2014年3月15日土曜日

No.98  教理随想(49)  本席飯降伊蔵

飯降伊蔵さんが本席に
定まれるまで

飯降伊蔵さんは、明治20年3月25日、本席に正式に定まられます。教祖がおられる間は、神様のお話を直接聞かしていただくことができましたが、現身を隠されてからは、今度は本席を通してご神言をありがたいことに、聞かせて頂くことが出来るようになります。キリスト教、仏教では教祖、開祖の亡き後、直接の神言はなく、弟子たちが、教祖や開祖の言葉を思いだして、いろいろな福音書や経典にまとめるようになりますが、いろいろ異なった解釈を生み出す原因となり、教団が分裂していく要因となります。そのために教祖は本席を育て上げられたわけです。伊蔵さんの入信から本席になられるまでの経緯を簡単に振り返ります。

元治元年に奥さん、おさとさんの二度目の流産後の煩いをおたすけ頂いてから、明治十五年までの約20年間、伊蔵さんは朝早くから、仕事のあるときは、仕事が終わってから毎日雨の日も、風の日も、休むことなく、お屋敷に通われ、御用を続けられます。

その間、教祖から「伊蔵はん、この道はなあ、陰徳を積みなされや。人の見ている、目先でどんなに働いても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うているようでは、神様のお受け取りはありませんで。なんでも人様に礼を受けるようでは、それでその徳が勘定ずみになるのやで」とお仕込みさますと、早速に実行され、夜中、家路を急ぎながらも、こわれた橋を見つけると修理をし、もぐらが穴を開けて水漏れしていれば、だれの田もおかまいなく、これをつくろったりされたそうです。
そしてそのことが村人の知れるところとなりますと、「困ったことになったわい」と嘆いておられたようです。

また「理を立てて身が立つ。必ず人様を立てるようにして自分は上がらぬようにせよ。よしや人々より立てられる身となっても、高い心を使わぬようにすることが肝要である。十人の上に立てられたならば、十人の上に立って、十人の上の仕事はしていても、その心は十人の一番下に置くように。千人万人の上に立てられた場合も同様、その心は千人万人の一番下に置くようにせよ。」と諭されますと。道を通るときも、誰かれなく自分のほうから先に挨拶をされ、墓地への参拝のときも、道端の乞食にも挨拶をされ、その前を通られたそうです。
 
 教祖は伊蔵さんを、入信前から本席として定めることを予定されておられたように思います。
 元治元年教祖は「大工がでてくる。でてくる」と予言され、伊蔵さんが五月にお屋敷にこられると、「さあさあ、待っていた、待っていた」と仰せられ、おたすけされます。
 同年十月つとめ場所の棟上式の翌日、大和神社のふしがあります。それまでついてきていた信者はほとんど離れてしまいますが、伊蔵さんだけは一人残られ、後始末と内造りを続けられます。
 
 その後三年ほど、伊蔵さんはお屋敷に常詰めされ、これより九年間は、忙しい大晦日には、自分の家はさておき、決まってお屋敷の掃除をし、祭壇を整え、迎春準備をすませたうえで、帰宅、明けて正月には誰よりも先に、お参りされたそうです。
 
 二代真柱様は『ひとことはなし』の中で、「この九年の勤め、只一人でのつとめ、一筋心に親神様にお仕えされたそのうちに、後年本席としての理をつまれたものと悟られます」と述べられています。
「丸九年という~~。年々大晦日という。その日の心、一日の日誰も出てくる者も無かった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、ついてきてくれたと喜んだ日もある。これ放って置けるか。それより万事委せると言うたる」(M34,5,25)
ここに伊蔵さんへの全幅の信頼が感じられます。

 伊蔵さんは教祖のお言葉には絶対に服従で、素直についてこられますが、慶応年間とも明治元年のころともいわれる「お屋敷に入り込め」とのお言葉だけは、なぜか聞いておられません。
 
 つとめ場所の内造りのころ、夫婦ともども子供がまだなく、身軽だったこともあって、三ヶ月間、お屋敷に住み込まれますが、すでに子供三人、弟子一人を含め、六人が住み込む余裕はない、との人間思案、おはるさんのご主人、梶本惣治郎さんの「行ってもよかろうが、今のお屋敷の状態では、さしずめ食うに困るやろ」と意見、また村人の「金が要ればだしてやる。家が狭ければ普請の材木もだしてやるから、あんなところにはいきなさんな。どうでも行くというなら、乞食する覚悟でいきなはれ」と助言等によって躊躇をせざるをえなかったようです。
 
 それでも教祖は気長に辛抱強く待ち続けられますが、明治十四年、いよいよ時が熟してきます。
 伊蔵さんは仕事中、どうしたはずみか足を踏み外して腰を抜かす、次女のまさえは風眼(?)、長男政甚は口がきけない、という節をみせられます。
 そこで伊蔵さんも、いよいよ決断され、まず明治十四年九月、おさとは、まさえと政甚を連れて、つづいて明治十五年3月、伊蔵さんは長女よしえを連れて、お屋敷にに移り住まれることとなります。伊蔵さん五十才、おさと四十九才のときです。
 
お屋敷では伊蔵さんは、すでに年切り質からかえっていた、お屋敷の田畑にでて、慣れない野良仕事をされます。夜なべには、内職にお社造りをされ、子供の養育費にあてられたようです。有形無形の苦労がつづきますが、しかし教祖から「さぞつらかろうが、もうしばらくであるほどに、気を長く持って、堪忍なされや」、「これまでの苦労の理は、一夜の間にも取り返してみせる。子供のことは何も思うやないで」と諭され、それに勇気付けられ日々を通られます。
 
 明治十五年十一月九日、伊蔵さんは弟子が宿屋の寄留届けをおこたったことを理由に、奈良監獄署に十日間拘留されることになります。これも神様からのためしのように思われます。

 伊蔵さんは元治元年に夫婦そろって扇と御幣のさづけを頂き、明治八年ごろ、言上のさづけを頂かれます。
 
 さらに十三年、「ほこりの仕事場」と称されるようになります。これは人間の事情に対処する立場で、「若き神」といわれた、こかん様が、明治八年に出直されてからは、教祖はよく、「ほこりの事は仕事場に回れ」といわれ、伊蔵さんに任されたようです。
 
 明治二十年正月から、教祖のご気分すぐれなくなられますが、そのとき、「伊蔵さんに扇を持ってもらってくれ」指図されたとも語り伝えられています。
 教祖が現身をかくされたとき、御休息所の教祖の休んでおられた次の間に控え、のち一同を前に内蔵の二階で現身おかくしの神意が明かされることになります。

 明治二十年二月二十三日、教祖のご葬祭が盛大に万余の参列者が押し寄せる中、執行されます。そのときの指図は伊蔵さんに伺われたようです。
 
  三月四日「刻限御話」がでます。
「さあ~~身の内にどんな障りがついても、これはという事がありても、案じるではない。神が入り込み、皆為すことや」
 三月十一日、伊蔵さんは昼食のあと、身体のだるさ、悪寒を訴えます。
「額から玉のような汗がでて、汗が飴か納豆のように、ふくたびに糸を引く。顔は引付をおこしたようだった。」と言われています。また、あばら骨がブギブギと大きな音を立てて、一本一本、右のほうから、左のほうからおれていく。すると今度はおれた骨が一本一本、元にもどっていく、という不思議な現象がおこり、その音はそばで見守る者の耳まで届いたといわれています。
 
 十一日から二十五日までの十五日間に三十一回にわたって、「刻限御話」がだされます。
 三月十七日午後七時の刻限御話、
「さあ~~今までというは、仕事場は、ほこりだらけでどうもならん。さあ~~これからは綾錦の仕事場。(中略)さあ、すっきりとした仕事場にするのやで。綾錦の仕事場にするのやで。」
 
 このお話から伊蔵さんの半月に渡る身上を通してのお仕込みは、これまでの「ほこりの仕事場」から「綾錦の仕事場」へのしこしらえのためのものであったことが分かります。

 三月二十五日午前五時半の刻限御話、
「・・・神というものは、難儀さそう、困らそうという神はでて居んで。・・・それ故渡すものが渡されんだが、残念情なさ、残念の中の残念という。・・・さあ返答はどうじゃ。無理にどうせと言わん。」これにたして「いかにも承知致しました」と答えると、続いて「・・・やりたいものが沢山にありながら、今までの仕事場では、渡した処が、今までの昵懇の中であるが故に、心安い間柄で渡したように思うであろう。この渡しものというは、天のあたえで、それに区別がある。・・・さあ~~本席と承知がでけたか~~~。さあ、一体承知か。」
 これにたいして初代真柱様より「飯降伊蔵の身上差し上げ、妻子は私引き受け、本席と承知」と申し上げられ、ここに神の思し召しによって「本席」と正式に定まられることになったわけです。
 「やりたいもの」、「天のあたえ」とは言うまでもなく、おさづけのことで、おさづけを渡される立場が、「綾錦の仕事場」ということなります。
 これより二十年間、刻限と伺いにたいする、おさしづと、さづけが本席を通して私たちに渡されることになります。
 本席は明治四十年六月九日正午ごろ、七十五才で出直しになられます。