2013年2月22日金曜日

No.91  教理随想(42)  「にほん」と「から」(2)


先に産みおろしの順序について、最初、次を「にほん」、「から」に当てはめることはわれわれにとって余り意味がない、と述べたが、このことは産みおろしの順序、区別に意味がないということでは決してない。

 ではその意味とは何か。
松本滋氏は、その意味を長子、末子と解して、日本人長子論を説いているが、そのように理解するとき、どうしても民族主義的になってしまい、親神の思いに反するようになってしまう。

 なるほど七十五日かかった産みおろしの時間的順序は、長子、末子をすぐに連想させるが、産みおろしの時点においては、まだ泥海で日月、天地の区別すらないのであるから、現代のような時間は成立していなかったのではないか。もしそうなら七十五日というのは、実数ではなく、何かを意味する象徴ということになり、したがって長子、末子の関係は成立しないのではないか。

 しかし産みおろしの区別は依然として残り、その区別の意味が問題になる。
 ではその意味とは何か。

私見によると、その区別は長子、末子のような時系列のたての区別ではなく、たとえば会社における役割部門、部署のような横の区別であり、産みおろしの区別によって、役割の区別が示されているのではないかと思う。
 
『おふでさき注釈』には、「にほんのもの」は「最初に親神様に生み下ろされた者」、「この教を先ず聞かして頂く者」、「とふじん」は「つづいて生み下ろされ」、「次に教を聞かして頂く者」(28頁)と解され、産みおろしの順序、区別が「にほん」と「から」の区別として受け取られているが、産みおろしの区別を役割の区別として考えるとき、そのような解釈は成立しないのではないか。

 産みおろしの区別を「にほん」と「から」の区別とみるとき、先に産みおろされた者は、後の者より成人し、魂が神に近い、したがって「この教を先ず聞かして頂く」ということになるが、これでは宿し込みの時点で、魂に優劣の差があることになり、一列平等の教えに矛盾することになる。

 しかし産みおろしの区別を役割の区別とみるとき、産みおろしの順序には価値的な相違はなく、単に役割の相違しかないということになる。

 親神は神人和楽の陽気ぐらし世界建設を目的にして、人間を創造したのであるが、産みおろしの時点において、陽気ぐらし世界建設のための役割分担をされ、それが産みおろしの区別となったのではないか。

 そしてその役割を自覚的であれ、無自覚的であれ、全うしている者が「にほんのもの」で、その反対の者が「とふじん」ということになるのではないか。

 また「にほんのもの」、「とうじん」も固定的なものではなく、
にち~~にからとにほんをわけるみち
神のせきこみこれが一ぢよ
          (四、58)
に明示されるように「にほん」と「から」と同じく、日々の通り方によって変動するものではないか。つまり「にほんのもの」もたすけを忘れ、自己中心的、利己的に生きるとき、すぐに「とふじん」に転落してしまうようなものではないだろうか。

 このように考えられるなら、「にほん」と日本の関係は、次のようになるであろう。
 松本滋氏は『にほんとは人知、学問よりもっと深い次元の「ね」の働きに基づいた人間のあり方を指していると同時に、現実にある日本という国やそこに住む日本人の本来的なあり方を示唆している』(前掲書、194頁)と述べ、「にほん」と日本を直結しようとしているが、「にほん」を先述したように、親神から課せられた役割を全うしている者や集団、国と考えるとき、「にほん」は、日本のみならず世界の国々の本来的なあり方をも同時に示すもの、と言わなくてはならない。

 したがって日本が「にほん」になることは言うまでもないが、同時に世界も「にほん」になることが必要なのであり、日本の「にほん」化は、世界の「にほん」化と同時に成立すべきものであると思われる。

 ところでこのように言うと、本教はまだ歴史が浅く、民族宗教の域をでていないのであるから、松本氏の言うように「日本の治まりの理によって、世界が治まっていく」のが順序であり、日本と世界の「にほん」化は同時に成立しないのではないか、との反論が予想されるが、先述したように、世界の治まりのないときに、日本の本当の治まりなど考えられないし、また日本、世界の区別は「にほん」、「から」の成人の差ではなく、会社における人事部と経理部、営業部等の区別のようなものにすぎないから、日本がまず治まって、それを模範にして世界が治まっていくという順序は認めがたい。
 
また親神から課せられた役割も、他宗教によっても(他宗教も親神によって成人に応じて教えられたものであるから)間接的に自覚されうるのではないか。
 
したがって世界の「にほん」化も、無自覚的には、ある程度実現しているといえるのではないか。

 最後に「にほん」と「から」に関連する「ね(ねへ、ねゑ)」と「ゑだ(た)」について考えてみよう。

をなじきのねへとゑだとの事ならば
ゑだハをれくるねハさかいでる

いまゝでわからハえらいとゆうたれど
これからさきハをれるばかりや

にほんみよちいさいよふにをもたれど
ねがあらハればをそれいるぞや
        (三,88~90)

 これらの一連のお歌から、「にほん」と「ね」、「から」と「えだ」が結びつくことがわかるが、この「ね」と「えだ」も「にほん」と「から」と同じように、日本と外国というように単純に割り切ることはできない。
 
井上昭夫氏は『世界宗教への道』の中で、科学を至上視する西洋文明が崩壊し、東洋の特に日本の文化が再評価されつつある現実を、種々の具体例をあげて説明し、「欧米の近代化の超克は、欧米自身の日本化への構造的変革をおいてはない」(369頁)と断定しているが、はたして日本文化が「ね」で、西洋文明が「えだ」であると即断できるであろうか。

 氏は西から東への文明の逆流は「ね」が現われるという神意の具現であり、それゆえ日本文化礼賛を考えているようであるが、神意は世界の日本化ではなく、世界の「にほん」化であり、世界の文明、文化の否定ではなく、それらを真に生かすことにあるのではないか。

 神意に反するのは、「えだ」であるからではなく、「えだ」であるのに「ね」の働きを忘れて自立しようとしたり、自らの空しい絶対性を主張する点にあるのである。
 
世界の文明、文化、歴史、伝統等は、土地所に咲く花のようなもので、それらの豪華絢爛たる百花繚乱の姿に陽気ぐらしがあるのであって、日本の花々を世界に植え、咲かせようとしても、根付かず、空しく枯れてしまうだけであろう。

 問題は世界の花が日本の花でない点にあるのではなく、世界の花が、根からはなれて、生け花のように成っている点にあるのである。 

 根からはなれた花は、いかにその美を世界に誇示しても、所詮生け花に過ぎず、早晩枯れ行く運命にある、と言わなければならない。日本の花と言えども同様である。