2012年10月2日火曜日

No.87 教理随想(38)  子数の問題


次に「子数の年限」について検討してみよう。
 まず「最初に産みおろす子数の年限」について考えてみよう。

 最初の産みおろしによって、人間は三寸まで成長し、二回目、三回目の産みおろしによって、三寸五分、四寸まで成長するのであるが、問題になるのは、産みおろしによる子数である。子数は九億九万九千九百九十九と数えられるのであるが、この数字は実数なのか、それとも単なる理の上の数で、象徴に過ぎないものであろうか。

 この数字は「一を加えることによって十全となるのである。だめとして、世界にもう一人(教祖)が加わることによって、また歴史にもう一日(立教の元一日)が加わることによって、子供ばかりで混乱のせかいはをやを得て、親子団欒の陽気ぐらしの世界となり・・・・ここに空間的時間的に十全な歴史的世界が成立することを示されたものと思う」(深谷忠政著『元の理』31,32頁)との見方は、あくまで理の上の数とみなしている。

 なぜなら子数に一を加えても、九00一00000となって十全とはならないからである。

 では実数ではないのか。そうとは思えない。
 なぜなら「子数の年限」が経ったなら、天保九年の立教の元一日を迎えるのであるから、単なる象徴としての数とも思えないからである。経過する年限はあくまで実数でないことには意味がない。では億は現在の数ではないのか。

 『広辞苑』によると億には十万の意味があり、これだと子数は九九九九九九で、一を加えて十万となり、すっきりするが、現代科学の生命誕生の理論からすると、あまりにも少なすぎるように思える。

 子数を理の上の象徴としての数字との見方は『天理教教典研究』(平野知一著)にもみられる。
九という数字が重なっている意味を「九という数は、三の三倍であり、親神が人間創造に当たって、如何に長い年限にわたって苦心されたか、という親心」(143頁)を示すものとして、また九には人間身体の九つの道具、おつとめ鳴物の九つの道具、九度の別席順序等の意味があると解され、あくまで理の上の数とみなされている。

しかし先述したように、単に理の上の象徴的な数とみなすと、「子数の年限が経ったなら」という立教の三大いんねんの一つの旬刻限の理が軽くみられるように思われる。

ではどのように考えればよいのか。
二代真柱様は第十六回教義講習会で受講者のその質問に対して「私は九が続いておるものと解釈しているのです。」と答えられておられる。(『元の理を掘る』平野知一著129頁)つまり子数は九九九九九九九九九、十億マイナス一ということになる。

この見方は、地球上に人間が最適条件で住むことができる人口は約十億人との見解や、最近の生命科学の知見からも根拠付けることができよう。

「三十数億年前、原始地球のどろ海の中に誕生した二種類の原核細胞が、その後、ヒトに至るまでの絢爛たる生命の華を咲かせるためには、まず、真核細胞への道をたどらねばなりません。この真核細胞は好気性生物であり、したがって、それは原始地球の大気が還元大気圏から酸化大気圏に移行した後のことであったに違いありません。いまから約十億年前のころであったでしょう。」(『人間創造』山本利雄著106頁)

「約三十五億年前に出現した二種類の原核細胞を雌雄性の材料として、約九億年前に、真核細胞による有性生殖が始まった。」(同書110頁)
 
おふでさきには、
このこかす九おく九まんに九せん人
 九百九十に九人なるそや
          (六、46)
と明示されているが、これはあくまで五七五七七の歌の形式にあてはめるとき、九千九百九十万の部分をいれることができないために、その部分が略されたのではないかと思われる。
 
子数の数に関して、象徴としての数、実数としての数のほかに、もう一つ神にとっての実数が考えられるのではないか。
 
相対性理論によるとニュートンの古典物理学における絶対的時間はもはや成立せず、時間も相対的であるといわれている。原始宇宙(ビッグバン理論があるが、これを認めない宇宙論もある)における時間の流れが、現在の時間の経過と異なり、同じでないならば、「子数の年限」の経過も、現在の時間の流れで考えることができない。
 
しかし年限の経過が意味を持つためには、実在的な時間、年数を考えなければならない。そこで人間の尺度では測れない、神にとっての計算に基づく数、実数が考えられるのではないか。それがどのような数、計算であるのかは当然のことながら人間には全くわからない。そのような神にとっての実数が考えられるのではないか。
 
次に「元の子数」と世界の人口について考えてみよう。
 世界の人口は現在60億人をこえていて、「元の子数」よりはるかにふえているのであるが、これをどのように考えたらいいのか。

 まず第二、第三の産みおろしについてみてみよう。
 第二の産みおろしについては「いざなぎのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経って、これを産みおろされた」(『教典』28頁)から、「元の子数」が産みおろされたことがわかるが、第三の産みおろしについては「そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ」(同書同頁)とあるだけで、「元の子数」かどうかわからない。

 和歌体十四年本(山澤本)には、
「はてましてまたもやをなしたいないに もとのにんじゆさんどやどりた  このものも五ぶからむまれ だんだんと 四すんになりてまたはてました」とあり、三度目の産みおろしは、「元の子数」であると示されているが、明治十六年本の「神の古記」(梶本本によって「元の人数」と説明されている)においては、不明である。

 また人間は三度目の出直しのあと、八千八度の生まれかわりを経て、「めざる」一匹になるような段階をとおって、八寸、一尺八寸、三尺、五尺と成人していくのであるが、最終の五尺になったとき、はたして「元の子数」の人数なのか、それより多くなっているのか、全くわからない。

 また「人間のたね」(『教典』27頁)としての「沢山のどぢよ」(25頁)については、数が示されていないので、それを使って、人間の数を増やすことは十分に考えられることではないだろうか。

 したがって現在の世界の人口が「元の子数」より、はるかに多くなっていても、何ら不思議ではないと思われる。

 次に『正文遺韻抄』(諸井政一著)に掲載されている、人間の数、動物の進歩についての教祖のお言葉を、少し長いが引用して、検討してみよう。

「元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、いきものが出世して、人間とのぼりているものが沢山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、あゝうらやましいものや、人間になりたいと思う一念より、うまれ変り出変りして、だんだんこうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらわしてやる、すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらうたものが沢山にあるで」(153頁)

「生物は、みな人間に食べられて、おいしなあといふて、喜んでもらふで、生れ変るたび毎に、人間の方へ近うなるのやで。さうやからして、どんなものでも、おいしい、おいしいと云ふて、たべてやらにゃならん。」(155頁)

ここに述べられてあることから、人間の数が「元の子数」より増えている理由がわかるのであるが、このお言葉は、このまま受け取ることができるであろうか。

なるほどこのお言葉は教祖より発せられたもので、そのまま信じるよりほかないものかもしれない。
しかし一つの比喩、例え話として、人間と生き物との相即不離の関係を、あのようなお言葉で、当時の人々によりわかるように話されたのではないかと思う。

なぜなら動物の進歩をそのまま受け取るとき、動物に人間と同じ意識、自由を認めることになり、人間と動物の区別がつかなくなるからである。

 また自由を動物に認めることによって、動物にも「ほこり」の教理があてはまり、「ほこり」の多少によって、動物の種類、序列が決められるということになるからである。また人間のなれのはてが動物ということなれば、人間と動物、人間同士における格差が生じ、動物への蔑視、人間同士の差別がより強くなるのではないか。

このようにみてくると、動物の進歩は、そのまま信じることはできず、動物を擬人化することによって、動物と人間とは友達のような親しき関係にあることを、また動物の生命の犠牲によって、われわれの生命が維持されてもいるので、動物への恩を忘れないことを、あのような例え話でもって、説明されたのではないかと思う。

したがって「牛馬におちて居る者」もその通りに解するのではなく、あくまで牛馬のような、人間として生れながら、人間としての自由を失っているような人間として理解されねばならないであろう。

だんだんとをんがかさなりそのゆへハ
ぎゆばとみえるみちがあるから
          (八、54)

 ここにみられるように牛馬は、牛馬そのものではなく、牛馬とみえる道(牛馬のような道)であるから、人間が牛馬におちる、また牛馬から人間へと出世するということはないと悟るのである。人間は、虫、鳥、畜類等と生まれかわってきたので、その逆のコースもありうるように思えるが、人間の主体性、自由を深く考えるとき、そのことは絶対にないと信じるのである。