「この冬は,三十年来の寒さであったというのに、八十九才の高齢の御身を以て、冷たい板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である。」(『教祖伝』二九一頁)
教祖は明治十九年二月十八日から三月一日までの十二日間、櫟本分署にて最後の御苦労を下されます。
拘留の理由は心勇組(敷島の前身)の講中が門前の村田長平方の二階でてをどりをしたためと考えられていますが、それは契機でありまして直接的には『御守の中に入れたる文字記してある「キレ」出でしより、其品を証拠として教祖様及び真之亮を引致したり。桝井と仲田ハ屋敷に居りし故引致せらる。』(『ひとことはなし』二三三頁)からわかりますように、「御守り」の交付の責任の所在に関わるものです。
明治十七年八月十八日から十二日間の御苦労の拘引理由と同じで、「違警罪第一条第九項」の違反であります。「神官、僧侶ニアラズシテ他人ノ為メニ加持祈祷ヲナシ、又ハ守礼ノ類ヲ配授シタル者」に当たるとみなされたわけです。
また次のような見方もあります。
『教祖に対する告発は不敬罪でもなく、また菊の紋を使ったことに対するものでもなく、違警罪第四二七条の十二、すなわち「妄ニ吉凶禍福ヲ説き、または祈祷符咒ヲ為シ人ヲ惑ハシテ利ヲ図ル者」に対する処罰で、これを犯したときは「一日以上三日以下ノ拘留ニ処シ又ハ二十銭以上二円二十五銭以下ノ科料ニ処」されるのが普通であるのに、教祖の場合はこの規定をはるかに越える十二日間という拘留を課している。それは旧刑法の再犯加重ないし併合罪を適応したからである。いずれにしても適応した刑は違警罪であり、決して不敬罪でも重罪でもない。』(『お道の弁証』飯田照明著533~534頁)
違警罪とは明治刑法(明治十五年施行)では重罪、軽罪の下の一番軽いもの、拘留、科料に処せられるもので、教祖の場合は政治犯では決してありません。
従って明治十九年頃は、軍国主義が大いに宣伝されていたので、その時代に世界一列兄弟、たすけ合いなどと説く人間は、政治犯とみなされたり、重罪人とみなされるというようなことは、考えられません。
大日本帝国憲法制定は一八八九年(明治22年)で、ここではじめて天皇が神聖にして不可侵という国家神道における立場が明確にされることになりますが、それまでは明治政府の宗教政策は二転三転していて、各宗教は自主的な教化活動を行うことが認められていたようです。(『国家・個人・宗教』稲垣久和著 講談社現代新書31頁)
本教への本格的な弾圧がはじまりますのは、明治二九年教祖十年祭が執行されました翌月の内務省秘密訓令甲第12号が発布されて以降のことであります。
重罪人ということは「不敬罪」つまり天皇を尊敬しない罪で、教祖にとっては一列兄弟で、天皇も普通の人間も親神の子として平等ですから、この教えから直ぐに、天皇を無視している、軽視している、だから「不敬罪」である、というのはあまりにも短絡視した浅はかな見方ということになります。
「神聖にして不可侵」という天皇の立場は、明治二十二年に制定される帝国憲法以降のことで、それまでは時の政府も「不敬罪」を振り回すことはできなかったので、明治十九年の時点で「不敬罪」を当てはめることは論外ということになります。
伊藤之雄氏は「明治天皇については、第一次大戦を経て、国民に不安感が広がった1920年代、英雄を求める機運もあったことから神格化されている。」(『明治天皇』ミネルヴァ書房)と述べています。
明治四十三年(教祖が現身をかくされてから二十三年、教祖が現身をもたれていますと百十三才の年)に大逆事件がおこります。これは社会主義者の幸徳秋水をはじめとする十二名が天皇暗殺未遂の疑いをかけられ、天皇の名で処刑される事件です。このときは「大逆罪」が適用されます。
この事件は後に検事の手による冤罪であることが証明されますが、この時には、社会主義のイデオロギーを少し主張するだけで、不敬と見なされ、逮捕されたり、処刑されるというようなことが起こっていましたが、明治十九年の時点では、このようなことは全く考えられません。
しかし問題は違警罪の教祖が官憲から拷問をうけたか否かで、肯定否定の見方があります。辻忠作さんは次のように記しています。
「其時さし入にゆき居るに巡査が教祖様を無暗に打ちょふちゃくすること甚だ敷く誠に見るも涙の種思ふもかしこきこと事にぞある後三月中ごろから中田儀三郎煩ひとなり五月末に死去なりました」(『復元』第三一号、四十頁)
仲田儀三郎さん(当時五六歳)の死去が、改宗をせまる折檻によるものかどうかはわかりません。
しかし教祖への打擲については事実かどうかは疑わしく、忠作さんが差し入れ(これも不確実)にいって、そのような現場を見ることなど考えられません。分署に入ることすら自由にできず、分署の中の様子は、教祖に昼夜の別なくお側に仕えられた、ひさ様に差し入れられた弁当箱のタブレットを通してしか知ることができなかったようです。
またひさ様の書き残されたものの中には、忠作さんの名前は全く見当たりません。一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています。
ひさ様は教祖が井戸水を浴びせられたという風説を聞くたびに、『「老母様には一寸だって水なんかかけさせなかった」とさながら自分が咎められているかの様に、力説いたされました』(『ひとことはなし』二四六頁)とも記されています。
教祖にはひさ様が付き添われますが、付き添いをゆるされ、夜具類は何一つ与えられない中、座布団を二枚持ち込められたのも、「其真の心(ひさ様の)ニ署長初ぢゅんさもみな~~かんじて、おひさ様のゆふ事ハみな~~ゆるしてくれたる事であり升」(『静かなる炎の人』一二二頁)と記されていますように、警察側に教祖の御健康を気遣い、配慮があったためと考えられます。