2014年1月31日金曜日

No.97 教理随想(48) やさしき心

やさしき心
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」
(『逸話篇』一二三)                            むごい心をうちわすれ 
やさしきこゝろになりてこい
(五下り、六ツ)                   
 
このお言葉は教祖が入信後間もない梅谷四郎兵衛さんに言われたもので、信仰の角目をわかりやすくお示し頂いています。
「やさ(優)し」の意味は、『広辞苑』には(1)さし向うと恥かしくなるほど優美、(2)素直、おとなしい、温順、(3)情深い、情がこまやか(4)けなげ、殊勝、神妙等と示されていますが、本教ではもっと積極的な意味を教えられています。

『みかぐらうた講義』(深谷忠政著)によりますと、やさしき心の反対の「むごい心」は両手で押える手振りから、強い者が弱い者を押える非道で情知らずの、我さえよくばの利己主義の心であるのに対して、「やさしき心」は手を平にして円を描き、両側から抱きかかえて押しいただく形の手振りから、人を抱きかかえる思いやりのある心、即ちたすけ一条の心と理解されています。
 
又おさしづには、
「どんな事も心に掛けずして、優しい心神の望み」     (M34.3.7)、
「たんのう安心さすが優しき心と言う」(M33.4.21)、
「優しき者は日々満足。満足は小さいものでも、世上大き理に成る」(M33.7.14)、
「皆来る者には優しい言葉かけてくれ。…年取れたる又若き者も言葉第一、男という女という男女に限りない」(M34.6.14
等と教えられ、優しさは老若男女にかかわらず求められ、たんのうに根差していることがわかります。
 

教祖は人類の母親である、いざなみのみことの御魂のお方で、
          一れつのこどもハかわいばかりなり 
          とこにへたてわさらになけれど
              (十五、69
          「反対するのも可愛我が子、
        念ずる者は尚の事。」
             (M29.4.21
に示されますように、我子である人間を救けたい一条で五十年のひながたの道中を通られました。従って「やさしき心」とは「たすけ一条の心」である親心の一つの現われと悟ることができます。
 
教祖五十年のひながた、御誕生からの御道すがらに拝察されます「やさしき心」の具体例をふりかえってみましょう。
 
 教祖は相手が乞食、怠者であれ、軍人であれ一切の隔て心なく「御苦労さま」とお声をかけられています。その優しき心にふれ、怠者の作男は人一倍の働き者に更生し、又佐治登喜治良さんはお声を聞いたとたんに神々しい中にも慕わしく懐かしく、ついて行きたいような気がして、身上も事情もないのに入信を決意したと言われています。(『逸話篇』一四六)

 教祖は米泥棒に対しても、その罪を責めることなく、「貧に迫っての事であろう、その心が可哀想や」とかえって労りのお言葉をかけられた上、米を与えてゆるされています。

 また明治十九年二月十八日からの櫟本分署での最後の御苦労の際にも、道路にそった板の間に坐らせて、外を通る人に見せてこらしめようとする巡査に対しても、孫のひさに「あのお菓子をお買い」、「あの巡査退屈して眠って御座るから、あげたいのや」と言われ、底なしの深い親心を、どこにおられても示されておられます。

「やさしき心」とは、このように見てきますと、たすけ一条の心、親心の一つで極めて積極的な意義をもつもので、誠の心と同じであると悟ることができます。

「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い」、「一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという、一つの理が治まるという、それ世界成程という」、「人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという」(「おかきさげ」)

「やさしき心」がたすけ一条の心に通じるものであり、たすけ一条の心から真の「やさしき心」が生じてくることを、教祖が「月日のやしろ」にお定まり下さいます以前の道すがらの中から学ばせて頂きたいと思います。

 教祖の夫善兵衛さんと女衆かのの事件について、『私の教祖』(中山慶一著)にみられます悟りを基にして思案してみます。(「御貞節」136~145頁参照)

 善兵衛さんと、かのの事件は、いつのことか明確ではなく、色々の推測や憶測がなされています。仮にこの事件が教祖十九才前後の事としますと、結婚以来六年で、まだ子供がおられないときで、当時の社会事情からしますと、全く考えられない事件というわけではありません。

 問題は妻であられる教祖が、かのに対してどのようなお心で、どのような態度を取られ、どのように接しておられたかということであります。

 ある日隣家の足達家の当主が、中山家に敬意と親しみを感じている上から、他人事と思えず、秘かに教祖に二人の様子に気をつけるように忠告します。これをお聞きになられた教祖は少しも動揺されることなく、心からその厚意に感謝された後、「夫の身持に関する限り、妻である自分が一番良く承知して居ります。決して人々の口の端に上る様な事はございませんから、何卒御心配頂きませぬよう」と確信のある態度でお応えになられたと伝えられています。

 この事情をお知りになられても、夫の心を忖度なされ、妻として夫の心に充分の満足を与えることが出来ず、夫の心に隙を与えた身の不徳を、強く反省なされ、もし夫の心に隙や淋しさを与えたとすれば、それは全部妻たる自分の責任である、と氏は教祖の御心中を推察されています。

 したがいまして教祖は夫を恨む事なく、却って申し訳がないという、一入お優しい思いやりをもって、夫の心の安まるように仕えられ、憎い(私たちから見て)かのに対してさえ、「自分の足りないところを自分に代って夫の心を慰めてくれるのだ」との思いで、「ご苦労様」という労りさえこめて、かのを可愛がっておられます。ここには決して悲しいあきらめの姿は見えず、積極的に事態に対処されている様子がうかがわれます。

 夫がかのを連れて名所見物にでかけようとしているときに、夫の気持ちを汲まれて、かのにお供するようにお声をかけられ、御自分の晴れ着を貸し出され、大家の若奥様のような髪型に結い上げられ、御自分の立派な櫛、かんざしまでも出され、かのの頭に飾っておやりになられます。そして送り出されておられます。

 かのは教祖の敵への底なしのご親切を裏切り、教祖を無きものにしようと悪だくみを企て、ある日食事の汁のものに毒を盛ります。これを召し上がられた教祖は、やがて激しく苦しまれますが、その原因がかのの仕業であるとお分かりになられたときにも、かのを責められることなく、苦しい息の下から、「これは、神や仏が私の腹の中をお掃除下されたのです。」(『教祖伝』17頁)と宥め許されておられます。

 この事件を氏は「徹すれば道開ける」という真理であると悟られています。
 後年になって「捨てゝはおけん、ほってはおけんと言う処まで行けば神が働く」と諭されていますが、真実の限りを尽して親神様が「捨てゝはおけん、ほってはおけん」と思召し下されるところまで徹し切れば、如何なる難局も必ず打開されるものであるという事を、身を持ってお示し下されているものと悟られています。

 我々は、常に相手の非行をのみ責めようとしますが、それは決して事態を解決する道ではありません。事情の縺れの原因と責任の半分は、必ず自己にもあるものであります。己の心と態度が変わる事によって、必ず事態は解決するものであるという、真理をお教え下されているものとも悟られています。 

最近女性が結婚の条件の第一に男性に求めることが、優しさであると言われていますが、このような優しさは、自分を甘やかしてくれ、我ままを受け入れてくれるという自己中心的なもので、かえって心のほこりとなるようなものと思われます。
 
誠と同じ意味での「やさしき心」は、癖、性分をとって、いかなる事が起きても、相手を責めるのではなく、「我が身うらみ」として受け止め、たんのうの心を治め、親心に少しでも近づかせてもらい、たすけの心が生れるときにはじめて、自ずと出てくるのではないでしょうか。

『諭達第二号』に「成人とはをやの思いに近づく歩みである」、「この果てしない親心にお応えする道は、人をたすける心の涵養と実践を措いて無い」とお示し頂いています。見方をかえますと、成人の目標とは「むごい心をうちわすれ やさしき心になりてこい」ということもできると思われます。

 また『諭達第三号』に「慎みを知らぬ欲望は、人をして道を誤らせ、争いを生み、遂には、世界の調和を乱し、その行く手を脅かしかねない。我さえ良くばの風潮の強まりは、人と人との繋がりを一層弱め、家族の絆さえ危うい今日の世相である。まさに陽気ぐらしに背を向ける世の動きである。
心の拠り所を持たず、先の見えない不安を抱える人々に、真実のをやの思いを伝えて世界をたすけることは、この教えを奉じる者の務めである。

今こそ、道の子お互いは挙って立ち上がり、人々に、心を澄まし、たすけ合う生き方を提示して、世の立て替えに力を尽すべき時である。」と明示されています。そのために求められていますのが、まさに「やさしき心」であると言えるのではないでしょうか。