の違いによって生じると考えられています。大半の素粒子はひもの揺らぎ方が違うだけで、ひもそのものが違うわけではないということです。

 究極のひもは太さ、重さを持たず、長さのみをもつと見なされていますが、この理論で重要なのは「素粒子の本質はひもそのものにあるのではなく、その揺らぎにあるということです。長さを持っていなければ揺らぐことができませんが、太さは揺らぎとは直接には関係がありません。ひもは、揺らぎを与えるための仮想的な材料にすぎず、本当はひもさえなくて、存在しているのは揺らぎだけだと言ってもいいくらいです。」(『世界はゆらぎでできている』吉田たかとし著、光文社新書73ページ)
 
  ここから考えますと、「どぢよ」とは目に見えないエネルギーの揺らぎのようなものといえるのではないでしょうか。

 したがって、魂とは、受胎後何ヶ月が経って宿しこまれるものではなく、魂とは生命の母胎、生命を成立させるエネルギーのようなもので、それが約六ヶ月の間に「身の内六台」(くにとこたちのみことから、かしこねのみことまでの火、水、風、骨つっぱり、皮膚つなぎ、飲み食い出入り)のお働きによって、漸く人間らしくなってくる。それで「をびや許し」が妊娠六ヶ月以降に頂けると悟れるのではないでしょうか。

 

2015年3月18日水曜日

No.113 教理随想(64) 生まれ更わり(11)

  今回より出直しに関する霊魂の問題にについて考えてみたいと思います。 

  「こかんや秀司が来てくれるから、少しも寂しいことはないで。」
  「秀司やこかんが、遠方から帰って来たので、こんなに足がねまった。一つ、揉んでんか。」「正善、玉姫も、一しょに飲んでいるのや。」(『逸話篇』一一〇、魂は生き通し)
 「正善、玉姫」とは山本利雄氏の『続人間創造』の中で、二代真柱正善様が秀司先生の生まれかわりで、玉姫とは初代真柱様の長女玉千代様のことで、こかん様の生まれかわりであると説明されています。
 
 秀司先生は明治十四年六十一才で、こかん様は明治八年三十九才でそれぞれ出直されていますが、魂は生き通しで、現身をもたれている教祖と会話、飲酒をされていたということになります。これをどのように受け取ればいいのでしょうか。
 
   まず魂とは何かみてみましょう。
 魂は原典においては、

         高山にくらしているもたにそこに 

         くらしているもをなしたまひい
                (十三、45)

          「一寸の虫にも五分の魂」(M29.3.24
 の二ヶ所にしかでてきません。 

 おさしづの方は常識的なことわざで、おふでさきに一ヶ所しかありませんので、原典に基づいて論じることは極めて困難であります。
 
  哲学者カントは魂は形而上学的な存在で、理論理性によっては、認識、証明が不可能であり、実践理性(道徳)によってその存在が要請される、と考えています。
道徳的に完全無欠な人間になることは、この世では不可能で、その実現はこの世をこえて無限の前進においてのみ可能で、そのことから必然的に、理性は道徳的主体としての人格、すなわち魂の存在、不死を要請することになります。

 従ってカントにとっては魂は現象界、経験界に直接的に見出され、科学的に探知され、検証されるようなものではなく、あくまで信仰の対象とされるものであります。
 
  さて人間存在は一般に三つの次元、側面から成り立っているとみなされています。第一は身体的、第二は心的、第三は霊的次元で、第三の霊的次元については、これまで古今東西において様々な見方が示され、百家争鳴の観を呈しています。
 
  代表的な見方を紹介しますと、ユングの自我(Ego)に対する自己(Self)、これは無意識に潜在するもう一つの自分で、この自己の働きを知り、その声に耳を傾ける、こうした自我と自己、意識次元と無意識次元が生き生きと交流し、結びつくようになることが自己実現とみなされます。
 
  本教において深谷忠政氏は、魂とは、心づかいの起点である我れの抽象形態で、魂が展開して心となり、その現実形態が心づかいである。魂の現実存在ともいうべきものが我れなる主体である。

 魂はいんねんの担い手で、心の可能性、心の自覚性、心の原性とも言われる。魂は等価値で、心の原性には区別はないが、何回かの生まれかわりの中に、個人差がでてくる、との見解を示しています。(『天理教教義学序説』一四六、一四七頁)

 魂と心と身体は互いに密接な相関、因果関係をもち、心と身体は魂のいんねんに相応しいものを借りていて、心の働きはその本質である魂に規定され、心の働きは逆に魂に影響を与え、それが原因となって身体のあり方、心のあり方を変えていく、と考えられます。      
 また魂としての作用、すなわち心は身体をもつ生命の誕生に始まり、身体の生命が終わるとともに停止すると考えられます。

 諸井慶一郎氏は次のように説明しています。
「この魂が、身上と離れて在るかということについては、働きが身上を以ての働きである以上は、身上なくしては働きはないのであって、働きのない存在は、これは観念的な存在でしかないのであります。つまり、魂は心としては存在するが、身上なくしては存在するとも云えんのであります。したがって、死後の魂、死後の霊が存在するかといえば、この世においては存在しない。」(『天理教教理大要』立教164年、306頁)
 
  では「魂の生き通し」の逸話はどのように考えればいいのでしょうか。
 
  初代真柱様が明治二十年一月十三日教祖に尋ねられた三箇条の根本教理の第一に、「この屋敷に道具雛型の魂生れてあるとの仰せ」とあります。また『こふきの研究』(和歌体十四年本)に、

「29 くにさつちのかみさまハ親さまのたいないこもりだきしめござる」

「30 ことしから三十年たちたなら なあハたまひめもとのやしきへ」

「32 つきよみハしやちほこなりこれなるハ にんげんほねのしゆこふのかみ」

「33 このかみハとふねん巳の六十といゝ才にてぞあらハれござる」
  と、教示されています。
 
  こかん様、秀司さんの魂が、それぞれ、くにさづちのみこと、月よみのみことの魂で、
  こかん様は「たまひめ」(玉姫)に三十年後に生まれかわること、秀司先生が明治十四年六十一才であることは、史実によって確認することができます。

 教祖はいざなみのみことの御魂で、ともに人間創造の時の道具衆の魂であるため、私たち人間の魂と異なり、魂だけで、心の働き(教祖の場合は、観念的なものではなく、現実的なお働きも持つ)も持たれているので『逸話篇』110にみられるようなことが、現実に生起すると悟れます。

 秀司先生は明治十四年四月八日、六十一才で出直されますが、その直後に教祖から、「可愛相に早く帰っておいで。」と長年の労苦をお労いされます。
そしてすぐ後に座にかえられますと、教祖のお口から「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」との秀司さんの生の男性の声が聞かれたと、言われています。(矢持辰三著『教祖伝入門十講』374頁参照)

 また「口説き掛けたら、どういう事口説くやら分からん。さあ~~苦労の中でかくれたものを連れて出るで。」(M24,1,28

  このおさしづ関して、「すでにお出直しになった秀司様が、スッと本席様の中にお入りになって、秀司様のお言葉でおさしづが出てきます。秀司様の魂が話しておられるように受けとれます。」との見方が示されています。(同書411頁)
 
  このお話は『おさしづ語り草』(上)(桝井孝四郎著87~88頁)にも掲載されています。また、『神・人間・元の理二つ一つの世界』(森井敏晴著、天理やまと文化会議)の中の「教祖のお口に現れた秀司先生の御霊」(130~134頁)にも詳しく説明されています。

信じられないと思われるかもしれませんが、秀司先生は八柱の一つの「やしろ」であられますので、現身を隠されても、このようなことも現実に起こりうると悟れます。

しかしこのことは私たち人間には絶対に当てはまらないと思われます。
人間の場合は「やしろ」ではありませんので、死後祖霊となっても、身体がなくなると、その働きは停止しますので、生きている人間を通して肉声を発することなどありえないと悟れます。この点は本教の立場からはっきりと指摘しておかねばなりません。


2015年2月15日日曜日

No.112 教理随想(63) 生まれ更わり(10)

  次にキリスト教における死と救済について考えてみましょう。
 
  先に少し触れましたようにキリスト教では、死は生の終わりではなく、イエスが十字架上の死の三日後に復活しましたように、人間も死後肉体とは異なる新しいからだを与えられ、復活すると教えられていますが、この復活は死後すぐにではなく、この世の終わりにおいてであると教えられています。
 
  この世の終わりの前兆は、戦争や飢餓、地震、迫害、偽キリストの横行等で、その後本物のキリストが再び地上に再臨し、イエス以後死んだ人々も生き返り、最後の審判をうけ、その審判により、天国、地獄のどちらに送られるかが決定すると考えられています。
 
  そして天国に送られた者は、神とともに永遠の至福(この世にあったときと同じように働き、学び、遊ぶといった様々な楽しみを、完成した形で味わう、と現代の神学者によって考えられていますが、あくまでこの世の彼岸においてであります)を、また地獄に送られた者は、永遠の罰、絶対に釈放されない、いわば終身刑の報いを受けることになると教えられています。
 
  これがキリスト教の終末観、救済観ですが、ここにおいては一回きりの現世での行為の善悪が、情け容赦なく厳しく裁かれるだけで、神の救済の力によって引きあげられるということが全くありません。
 
  なるほどイエスの十字架上の死によって、すべての人間の罪が人間に代わって贖われ、それによって人類の罪が許され、罪の結果である死も克服されたと教えられています。
しかしながら人間の死の後に待っているのは、この世の終わりでの復活と審判で、そこで義とされた者のみ救われると言われますと、イエスの贖罪と愛とは一体何を意味するのか、また厳正な審判と神の愛とはどのように結びつくのか疑問に思えます。
 
  ところでカトリックには煉獄の教えがありますが、これについてはどのように考えればいいのでしょうか。
 
  この煉獄の考えは、大多数の人間は天国に入るほど完全でもなく、地獄に落ちるには善人でありすぎるので、天国と地獄の中間にある煉獄において、一時的に火にもやして苦しみを味わわせ、天国に入れるだけの完全さを備えさせた上で、天国に入れようとするもので、地獄行きの執行猶予のように受け取れ、一見神の力による引き上げがあるようにみえますが、これも地獄を天国に近づけ、地獄をいわば終身刑から有期刑に軽減するだけで、神の救済による引き上げとは決して言いがたいと思われます。 
 
  では本教の「出直」における「親神の救済の力による引き上げ」とは何を意味するのでしょうか。

 「出直す」という言葉は、一般に最初からやり直すという意味だけではなく、何か不都合な場面を一度はなれ、考え方、態度を改めて、心機一転して再びその場面にもどることを意味しますが、このことは「出直し」について考えますと、「出直し」そのものによって、魂のほこりの一部が払われて、生まれかわってくることを意味するのでしょうか。
 
  この点について北村光氏は「出直し」における「魂の浄化作用」(『G-TEN』6号41頁)という考えを示し、それを次のように説明しています。

 『「出直し」は「人類が永遠に続く為にも欠かせない問題」であり、(中略)出直すことがなかったら、一方的に人間は流れていくことになり、それは、やがて人類の滅亡を意味する。例えば、いじめる者といじめられる者、勝つ者と負ける者、親と子、上と下等々。この状態が、永遠に続くとしたら、一方的なものである しかし「出直し」によって配役がかえられ、例えば親不孝の者は、今度は親に捨てられ、親がいてくれたらなあと思い続ける、親不孝の心使いのよごれを、自然に払える環境、境遇、立場を与えられる。(中略」これが親神様の慈悲なのだ。しかも、そこには永遠に人類が存続し得られる理があると思う。』
(42頁)
 
  ここでの「出直し」による境遇、立場、配役等の転換につきましては、その考えに賛成しますが、はたしてそれらの転換そのものが、魂を浄化し、魂のほこりを一部払ってくれるのか、につきましては疑問が残ります。
 
 「魂が白紙(白因縁)に戻るためにも、『出直』さねばならないのである」(41頁)は、「出直し」そのものが、「魂の浄化作用」をもつとも、「出直」して境遇を転換されて生まれかわってから、魂が浄化されるとも解釈され、氏は前者の解釈をとっているようですが、後者の解釈のほうが正しいのではないでしょうか。
 
  つまり「出直し」そのものによって、魂のほこりの一部が払われるのではなく、「出直しによって、ほこりの払いにくい境遇から、ほこりの払いやすい境遇へと転換されて生まれかわり、その境遇においての具体的、自覚的な通り方や種々の節を通して、ほこりが払われていくのではないでしょうか
 
  もしこのように考えることができますと、「出直し」における「親神の救済の力による引き上げ」とは、親神が人間に代わってほこりを払ってくれるというようなものではなく、あくまで配役をかえたり、ほこりを払いやすい境遇へと生まれ変わらせることで、ほこりを払うことは、人間の主体性にゆだねられていると考えられます。

理は見えねど、皆帳面付けてあるのも同じ、。月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。
              (M25,1,13
というおさしづは、私たちに勇気を与えるとともに、反面では厳しさをも教えますが、また「平均勘定」はこの世において具体的な形で示されることや、「出直しによる借金の棒引きのようなものはないことをも教えるものであると悟れます。
 
  本教の救済は、「出直し」、生まれかわりを前提とする、この世における現実的なものであり、主体性、心の自由を極めて重視するものですが、これらの点に他宗との根本的な相違があるように思われます。

 

2014年12月24日水曜日

No,111 教理随想(62) 生まれ更わり(9)

           
 ところで「やまずしなすによハらすに」の中の「しなす」とは、仏教における解脱、もはや生まれかわりのない永生とおなじような意味をもつものでしょうか。少し検討をくわえてみましょう。
 
  まず仏教、キリスト教の不死についてみますと、仏教ではこの世は一切皆苦で、解脱によって迷妄他律の此岸をこえ、彼岸の自律、自由の世界、涅槃の境地、もはや生老病死の苦のない不死の世界に入ると考えられていますが、この彼岸とはあの世、あるいは肉体を遊離した精神の世界に他なりませんので、死の真の超越にはならないと思われます。
 
  キリスト教においても同様で、この世は罪と死の世界で、ここを脱し、天国において永遠の生命を得ることが説かれますので、不死といいましても、この世でないところに求められることになります。
 
  したがって死の超越は、キリスト教、仏教においては、あの世、あるいはこの世においては精神の中でのみ、なされる非現実的、抽象的なものにすぎないと思われます。
 では本教において「しなす」、不死とはどのように考えられるのでしょうか。
 
   たすけでもあしきなをするまでやない 
 
   めづらしたすけをもているから
           (十七,52)
   このたすけどふゆう事にをもうかな
 
   やますしなすによハりなきよに
                    (十七、53)
 
  このおふでさきから、不死は「めづらしたすけ」によって実現することが分かりますが、このたすけは単に病気を治したりするようなたすけではない、と教えられていることから考えますと、人間の魂は生き通しでありますから、人間は不死であるとの解釈や、いんねんのままに生き、死んでいくのを死ぬといい、少しでもいんねんを納消して出直すことが「死なず」に通じる等の見方は十分でないと思われます。
 
  それでは人間は百十五才まで生きられる素質があるので、百十五才までに出直すことが死ぬで、それ以上生きる場合は「死なず」になるのでしょうか。

  『おふでさき通訳』(芹沢茂著)では「死なず」は「若死にしない」こととして、また『おふでさき講義』(上田嘉成謹講)では、百十五才までに出直さないことと解釈されていますが、今の段階では百十五才以上の寿命(現在において一部実現されています)と「めずらしたすけ」とは必ずしも結びついていませんので、そのような解釈も十分ではないように思われます。
 
    そののちハやまずしなすによハらすに   

    こころしたにいつまでもいよ
           (四,37)
のおふでさきから次のようなことが言えるのではないでしょうか。

  「心したいに」いつまでも寿命を与えていただけるということは、出直しもまた心次第であるということ、つまり「もう百十五才もはるかにすぎたので、この辺で出直しさせてもらおう」と思うと、その願いを即座にかなえてもらい、出直す月日、時間や、場所や生まれ変わるところまで分かるようになったり、指定できるようになることが、「死なず」の意味と悟ることができるのではないでしょうか。
  (尾崎栄治著『しあわせを呼ぶ心』昭和53年、284~285頁参照)
 
  もしこのような悟りがゆるされますと、「死なず」とは、これまでの人間のように、死の時期、原因も一切分からず、死にたいする恐怖を持って出直すという絶対的他律としての死ではなく、いわば相対的自律としての死を意味し、死はもはや不安や恐怖の対象ではなく、喜びをもって迎えることができるようになるでしょう。
 
  そしてそのような死において彼岸における死の超越ではなく、此岸における死の超越が可能になるのではないでしょうか。

 この此岸における死の超越といいましても、単に肉体から遊離された精神において(この場合は超越といっても死からの逃避にすぎず、死に対する恐怖は依然として残っています)ではなく、まさしく肉体における超越ということになりますが、このような死を迎えることができますと、私たちはもはや不安や恐怖もなく、むしろ喜び、安堵を感じながら、死を迎えることができるのではないでしょうか。

 「めづらしたすけ」によって、以上のような極楽が具体的に実現されることになりますが、このような極楽は、私たちが生まれかわり出かわりする中に、私たちが生かされている大恩を人救けによって報じ、心をすみきらせる努力によって、たとえその道がいかに遠くとも絶望することなく、実現しなければならないものであります。
 したがいまして「死んで天国へ」というような甘えや、生まれかわり出かわりから脱して、永遠の世界に生きるというような夢想は絶対に許されないと思われます。

 次に「出直」と救済の問題について考えてみましょう。
 
  中島秀夫氏は「出直」と輪廻を比較して、
・・・「出直」は、ややもすると、死と再生の生命サイクルと同日に論じられたりするが、もとより、それとは異なる。ましてや、輪廻の思想とは明確に区別されなければならない。たしかに、それは反復、円環の運動で説明しうる理論的条件をもっている。しかし、それは単なる反復や同一地平での円環運動ではなくて、いつも親神の救済の力によって引き上げられつつ、螺旋状に上昇する円環運動の線で説明されるべき内容を包み持っている・・・                 (『G-TEN』6号13頁)
と述べていますが、親神の力によって「引き上げられる」とは一体どのような意味を持つのでしょうか。
 
  まずニーチェの永遠の回帰の思想を一瞥してみましょう。
 
  ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、
・・・一切の事物が永遠に回帰し、わたしたち自身もそれにつれて回帰するということ、わたしたちはすでに無限の回数にわたって存在していたのであり、一切の事物もわたしたちとともに存在していたということです。・・・(岩波文庫[]138頁)
という一見輪廻と同じような永遠回帰を教えていますが、それは、
・・・わたしはふたたび来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。新しい人生、もしくはよりよい人生、もしくは似た人生にもどってくるのではない。わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ。・・・(同書139頁)
からわかりますように、現在と全く同一の人生が無限にくりかえされる「単なる反復や同一地平での円環運動」にほかならず、「出直」の円環運動とは全く異なるもので、そこには救済の要素が全くありません。
 


2014年11月19日水曜日

No.110  教理随想(61) 生まれ更わり(8)


  次にキリスト教の天国、仏教の極楽と本教の「ごくらく」との相違について少し考えてみたいと思います。
  
  一九八六年十一月一日、和歌山で新興宗教「真理の友教会」の女性信者七人が、前日病死した教祖の後を追って、集団で焼身自殺をしました。この種の事件は海外では、一九七八年十一月に、南米ガイアナで九一四人にも上る「人民寺院」の集団自殺はありましても、日本では戦後はじめてですので、関係者のみならず、一般の人にもショックを与えましたが、この事件を聞いたとき、まず感じましたことは、女性の集団自殺という悲惨さというよりは、教祖の「死ねば天国にいける」との教えを盲信し、天寿を全うするのではなく、自ら死を選んでその教えを実行した驚きであります。
 
  彼女らが信じたように、天国は死の向こう側にあるものなのでしょうか。
 まずキリスト教の天国について少しみてみましょう。
 
  さて一般に天国というと死後の世界と考えられていますが、キリスト教においては必ずしもそうとは言えません。なぜなら「天国」(Kingdom of Heaven)という呼称は、マタイによる福音書に一回でてくるだけで、あとは全て「神の国」(Kingdom of  God)と表記され、神の国はユダヤ教によりますと、国、領域というよりは、神の支配の意味で、神が統治者としてこの地上に君臨すること、あるいは神の意志を地上に実現することが天国にほかならず、キリスト教もこの考えをうけついでいるからであります。
 天国とは神の国、神の支配で、単なる彼岸、あの世ではなく、この世的、現在的でもありますので、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」
                (ルカによる福音書第十七章,20~21)
とイエスは教えるのでしょう。
 
  イエスにとって、神の国はすでに時がみちて、現在すでに到来しているのですが、しかし神の国の実現は阻止されていて、まだ完成していない。その完成はこの世の終わり(これについては、この世の発展完成で、あくまでこの世においてという解釈と、いったんこの世が終わり否定されて別の世界においてという二つの解釈が考えられますが、キリスト教ではふつう後者の解釈がとられています)においてで、それが完成するとき、神に忠実な者は復活し、神の国に入るとされます。

 そしてこの神の国の完成が、一般に天国と考えられ、この世の彼岸に存在すると信じられているわけであります。
 
  このようにキリスト教においては天国は、神の国、神の支配の意味で、この世的、現在的な要素をもちますが、神の国完成としての彼岸的天国の面がつよいために、「死んで天国にいく」という俗信を生じさせることになると考えられます。

 では仏教においてはどのように考えられているのでしょうか。
 キリスト教の天国に相当するものは、仏教では極楽である、と考えられやすいのですが、厳密に言うと正しくありません。

 キリスト教の神の国に対して、仏教では仏の国、仏国土(一人の仏が教化する領域のこと)、または浄土(煩悩やけがれのない浄らかな土地)とよばれています。キリスト教は唯一絶対神で、神の国はひとつしかありませんが、仏教では仏が無数にあると考えられていますので、それぞれの仏が自分の仏国土、浄土をもっているとみなされています。

 私たちの住む世界は釈迦仏の教化する仏国土ですが、残念なことにこの世界は、人間の煩悩、けがれなどに満ちているために穢土とよばれています。
 浄土とは、このようなけがれのなくなった世界にほかならず、わが国では阿弥陀仏の極楽浄土があまりにも有名なために、極楽イコール浄土と考えられ、天国と極楽が結び付けられるわけです
 
  ところで仏教には、この浄土とは別に天上界があります。天上界とは先に見ました輪廻の六道のうち、天人の住む世界ですが、仏教では天人といえども、非常に長い寿命を保証されてはいても、いつかは死に、再び六道をめぐらねばなりませんので、天上界は天国と同じように考えることはできません。
天国に相当するものは、輪廻の輪の外にある永遠の世界である浄土ということになります。
 
  ところでこの浄土は、キリスト教の天国と同じく死後の世界、あるいは西方十万億の仏国土を過ぎたかなたにある、と記述されますように、この世にあらざる別世界で、死後往生するところとふつう考えられていますが、これは浄土の一面で、私たちが浄土を築いていかなければならないという考え方もあるようです。
 
  この考えによりますと、浄土を築くことは、利他の修行に励むことによって心のけがれをとり、心を浄めていくことになりますから、浄土はこの世的な面をもつことになります。[田村芳朗氏は『日蓮』(NHKブックス、1975)の中で、浄土には「ある浄土」、「なる浄土」、「ゆく浄土」の三種類があると説明しています。「ある浄土」とは、この世界がそのまま理想の浄土で、「いま、ここ」がそのまま絶対であると考えます。「なる浄土」とは理想の浄仏国土を、この世に実現することです。また「ゆく浄土」とは死後に生まれる浄土です。]
 
  しかし仏教の浄土も、キリスト教の天国と同じく、結局はこの世の彼岸にあるもの、死後の抽象的な世界、あるいはこの世における単に霊的な世界と主として考えられますので、この点に本教との根本的な相違があります。
 
  では本教ではどのように考えられているのでしょうか。
 
  極楽という言葉が、みかぐらうたに、
  
        ここはこのよのごくらくや   

      わしもはや~~まゐりたい
            (四下り九つ)

      よくにきりないどろみづや

      こゝろすみきれごくらくや
                 (十下り四つ)
と二例[おさしづには「極楽世界」(M26,2,26「極楽やしき」(M31,9,25)がみられます]だけでてきますが、ここから分かりますことは、極楽はあくまでこの世(四下り九つの「ここ」とは教祖のおられるお屋敷、ぢばを指しますが、十下り四つのお歌からは必ずしも場所的に限定されず、この世のどこにおいてもと考えられます)にあり、心をすみきらせることによって実現されるということであります。
 
  また本教においては、極楽が単にこの世で、と指示されるだけではなく、その姿が次のように具体的に示されています。

      だん~~と心いさんでくるならバ
  
        せかいよのなかところはんじよ
                (一,9)  
      このたすけ百十五才ぢよみよと
 
        さだめつけたい神の一ぢよ
                (三,100) 
       そのゝちハやまずしなすによハらすに
  
        心したいにいつまでもいよ
                (四、37)  
      またゝすけりうけ一れつどこまでも

      いつもほふさくをしえたいから
                (十二、96

「雨は六さい(六日)夜々降り、風は五日に、働きは半日」
            (尾崎栄治氏『しあわせを呼ぶ心』294頁)

「こふお(子を)ほしいと思ひバ、何時成共。男子と思へバ、男子。むすめの子と思へバ、女子。」(『根のある花・山田伊八郎』70頁)等々の具体的なご守護の姿として示されています。

2014年10月22日水曜日

No.109   教理随想(60) 生まれ更わり(7)

  
  ところでこのような輪廻観は、天台宗の教義である「十界互具」(六道に仏、菩薩、縁覚、声聞の四つを加えた十界のひとつひとつに十界があるという考えで、人間の中にも仏から地獄までの十界が共存しているとみなされる)の思想と同じく、六道、十界のそれぞれを独立して客観的に存在すると考えず、人間の心のあり方とみなしますので、現代人にとってもうけいれやすい見方ですが、しかしこの輪廻観では、現世のことのみが問題とされますので、当然生まれかわりは軽視されるか、否定されることになってしまいます。
 
  このことは禅宗においても同じことになります。道元の死生観をみてみましょう。
 さて一般に西洋では、身体が滅しても魂は永遠不滅と考え、精神優位の立場に立って、心身や主客の二元論を主張する傾向が強いのですが、このような考えは心身一如の立場に立つ禅宗からは「身滅心常」として否定されることになります。
 
  禅では「不生不滅」(宇宙の元素の離合集散によって、わたしたちの身体や物体が生じたり、滅するにすぎないこと)、「永遠の今」の立場に立ちますので、生死の彼岸、来世、いわゆるあの世に極楽を求めるような考えは、すべて「身滅心常」の心身一如でない立場からでてくるものとして退けられます。
 
  道元にとっては、心身一如としての、この人生をおいてほかに人間の生きる道はありません。それゆえに苦悩多き人生そのものの真只中で、自分の足元において、極楽浄土を求めることが、人間にとって真っ正直な生き方とみなされることになります。
 
  このような考え方は、極楽をこの世をはなれた彼岸に求めるこれまでの見方より、はるかに現実的で、「今、ここ」の大切さを教えますので、積極的に評価することができますが、ここでも「人のしぬるのち、さらに生とならず」(『正法眼蔵』現成公案)とありますように、生まれかわりは否定されるというより、無視されてしまうことになります。(もっとも道元は現世の行為が現世に結果をおよぼす順現報受とともに、来世、来々世に結果をおよぼす順次生受、順後次受という三時業の考え方を展開していますが、これは単に過去の影響によって現在があるという考え方でないとしますと、生まれかわりを間接的に認めていると考えることが出来ます)
 
  このようにみてきますと、仏教において輪廻は必ずしも、生まれかわりと結びつかず、また否定もされるということになります。

  次にキリスト教の復活と本教の生まれかわりとの相違を考えてみましょう。
キリスト教ではイエスの十字架上の死は、人類の罪をあがなう死で、このことを信じる者は神によって義と認められ、イエスと同様に死後復活すると教えられますが、この復活は矢内原忠雄氏によりますと、次の二点で単なる霊魂不滅説とは異なる、と考えられています。 
 
  まず第一点は「霊魂不滅説では、人間は霊魂と肉体とよりなり、肉体の死後は、霊魂は自然に肉体を遊離して存在をつづけるというだけであって、そこには霊魂の救いという要素がない。だから肉体から離脱した後の霊魂の状態は、幸福なのか不幸なのか不明である。(中略)キリスト教で言う復活は、もちろん霊魂の不滅を含んでいるが、それはキリストによりて救われた霊魂であり、したがって神とともにあって神を讃美し、永遠の讃美にすむ霊魂であるがゆえに、人間の慕うべき至福の状態である。」(『キリスト教入門』角川選書昭和55年、103頁)
 
  第二点は「霊魂不滅説では霊魂の個性がはっきりせず、したがって肉体の死後における個性の生活が認められない」(同書103頁)
  
  しかし復活においては「救われた霊魂を宿すにふさわしい新しい体が与えられる」ので、これによって「救われた霊は救われた体を器として活動し、我々の個性が永遠に生きるのである」と説明されていますが、「霊魂を宿すにふさわしい新しい体」といいましても、この世における身体とは全く別の抽象的なもの、非現実的なものですので、復活は単にあの世への生まれかわりであるか、あるいはこの世であっても単なる霊的な、非実在的な存在にすぎないということになります。
 
 このような復活観からは、単なる霊魂の救い、「地上における苦難は、天国における祝福」というような、この世とは別の彼岸における至福が空しく待望されるにすぎないと思われます。
 
  最近欧米諸国において、死生観が大きく変わり、転生、生まれかわりへの関心が急激に高まりつつあるといわれています(『ムー』1990年七月号)が、転生というキリスト教の教義と相容れない思想が復権しつつあるということは、キリスト教の復活が単に霊的なものにすぎず、これによっては「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という太古以来の謎を十分に解明することができないからであると考えられます。
 
  これに対して本教では単なる霊魂不滅説とも異なり、

  ・・・人間というものは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・
                                (M39,3,28
と明示されますように、あくまでこの世への、新たな身体をお借りしての生まれ更わりが教えられています。
 
  人間とは「出直」が示すように、この世の生を終えても、この世にまた帰ってきて、この世の生をくりかえしつつ、究極の目標である陽気ぐらしを目指す、と教えられますが、このような「出直」こそ、わたしたちに本来的なあり方を提示し、人生を真に全うさせる教えであると言うことができます。
 
  なぜならこの今の生への態度には、大別すると、この生のみが強調され、それの充実のみがめざされる禅のような生き方と、今の生を仮のものとみなして、明日の生、あの世における永遠の生を求める生き方に分けられますが、前者の場合、なるほど今を大切にし、足元から離れない点において現実的ではありましても、未来の生への目標や希望の面が希薄なために、ともするとニヒリズムや神秘主義におちいったりしがちであり、また後者の場合、あの世の永生や明日の生が強調されることによって、この今の生が軽視されるか、あるいは刹那主義におちいったりして、いずれもこの今の生を真に全うさせることができないからであります。

  ・・・世の処何遍も生まれ更わり出更わり、心通り皆映してある。・・・
                               (M21,1,8
と教示されていますように、「出直」はわたしたちに前生、今生、来生を通して、いかなる不平等(善悪と禍福が必ずしも対応していないというような)もないことを教える、わたしたちに真の生きる勇気を与える教理であるとともに、反面では現実に埋没したり、そこから逃避することを許さない、あくまでも現実に立ち向かわせる厳しさをも教える教理であると言うことができます。


2014年9月23日火曜日

No.108  教理随想(59)  生まれ更わり(6)


  さて教祖は晩年になられてから、「元の理」を多忙なとき、また深夜に、熱心な少数の人々を相手に繰り返し繰り返しお聞かせ下されたと伝えられていますが、「動物の進歩」もこの「元の理」を念頭において話されたのではないかと考えますと、もっと深い解釈ができるのではないでしょうか。以下において述べてみたいと思います。
 
 「人間の数について」にでてくる「いきものが出世して、人間とのぼりているものが沢山ある」、「生まれ変わるたび毎に、人間のほうへ近うなるのやで」等は、動物が人間に近づき、人間に生まれ変わることを明示しているようにみえますが、実は人間と生き物、動物の関係を示唆しているのではないかと思われます。

 また拡大解釈をしますと、それを通して人間と自然の関係をも暗示しているように思われます。
 
  従来動物は、人間よりはるかに下等な生き物であり、人間にとっては単なる手段としての意義しか持たないものとみなされてきましたが、このことは動物を意味する畜生という言葉の使われ方を一瞥するだけでも明らかです。教祖は生命に対するこのような不遜な考え方を先のお言葉によって、まず改めさせようとされたのではないかと思われます。

 「いきものが出世して、人間とのぼりている」、「人間の方へ近うなる」等から、人間と生き物とは、高等、下等の区別、両者間の断絶は全くなく、人間と生き物とは連続した親しき関係にあることがわかりますが、このような考え方は単に生き物を大切にしよう、との動物愛護とか、人間と動物とを同列に見る人間性軽視の考え方とかではなく、あくまでも人間と生き物の本質的区別を認めつつ、両者の関係を従来の主従、優劣の関係から、正当な関係へともどす見方であります。
  この点をもう少し詳しくみてみましょう。

  まずキリスト教の旧約聖書の創世記をみますと、「われらの像に、われらに似せて人を作ろう。そしてこれに海の魚、空の鳥、家畜、すべての野獣と、地をはうすべてのものとを従わせよう。そこで神は、人をみずからの像に創造した」(第1章26,27)という天地創造の有名な一節があります。

 ここからは人間と生き物との主従関係、生き物は人間の意のままに使役される存在にすぎないとの見方しかでてきません。「海の魚、空の鳥、家畜、すべての野獣と、地をはうすべてのものを従わせよう」とは正にそのことを示しています。
 
  キリスト教では、「われらの像に似せて」、つまり人間は神の姿に似せて(理性的で自由意志をもつものとして)創造されたとみなされています。従って人間の精神的、霊的側面がもっぱら強調され、身体、物質的生命は第二義的な意義しかもたないものとして考えられていますが、このような見方は、人間と生き物を単に主従関係においてしかみない、創世記の見方から派生してくるものであり、極論すれば現代の自然や環境の破壊の根底にある考え方であるとも言えるのではないかと思われます。
  
  これに対して本教の「元の理」においては、全く異なった考え方が示されています。
「五分から生まれ、五分五分と成人して八寸になった時、親神の守護によって、どろ海のなかに高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた」、「次いで五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった」(『教典』29頁)
 
  ここにみられますのは、キリスト教のような、自然、環境、他の生き物がまずできて、それから人間が創造されたとの見方ではなく、人間の成人と海山、天地、世界(他の生き物を含む)の発展とが、平行して進んできたとの、従来みられない画期的な見方ですが、このような視点に立つことによって、はじめてこれまで西欧を支配してきた「人間は万物の尺度」や人間至上主義から脱却できるのではないかと思われます。

 また世界的な問題となっている自然や環境の破壊や異常気象などの真の解決に向かって歩を進めることができるのではないでしょうか。
 
  本教において、十全の守護の説き分けは、身の内の守護と世界の守護が一対となってされていますが、これも人間と世界が同じ素材から成り立ち、同じ理法によってつながっていること、同じ神の働きによって一貫していること、したがって人間も他の生き物も、親神の「懐住まい」をし、親神によって等しく生かされ、互いに有機的に相互的に、連関しあっていることを間接的に教示するものであると悟ることができます。
 
  このようにみてきますと、一見不可解に思える「動物の進歩」も極めて現代的な意義をもつのではないかと悟ることができます。

  次に仏教の輪廻について、本教の生まれかわりとの相違をこれまでとは違う観点からみてみましょう。
 
  さて輪廻とは衆生つまり生きとし生けるものが業によって生死をくりかえすことで、天上、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道をめぐると一般に考えられていますが、このような輪廻観は、インド思想や仏教の一部にはみられても、仏教全体を支配する考え方ではありません。
 
  六道、あるいは五趣(阿修羅が地獄に含まれる)の「道」、「趣」はともに、われわれが「死後に往く世界」の意で、これらはこの世とは別の死後の世界、地理的、空間的に存在する世界とみなされやすいのですが、仏教では本来そこまで拡大して考えられていたものではなく、人間のこの世での生存のあり方を六道、五趣として考える見方もあったようです。
 
  この考え方では、たとえば餓鬼は飢渇に苦しむ、欲求不満のあり方として、畜生は動物への転生ではなく、人間の殺し合い、苦しむあり方として、阿修羅は限りない戦い、怒りのあり方として、また天上はそれらの苦しみから脱してはいても、まだ迷いにあるあり方として、つまり個々人の心のうちに、身の回りに、社会において現実に展開されつつあるものとして六道輪廻が考えられているわけであります。
 
  したがって地獄も極楽浄土のように、彼岸、この世をはなれた、死後に往くところではなく、この世における人間のあり方、心の内容としてみなされることになります。

 
  『新仏教語源散策』(中村元編著 東書選書)の地獄の項における八熱、八寒、八大地獄の詳しい説明(21頁~26頁)や地獄絵図、餓鬼草子等は、それゆえに現代のわれわれにとって無縁で、非現実的なものでは決してなく、極めて現実味をおびた、鬼気迫る恐ろしさすら感じさせる「人間のあり方をありのままに映し出す鏡であり」、「すぐれた人間洞察のたまものである」(宮沢智氏『G-TEN』13号)ということになります。