2013年7月5日金曜日

No.94 教理随想(45) 最後の御苦労(2)

教祖の最後の御苦労を打擲説を肯定して、イエスの十字架の磔刑と重ねて見る見方もありますが、言語道断というほかありません。
 
イエスの磔刑の様子については、『マタイ伝』二七章に詳細に記されていますが、イエスはユダヤ人の王として、ユダヤ教の正統派であるパリサイ派、サドカイ派の反感を買い、ローマ帝国の支配下にあったパレスチナの地に政治的危険をもたらす人物と映り、約二年間の伝道はローマの国法にふれるものとみなされ、政治犯としてエルサレム門外のゴルゴタの丘で処刑されたわけです。また直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお捨てになったのですか)と叫んだと言われています。

イエスを「神の子」であるとする信仰は、イエスが死後三日後に霊的に蘇り、それを信じた弟子たちの間にはじめて芽生え、弟子のパウロを中心にして、イエスはキリスト(救世主)であるとの信仰が確立されるようになります。イエスは自らをキリスト教の開祖であると決して認めていなかったわけであります。
 
ところで打擲説の認否にかかわらず、教祖は三十年来の寒さの中、お休みのときは「上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被り、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれ、分署から支給されるものは何一つ召し上がられず、梶本家からの鉄瓶に入れた白湯のみをお飲みになられておられたためか、分署から帰られてから連日お寝みになられていることが多かったようです。

また「耳は聞こえず、目はとんと見えず、という状態であった」(『根のある花、山田伊八郎』八一頁)と記されていますが、これをどのように受け取ればいいのでしょうか。
 
『教祖伝』に教祖の御苦労については「親神が連れて行くのや」、「皆、親神のする事や」、「とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや」(二九〇頁)と記されています。ということは教祖の御身が不自由になられたのも、親神のされることとなります。

『おふでさき講義』に「十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ」(三、73)は明治二十年に教祖が現身をかくされる御予言である、と説明されています。おふでさき第三号は明治七年一月より書かれたもので、この年十一月大和神社での祭神問答をきっかけにして、十二月に山村御殿への御苦労が始まります。
 
そして十二月二十六日に四名の者に身上だすけのさづけが渡されます。さづけは「存命の理」に基づくことを考えますと、教祖は現身をもたれたままで、身体的制約のため不十分ではありますが、「存命の理」としてのお働きを具体的な目に見える形で示され始めたと悟れるのではないでしょうか。
 
従って分署から帰られて十二日目の三月十二日のお言葉、「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな」(『逸話篇』一八五)の「その働き」とは「存命の理」としてのお働きで、現身をもたれていることによって、制約されない自由なお働きができないと考えることができます。

また分署からお帰りになられた三月一日は陰暦の正月二十六日で、それからちょうど一年後に教祖は「やしろの扉」を開かれ現身をかくされますが、その一年間につとめの急き込みとともに、「存命の理」の信仰を確立するための教祖のさらなる御苦労が続けられることになる、と悟らせて頂けるのではないでしょうか。
 
最後の御苦労を通して教えられますことは、「蝉の抜け殻」(『おふでさき注釈』170頁、教祖は小寒様の出直しに際して、「お前は何処へも行くのやない。せみの抜けがらも同じ事、魂はこの屋敷に留まっている。またこの屋敷に生まれ帰って来るのやで。」と、さながら生ける人に物言う如く微笑やかに仰せられたという。)同然の分署を訪れ、そこでの御苦労を涙ながらにしのび、たすけ一条の決意をするという皮相的なことではなく、私たち子供の成人の鈍さゆえに、教祖のその御苦労が百十五歳の定命を二十五年縮められ現身をかくされる遠因となったことへのおわびと、たすけ一条の根拠であります、ぢばを中心とする神一条の信仰、「存命の理」への信仰、「元の理」によって教えられます生命の根源への思慕、つとめ一条の信仰を改めて問い直すことで、それによって真のたすけ一条の心定めができるのではないかと思われます。