今回は本教における自由、自由自在について検討してみよう。
さて自由の問題は、古くて新しい問題で、様々な人々によって種々の立場から論じられているのであるが、一般的には次のように理解されている。
自由とは「広義には存在物が、外的あるいは内的な力の強制や拘束や妨害なしに、その本性あるいはその意志にしたがって働きうること。物体の自由落下から人間の自由意志まで含めていう。より狭義には、行動の自由と意思決定の自由に分けられる」(『現代哲学事典』講談社)と考えられ、行動の自由はさらに細かく、身体の自由や衝動や狂気に支配されず、良心にかなった行動をする倫理的自由(カントに代表される自由で、自由とはミズカラニ由ル、つまり自律で、各自に内在する道徳法則に従うことと考えられている)。また結社集会、思想表現、信仰の自由等に分けられ、原則としてこれらの自由の実現がよりよきものとして目指されている。
これについては自由実現の手段、実現の程度の差などが問題にされるにすぎず、常識的に理解しうるといえよう。
しかし意志決定の自由となると、複雑でいろいろ論議をよぶことになる。
なぜなら選択における人間の意思決定、例えば結婚相手を誰にするかはあくまで自由で、何にも依存しない、否因縁によって、自分が決定する前にすでに決定している、選ぶのではなく、選ばされる、とも考えることができるからである。また何にも拘束されず自由に振舞っていると思っていても、単に目に見えない運命のようなものに操られているにすぎないとも考えうるからである。
このように考えると、意思決定の自由はあるのか否か、極めて難しい問題になってくる。
最近の脳科学の研究によると、次のような
興味深い研究結果が報告されている。
例えば水を飲もうと思って、コップのほうに手をだそうとすると、そう思う0.5秒前に、水を飲む行動に対して、脳はすでに動きだしている。「水を飲もう」という意識は、「無意識である」脳機能の後追いなのである。(養老孟司著『無思想の発見』ちくま新書)
これが本当だとすると、人間の自由、意志とは何か、はたして存在するのか、改めて考えさせられる。
哲学者ヘーゲルは意志の自由について次のように述べている。
意志の自由とは単なる恣意、つまり偶然性の形式のうちにある自由、他から強制されないで自ら進んで選ぶという選択の自由にほかならない。自分が選択の自由によって選んだのだから、自由で最も主体性を発揮しているように見えても、それを選択したその根拠になるものは多かれ少なかれ外部の事情に基づいている。したがって本来の内容のある自由ではなく、たんなる形式的な自由にすぎない。
これについては教理から考えると、心の自由は許されているので、選択は何にも依存しないように思われるが、心のほこり、いんねん、つまり過去の心使い、通り方によって拘束されている、従って自由ではないということになる。
結婚相手を例にして考えると、誰を選ぶか、その選択肢はすでに決まっているが、その中から誰を選ぶかの選択の自由は残されている。しかし結婚の旬がきているときは、その余地はなく、選ばされることになるのではないだろうか。
原典において自由、自由自在はどのように教示されているのであろうか。
おふでさきには「ぢゆよ」、「ぢゆよじざい」が数多く散見されるが、これらはあくまでも神の立場からのものであるので、ここでは触れないでおくことにする。
人間の立場からの自由、自由自在についてみてみよう。
『正文遺韻抄』(諸井政一著)に次のように記されている。
「めいめいのおもふやうに、ばかりはいかんといふが、これが一ツのふそくである。そのふそくをないやふに、おもい通り、おもわくどほりかなへてやったら、それで十分やろ。このたびは、ここの一ツをおしへる道である」(一九一頁)ここから「おもひ通り、おもわくどほり」に成ってくることが、「ぢうよじざい」であると思われやすいのであるが、はたしてそうであろうか。
松本滋氏は、そのように「ぢうよじざい」を解して、それを「身上の自由」と「思いの自由」(自分の思い通りになってくること)に分けて考察している。(『これからの人間の生き方』一八五頁)
「身上の自由」については問題はないが、「思いの自由」については少し議論の余地があるのではないだろうか。
『論語』において孔子は「七十にして心の欲する所に従いて矩(規範)をこえず」と述べているが、これと「思いの自由」とは同じように考えることはできないと思われる。「思いの自由」においては「矩」は対立するものではありえず、それを超越しているからである。
では「思いの自由」はどのように考えられるのか。
なるほど親神は人間に「病まず死なず弱らん」の「百十五才定命」という「めづらしたすけ」を約束されているので、それが実現すると「思いの自由」がかなうかもしれないが、そこにおいてはもはや欲、高慢に代表されるほこりは一切ないのであるから、「思い」も親神の「思い」から離れたものではありえない。
したがって自由自在といっても、思うことがそのまま何でも実現するというようなものではなく、また神の「思い」があくまで先行するのであるから、「思いの自由」とはむしろ「成ってくる理」を喜び、楽しむ自由であり、それが「ぢうよじざい」になるのではないだろうか。
「自由自在は、何処にあると思うな。めんめんの心、常々に誠あるのが、自由自在という」
(M21,12,7)
「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」(おかきさげ)
これらのお言葉から「誠」の心に自由、自由自在があり、「誠」の心の持主が「成程の人」であることがわかるが、この「成程の人」とは、「思いの自由」を実現する人というよりも、「成ってくる理」を楽しめる人であると思われる。
なぜならば「たんのうが誠。心に誠さい定めば、自由自在と言うて置こう」(補遺M21,5)
からわかるように「誠」は、「たんのう」で「成ってくる理」を楽しむことであるからである。
次に「誠」がなぜ「自由自在」となるのか、を考えてみよう。
まず教祖のひながたにおける「自由自在」の具体例をみてみよう。
教祖は明治七年から十九年の間に警察、獄舎へ何度も御苦労下されていますが、常に平静であられるのみならず、高山へのにをいがけの機会として勇んで出かけられています。また獄舎においても、我が家で孫と遊んでおられる気分で、退屈そうな巡査にお菓子を与えようとされたり等、環境の影響を全く受けられず、自由の世界におられますが、このようなことはなぜ可能であろうか。
ある人は、教祖は生き神様であられたので、できたのであって、我々凡人には到底まねはできず、不可能であるというかもしれない。
しかしもしそうなら、あの御足跡は教祖のみのもので、我々にとってのひながたにはならないことになってしまう。
教祖が「ひながたの道を通らねばひながた要らん」といわれるからには、それは我々にとっても可能であるはずである。ではどうすれば可能になるのか。
「これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん~~事情の理に治め」(おかきさげ)
このお言葉は「運び尽し」は、人のためではなく、自分のためにしていると思え、と解されている。しかしこれは単に「運び尽し」に対してのみならず、すべてのことにも妥当するのではないか。
教祖は世界だすけのために、貧のどん底におちきられ、人から笑われ、そしられながら、やむにやまれん御心で御苦労下されたのも、教祖は人類の母親であられ、世界だすけを我が身、我が家のことと思われたからこそであり、それゆえに先述のような自由自在の境地が可能となったのではないだろうか。
このように考えるとき、我々が自由自在になれないのは、すべての御用、「成ってくる理」を我が事として受け取れないからということになる。
「運び尽し」が教会、会長のため、人救けが他人のため、とみなされるから、御礼を言ってもらえない、思うようにご守護をいただけない、見返りがない等の不足がでてくるのであって、「運び尽し」は自分のため、人救けは、自分の子、兄弟、身内のたすけで、なんとかせずにおれない、放っておけないと思えるとき、そのような不足はなくなるのではないだろうか。
このように考えるとき、「誠」が自由自在であるのは、「誠」が親心にほかならず、そこには自分と他人という対立はなく、親子、兄弟、身内のような関係しかないからである。
自由自在とは、自分の思い通りになってくるというよりも、「自分に由って、自分に在る」(随処に主となれば立処皆真なり『臨済録』)
という意味で、全てのことを「内々事情の理、めん~~事情の理に治め」ること、つまり「誠」によって成立するのであり、この「誠」に少しでも近づくことが今我々に焦眉の課題として求められているのである。
したがってこの自由自在は、我々にとっての成人の目標でもある、ということができる。