2012年8月29日水曜日

No.86  教理随想(37)  夫婦の雛形


「夫婦の雛形」についてもう少し検討してみよう。
 「夫婦の雛形」とは、前回のべたように、キリスト教のアダム、イブの創造と異なり、人間ではない神としての夫婦であり、この夫婦から人類が同時に宿しこまれ、産みおろされたのであるが、このような複雑な人間創造、誕生のプロセス、構造は本教独自のものであり、人間生命を真に全うさせるものである。

 キリスト教に代表される人間創造においては、なるほど神の姿に似せて創造されている限りにおいて、人間の動物とは異なる尊厳が何とか保たれるかもしれない。しかしそこでは神の栄光、創造者としての神の威厳が強くたたえられ、人間は被創造者として、その前にひれ伏すことが求められるので、あくまで卑小な存在としてみられることになる。

旧約のヨブ記をみてみよう。
「あなたは神のような腕を持っているのか、神のような声でとどろきわたることができるのか。あなたは威光と尊厳とをもってその身を飾り、栄光と華麗とをもってその身を装ってみよ。あなたのあふるる怒りを漏らし、すべての高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべての高ぶる者を見て、これをかがませ、また悪人をその所で踏みつけ、彼らをともにちりの中にうずめ、その顔を隠れたところに閉じ込めよ。そうすれば、わたしもまた、あなたをほめて、あなたの右の手は、あなたを救うことができるとしよう。」(第四〇章、九~十四)

 ここには主人に仕える奴隷のようなおびえた感情はあっても、人間をより積極的に生きさせることはなく、また神によって生かされている喜び、親の懐に抱かれる子の安らぎ等は、全くないことになる。

 これに対して日本神話にみられる人間誕生においては、人間の祖先が神で、人間は神から発生した、と説かれ、キリスト教にはない神人の連続性をみとめる点に特色があるが、これも不十分である。

 なぜなら人間の自立が、キリスト教より大きく認められてはいるけれども、人間の傲慢がでてくる可能性があるからである。神人の連続性から、人間と神は同一次元にたち、人間は死後神として祭られうるという思い上がりがでて、神人和楽、神と人との親子団欒の理想は、ほど遠いものとなるからである。

 神人の連続性の立場、神人の峻別、断絶の立場は、ともに人間の立場を真に全うさせるものではないが、この両者を統合させてものが、「夫婦の雛形」において示される立場である。(「うを」、「み」は、それぞれ「いざなぎのみこと」、「いざなみのみこと」の両神の働きを象徴するもので、その神名が日本神話の神名と同じところから、一見すると神道的なものを連想させるが、日本神話においては国造りは説かれても、人間創造については一切言及されていないところに根本的な相違がある。)

 この「夫婦の雛形」においては、人間は月日親神と直接つながるのではなく、月日親神によって現出せられた「夫婦の雛形」によって、生み出されるのであるから、神と人間とは連続にして非連続、非連続にして連続という形でつながっていることになる。

「それは単なる創造ではない。が単なる生成でもない。それは現象としては現われ出しであるけれども、本質的には創造である。」(『諸井慶徳著作集第七巻』、59頁)

このような「夫婦の雛形」という立場において、人間の謙虚な自己反省が可能になると同時に、人間が主体性を失うことなく、主体性を保ちつつ、しかも傲慢になることなく、神に抱かれる存在としての人間の立場がはっきりと自覚され、人間生命を真に全うさせる生き方が明示されうるのである。

またここにおいてはじめて神の栄光と人間の尊厳が同時に、同じ比重において示されるといえるのである。
このように「夫婦の雛形」の立場は、人間生命を真に全うさせるものであるが、この立場は、また進化論をめぐる思想上の大きな問題に明確な解答を与えるものである。

生物は最初にただ一つの「個」(キリスト教の創世記では、アダムとイブから、人類が段階的に誕生したと説かれる)として誕生し、それがだんだん増えて「種」(生物分類の最小単位。互いに交配しうる自然集団)が形成されるようになったと説かれる進化論の考え方は、西欧文明の根底をなすものである。そしてこれが個人の権利の確立を第一義に、集団を第二義にみなす考え方、強者が弱者を排除し、環境に適した優れた者が生き残るという思想、人間だけが神の直系の子孫で、他の一切のものは人間によって支配され、統治されるというキリスト教の創世記に根ざした思想等となって展開されてきたのであるが、これは現代においては批判の投げかけられている考え方となっている。

これに対して「夫婦の雛形」の立場においては、生物、特に人間は、最初に「個」として誕生したのではなく、最初から「種」として、「夫婦の雛形」を通して、十億近い人間が同時に誕生した、と教えられ、また人間以外の他の一切のものも、人間の成長とともに発展し、共存共栄されるべきものとして(「八寸になった時、親神の守護によって、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように」、「五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て」によって示されている)みなされ、この立場から、世界一列兄弟、互い救けあい、自然と人間との共存等の現代の世界の諸問題を真に解決する考え方が生まれてくる。

従来の進化論にみられる弱肉強食、優勝劣敗等の淘汰の論理は、支配の論理、抹殺の論理であることをこえて、今や人類を終焉させる論理となり、世界の文明をむしばみ、人類に不気味な不安をもたらしているのであるが、この論理の克服は、「夫婦の雛形」の立場に立つ、人類は同じ親をもつ兄弟であり、互いに救け合う、共存共栄の論理をおいてほかないのである。