ところで「やまずしなすによハらすに」の中の「しなす」とは、仏教における解脱、もはや生まれかわりのない永生とおなじような意味をもつものでしょうか。少し検討をくわえてみましょう。
まず仏教、キリスト教の不死についてみますと、仏教ではこの世は一切皆苦で、解脱によって迷妄他律の此岸をこえ、彼岸の自律、自由の世界、涅槃の境地、もはや生老病死の苦のない不死の世界に入ると考えられていますが、この彼岸とはあの世、あるいは肉体を遊離した精神の世界に他なりませんので、死の真の超越にはならないと思われます。
キリスト教においても同様で、この世は罪と死の世界で、ここを脱し、天国において永遠の生命を得ることが説かれますので、不死といいましても、この世でないところに求められることになります。
したがって死の超越は、キリスト教、仏教においては、あの世、あるいはこの世においては精神の中でのみ、なされる非現実的、抽象的なものにすぎないと思われます。
では本教において「しなす」、不死とはどのように考えられるのでしょうか。
たすけでもあしきなをするまでやない
めづらしたすけをもているから
(十七,52)
このたすけどふゆう事にをもうかな
やますしなすによハりなきよに
(十七、53)
このおふでさきから、不死は「めづらしたすけ」によって実現することが分かりますが、このたすけは単に病気を治したりするようなたすけではない、と教えられていることから考えますと、人間の魂は生き通しでありますから、人間は不死であるとの解釈や、いんねんのままに生き、死んでいくのを死ぬといい、少しでもいんねんを納消して出直すことが「死なず」に通じる等の見方は十分でないと思われます。
それでは人間は百十五才まで生きられる素質があるので、百十五才までに出直すことが死ぬで、それ以上生きる場合は「死なず」になるのでしょうか。
『おふでさき通訳』(芹沢茂著)では「死なず」は「若死にしない」こととして、また『おふでさき講義』(上田嘉成謹講)では、百十五才までに出直さないことと解釈されていますが、今の段階では百十五才以上の寿命(現在において一部実現されています)と「めずらしたすけ」とは必ずしも結びついていませんので、そのような解釈も十分ではないように思われます。
そののちハやまずしなすによハらすに
こころしたにいつまでもいよ
(四,37)
のおふでさきから次のようなことが言えるのではないでしょうか。
「心したいに」いつまでも寿命を与えていただけるということは、出直しもまた心次第であるということ、つまり「もう百十五才もはるかにすぎたので、この辺で出直しさせてもらおう」と思うと、その願いを即座にかなえてもらい、出直す月日、時間や、場所や生まれ変わるところまで分かるようになったり、指定できるようになることが、「死なず」の意味と悟ることができるのではないでしょうか。
(尾崎栄治著『しあわせを呼ぶ心』昭和53年、284~285頁参照)
もしこのような悟りがゆるされますと、「死なず」とは、これまでの人間のように、死の時期、原因も一切分からず、死にたいする恐怖を持って出直すという絶対的他律としての死ではなく、いわば相対的自律としての死を意味し、死はもはや不安や恐怖の対象ではなく、喜びをもって迎えることができるようになるでしょう。
そしてそのような死において彼岸における死の超越ではなく、此岸における死の超越が可能になるのではないでしょうか。
この此岸における死の超越といいましても、単に肉体から遊離された精神において(この場合は超越といっても死からの逃避にすぎず、死に対する恐怖は依然として残っています)ではなく、まさしく肉体における超越ということになりますが、このような死を迎えることができますと、私たちはもはや不安や恐怖もなく、むしろ喜び、安堵を感じながら、死を迎えることができるのではないでしょうか。
「めづらしたすけ」によって、以上のような極楽が具体的に実現されることになりますが、このような極楽は、私たちが生まれかわり出かわりする中に、私たちが生かされている大恩を人救けによって報じ、心をすみきらせる努力によって、たとえその道がいかに遠くとも絶望することなく、実現しなければならないものであります。
したがいまして「死んで天国へ」というような甘えや、生まれかわり出かわりから脱して、永遠の世界に生きるというような夢想は絶対に許されないと思われます。
次に「出直」と救済の問題について考えてみましょう。
中島秀夫氏は「出直」と輪廻を比較して、
・・・「出直」は、ややもすると、死と再生の生命サイクルと同日に論じられたりするが、もとより、それとは異なる。ましてや、輪廻の思想とは明確に区別されなければならない。たしかに、それは反復、円環の運動で説明しうる理論的条件をもっている。しかし、それは単なる反復や同一地平での円環運動ではなくて、いつも親神の救済の力によって引き上げられつつ、螺旋状に上昇する円環運動の線で説明されるべき内容を包み持っている・・・ (『G-TEN』6号13頁)
と述べていますが、親神の力によって「引き上げられる」とは一体どのような意味を持つのでしょうか。
まずニーチェの永遠の回帰の思想を一瞥してみましょう。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、
・・・一切の事物が永遠に回帰し、わたしたち自身もそれにつれて回帰するということ、わたしたちはすでに無限の回数にわたって存在していたのであり、一切の事物もわたしたちとともに存在していたということです。・・・(岩波文庫[下]138頁)
という一見輪廻と同じような永遠回帰を教えていますが、それは、
・・・わたしはふたたび来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。新しい人生、もしくはよりよい人生、もしくは似た人生にもどってくるのではない。わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ。・・・(同書139頁)
からわかりますように、現在と全く同一の人生が無限にくりかえされる「単なる反復や同一地平での円環運動」にほかならず、「出直」の円環運動とは全く異なるもので、そこには救済の要素が全くありません。