では人間の魂は、出直して次にこの世に生まれかわってくるまでの間、どのように存在しているのでしょうか。
このものを四ねんいせんにむかいとり
神がだきしめこれがしよこや
(三、109)
それからハいまゝて月日しいかりと
だきしめていたはやくみせたい
(七、68)
この二つのお歌は『おふでさき註釈』によりますと、ともに明治三年陰暦三月十五日に出直された秀司先生の庶子お秀様のことで、明治十年たまえ様(秀司先生の長女)として出生されますが、ここにはっきりと魂は親神によって抱きしめられている(「神がだきしめ」)と教示されています。
「やしろ」でない人間の魂とは、あくまで信仰の対象で、その存在は科学的に検証されないもの、時間空間をこえていて、この世のどこかに実体として客観的に実在するといえないもの、従って魂はいつ、どこに、どのように存在するかいうことのできないもの、この意味では、あるとも、ないとも、いえるもので、ただ「神がだきしめ」ている(したがいまして存在しても非活性な状態)としかいえないものと悟れます。
山本利雄氏は魂はモノ(客観的物体)ではなく、モノとモノとの関係、コト(客観的現象)である、と説明しています(『続人間創造』)が、このコトという見方も実体視されるおそれがあり、魂の個別性については考慮されないという問題があるように思われます。
教祖は『正文遺韻抄』中で、次のように仰せられています。
「此の身上かやしても、心は我がの理ゆゑ、きえてしまうものやない。これが、たましいといふものや。たましひは、まんごふ(万劫)、まつだい(末代)のものである。
そこで、身上かやす理を世上では、死にゆくといふのである。けれども、死にゆきてどうなるかといへば、又、かりものかりて此の世へ出るのである。」(244頁)
魂とは「それは、どういうものなら、いんねんと云ふもちこす処の理、一日けつこう(結構)にくらしても、晩になりて、兄弟や夫婦の中で、つみつくるといふ事がある。
したならば、あすのあさ、互いにこゝろもちがわるくて、ものもゆはんといふ事になる。中には、一日も二日も、ものゆはん。顔をみても、にらみやひで、通るやうな事もある。 この理はどこからでたか、なにがさしてゐるかといへば、みなわが心がしてゐるのや。
心の理が、のこりてあるからの事や。人の一生終りて、生れかへる場合にも、前生の理をもちこすといふは、このどふりであるで。」(244頁)
このわかりやすいお話によりますと、教祖は魂とは「心の理」で、生まれかわっても残り続けて、この世の人生に様々な影響を与える、と教えられています。
教祖は慶応元年、おはる様懐妊のとき、「今度、おはるには、前川の父(教祖の父親)の魂を宿しこんだ。しんばしらの真之亮やで。」(『教祖伝』66頁)と仰せられています。
「先に長男(おはる様の)亀蔵として生れさせたが、長男のため親の思いが掛って、貰い受ける事が出来なかったので、一旦は迎い取り、今度は三男として同じ魂を生れさせた。」(『教祖伝』67頁)とより詳しく仰せられ、生まれかわりの実在をはっきりと教示されておられます。
村田幸右衛門さん(明治十九年六十六才出直し)の次のような話があります。
幸右衛門さん(大変声のいい方で、この方のおつとめの節を聞いて、教祖は節を決められたと聞かされています)が晩年になって三才の子供でもしないような仕草をするので、教祖にお伺いすると、教祖は「魂はもう先方へ宿っておるがな」と仰せられたそうです。(『おさしづ語り草』[上]桝井孝四郎著89~92頁)
魂を目に見えない粒子、実体のようなものと考えますと、「魂はもう先方へ宿って」の意味が悟れませんが、魂の宿しこみを、粒子のようなものを入れると考えずに、生命を成立させる気のエネルギーのようなものの注入と考え、その生命にいんねんの刻印を打つ、それによってその後、その生命が成長し、個別の人間として誕生するようになると悟れないでしょうか。(『おさしづ語り草』には、教祖の「魂の生き通り」のお話を疑った人の話がでています。91~93頁参照)
「人間ノタマヒ(魂)ナルハドジョウナリ」(説話体十四年本)
「親神は、どろ海中のどぢよを皆食べてその心根を味わい、これを人間のたねとされた」 (『教典』二七頁)
と教えられていますが、この「どぢよ」とは決して生き物としての存在ではありません。生命の元となるエネルギー、気のような存在と悟れます。
最近世界の物理学者から熱い視線を注がれている超ひも理論があり、この理論によって極微の世界から宇宙の成り立ちまで解き明かされると期待されています。
この理論によると、極微の素粒子の世界に踏み込むと、粒子としての性質については、ひもの揺らぎ方の違いによって生じると考えられています。大半の素粒子はひもの揺らぎ方が違うだけで、ひもそのものが違うわけではないということです。
究極のひもは太さ、重さを持たず、長さのみをもつと見なされていますが、この理論で重要なのは「素粒子の本質はひもそのものにあるのではなく、その揺らぎにあるということです。長さを持っていなければ揺らぐことができませんが、太さは揺らぎとは直接には関係がありません。ひもは、揺らぎを与えるための仮想的な材料にすぎず、本当はひもさえなくて、存在しているのは揺らぎだけだと言ってもいいくらいです。」(『世界はゆらぎでできている』吉田たかとし著、光文社新書73ページ)
ここから考えますと、「どぢよ」とは目に見えないエネルギーの揺らぎのようなものといえるのではないでしょうか。
したがって、魂とは、受胎後何ヶ月が経って宿しこまれるものではなく、魂とは生命の母胎、生命を成立させるエネルギーのようなもので、それが約六ヶ月の間に「身の内六台」(くにとこたちのみことから、かしこねのみことまでの火、水、風、骨つっぱり、皮膚つなぎ、飲み食い出入り)のお働きによって、漸く人間らしくなってくる。それで「をびや許し」が妊娠六ヶ月以降に頂けると悟れるのではないでしょうか。