今回は「そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混っている。夫婦の雛形にしようと、先ずこれを引き寄せ」のテキストを吟味、検討してみよう。
まず問題となるのは、「沢山のどぢよの中に、うをとみとが混っている」という箇所で、一体「どぢよ」、「うを」、「み」とは何を意味するのであろうか。
まず「どぢよ」は「人間のたね」とものべられ、人間を創造するに当たっての、素材、原材料と考えられるが、「どぢよ」は現在われわれが目にすることのできる生き物ではないことは言うまでもない。
上田嘉成氏の説明を紹介してみよう。
氏は『天理教教典講習録』において「この世のあらゆるものは鉱物、植物、動物の三つに大別され、動物はアメーバから人間まで十二に分類でき、十二番目は脊椎動物、背骨のある動物で、これはまた五つに分類でき、一番目が魚類で、どぢよはこの中に入る。こうみてくると、どぢよと人間とは相当使い親戚である」(七六、七七頁要約)と説明されているが、この説明は「どぢよ」の具体的な姿にとらわれ過ぎてように思われる。人間と「どぢよ」の親近性を理解しようとの意図はわかるが、外形だけを問題にしているのではないだろうか。
なるほど泥と「どぢよ」との結びつきから、「どぢよ」という名前は、人間の生命発現を説明するのに、適切であると言えよう。しかし「泥海」のところで検討したように、「泥海」そのものが、常識的な存在でない以上、教祖はわれわれに人間創造の神秘の業を、すこしでもわからせようとされて、「どぢよ」を使われたと思われる。
従って、
このよふの元はじまりハどろのうみ
そのなかよりもどぢよばかりや
(六、33)
は泥海である、親神の身体の中に、人間を創造するための素材となるべきものが、泥海の中に現われている、と解され、その素材となる性質を持った存在を、「どぢよ」という言葉で表現されたと思われる。
諸井慶徳氏は「どぢよ」は『泥中の自然発生的生物であり、しかも泥にあって泥にまみれぬものである。このことも含蓄深い。思うに、混沌たる太初の中にあって、人間的主体性の原型となるべきものの発現を言われたものであろう。しかもそれが神に食べられたというところに、神的生命の息吹を与えられている人間主体性の誕生を示されるのであろう。「身上は神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理」といわれる、この「心一つ」の理の始原的発芽を暗示せられているのである。』
(『諸井慶徳著作集』第六巻一三二頁)
と説明をされている。
森井敏晴氏は「どぢよ」について次のように述べている。
『人間の種としてのどじょうは、其他に人間が人間として在るための極めて重要な機能を潜在的に秘めていることを教える文献の中に、次のようなものがある。どじょうは「他の種よりも気圧の変化を敏感に知り、暴風雨のきざしがみえるときには、非常に活動的になる」と報告して、英国ではウエザー・フィシュ(予報魚)と呼ばれ予報活動に大いに利用されているという。人間の種として、親神が「どぢよ」をつかわれたのも、ひとつにはこのようにすぐれた防衛本能と予知能力をもつ動物であったからだということが出来るのかも知れない。』(『神・人間・元の理』200頁)
次に「うを」と「み」についてみてみよう。
「うを」、「み」は、明治十六年の古記には、「ぎぎょ」、「人ぎょ」、「しろぐつな」とそれぞれ他の名前でも説明されているが、いずれも常識的に解されるような魚、蛇ではない。
なぜなら先の古記において、「うを」は「人げんのかをで、うろこなし」、また「み」は「人げんのはだにて、うろこなし」とも説明されているからである。
次に「うを」、「み」が「人げんのかを」、「はだ」をしているという意味について考えてみよう。
そのうちにうをとみとがまちりいる
よくみすませばにんげんのかを
(六,34)
それをみてをもいついたハしんじつの
月日の心ばかりなるそや
(六、35)
の二つのおふでさきから、「うを」、「み」は人間の顔をしていて、それを月日がみて、人間創造を思いついたように受け取れるが、そうではないと思われる。
人間の外面的特色、他の動物と区別される特徴は、顔と肌であり、特に顔は、人間にとっては、顔を立てる、つぶす等に示されるように、身体の中でも大切なものとみなされるのであるが、この顔の図面、設計図は「うを」、「み」をみる以前からすでにあって、それを「うを」、「み」において再確認したという意味であると思われる。
また「かを」、「はだ」も単に顔、肌だけではなく、つくる人間の顔、肌を含む身体の機能や構造をも、それによって意味されていると思われる。
つまり「よくみすませばにんげんのかを」によって、人間の全身の臓器、や構造、機能を、泥海中の人間をつくる原材料の中に確認したことを意味しているように思うのである。
「人げんのはだ」、「かを」の意味を「人間は神の面影をやどしていること」、「神と人とは異なるけれども、人間は神に対面しうる可能性を持っていること」(深谷忠政著『元の理』三十頁)と解する考え方もある。しかし「神の面影」、「神に対面し得る」等は、人間の本質として認められるが、それを「人げんのかを」、「はだ」から読み取ることはできないように思う。
「かを」、「はだ」によってあくまで身体全体の構造、機能等の外面的、客観的特性が示されるだけで、「神の面影」、内面性、精神性まで示唆されていると思えないからである。
次に「夫婦の雛形」とは何か、をみてみよう。
にんげんをはじめかけたハうをとみと
これなわしろとたねにはじめて
(六,44)
ここから「うを」、「み」は、それぞれ人間創造において、種、苗代の働きをしたことがわかるが、この種、苗代を単に男女の生殖細胞の精子、卵子、あるいは遺伝子としてのみ理解することは不十分である。
なぜなら人間創造は、本教の場合、キリスト教の創世記にみられるように、土のちりから男アダムを最初につくり、そのあばら骨から女イブをつくり、それからその子孫が次々と生まれたという直接的な創造ではない。
親神が人間を創造するに当たって、まず人間の元となるもの、人間の原父母をまず誕生させ、それから人間が生まれるようにするという複雑な構造をしているからである。
具体的に示すと、月日親神は、「うを」、「み」に入り込むまえに、月様は男一の道具、骨つっぱりの道具である「月よみのみこと」を、日様は女一の道具、皮つなぎの道具である「くにさづちのみこと」を、それぞれ「うを」と「み」に仕込み、男、女の雛形を誕生させ、それから人間を創造されることとなったのである。
したがって「うを」、「み」の種、苗代としての働きは、精子、卵子の働きというよりは、それ以前の、それらをあらしめる、より根源的な働きということができる。
「夫婦の雛形」とは、キリスト教のアダム、イブの創造とはことなり、人間の原父母であり、人間ではない神としての夫婦である。このことは最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿しこみのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束して「うを」、「み」を承知をさせて貰い受けられた、というところからも明らかである。
みかぐらうた第二節の「このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな」の「ふうふ」も、したがって今日の人間の夫婦ではなく、あくまで「うを」、「み」の人間の原父母、神としての夫婦であり、この夫婦から、人間が「ぢば」において同時に宿しこまれ、生みおろされたのである。