2014年7月27日日曜日

No.106 教理随想(57) 生まれ更わり(4)

 さて輪廻の原義は流れること、生あるものが、さまざまの形態の生をくりかえすことを古代インドにおいては意味し、それが仏教に入って具体的に五趣(天上、人間、畜生、餓鬼、地獄)あるいは六道(人間と畜生の間に阿修羅が加わる)として転生する世界が明示され、これが業の思想と結びつくようになります。 

そして善き行ないには来世での善き結果、よりすぐれた人間や天人への生まれかわり、悪しき行ないには、下等な人間、動物への生まれかわり等々と説かれ、人間に道徳的行為をすすめる勧善懲悪の積極的な役割とともに、宿命論という、そこから絶対に抜け出すことのできない消極的な役割をもはたすようになります。

このような業思想は、後世に至るまで多大の影響を人々におよぼすようになりますが、この輪廻においては、輪廻の輪からの脱出、つまり解脱が人間にとって目指されるべき究極の理想であり、それが救済の成就と説かれます。

仏教においては、生まれかわる世界が人間界より上等の天上界であっても、それが輪廻の一部である限り、決して永遠に平安な世界ではない(また人間界に落ちたりしますので)、と考えられていますので、もはや生まれかわらないこと、つまり解脱とは具体的に何を意味するのか分かりません。
生まれかわらなくなった人間は仏陀とよばれますが、それがどのような人間なのか、また生まれかわらなくなった人間は、どこにいて、どのように存在しているのか、については何も具体的に示されていません。

それゆえに生死即涅槃(この世における涅槃)、あるいは即身成仏(この世での成仏)というような考え方がでてくると思われますが、苦からの解放とは何か、救済の完成とは何か、具体的に示されていません。

しかし本教においてはこの世に人間が何度も生まれかわり出かわりしつつ、救済の目標である、この世での具体的な陽気ぐらしが示され、それに向かって成人していくことが求められています。

本教においては人間創造の目的は、この世における、神人和楽の陽気ぐらしの実現でありますから、生まれかわらないことが救済の成就である、と考えることは絶対にできません。
 
 次に輪廻においては人間から動物(畜生)への転生が説かれますが、本教においては、この問題はどのように、考えられているのでしょうか。
 
 諸井政一著『正文遺韻抄』に掲載されています「人間の数について」を少し長いですが引用して検討してみましょう。
「元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、生き物が出世して人間とのぼりているものが沢山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、ああうらやましいものや、人間になりたいと思ふ一念より、うまれ変わり出変わりして、だんだんこうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらうたものが、沢山にあるで」(153頁)
 
 ここには動物から人間への進歩(?)とともに人間から動物への退歩(?)が「牛馬におちて居る者」、「人間にうまれてくる」という言葉によって示されていて、人間の数が元の子数より増えている訳が教えられているように思えますが、人間が牛馬におちること、牛馬が人間に転生することを、文字通りに受け取ることが果たしてできるでしょうか。
 言うまでもなく引用しました一節は、教祖の御言葉に基づくもので、後世の人の作り話であるとは、まず考えられませんから、問題はそれをそのまま受け取るか、あるいはたとえ話として、当時の人の成人に応じた子供向けの話として、受け取るかで、どちらであるかは「牛馬におちて居る者」の解釈いかんによると考えられます。

       いままでハぎうばとゆうハままあれど 
       あとさきしれた事ハあるまい
                   (五、1)
       このたびハさきなる事を此のよから 
       しらしてをくでみにさハりみよ
            (五、2)
 この二つのおふでさきの意味は『おふでさき注釈』によりますと、
「これまでから牛馬におちる、牛馬におちると説く者もあるが、如何なる者が牛馬におちるか、又如何にして牛馬の道から救われるか、今日まで明らかに説き諭した事はないから、だれも知らないであろう」、
「この度は、身に障りをつけて、来世の事をこの世から知らしておくから、現れている我が姿を見てよく反省せよ」
と解され、牛馬は文字通り牛馬とみなされています。

また「来世の事をこの世から知らしておく」とは、今世見せられている病気によって、来世牛馬に生まれるかどうかを知らせる、という意味として解されています。
 ところが、
       だんだんとをんがかさなりそのゆえハ 
       きゆばとみえるみちがあるから
          (八、54)
のお歌の場合、『おふでさき注釈』によりますと「人間は、親神の深い意図によって造られ、神恩によって生かされているのであるが、この神恩の偉大な事を知らず、従って、報恩感謝の道に進まずして、なおも気随気儘の道を歩み、恩に恩を重ねたならば、最後には牛馬に等しい道に堕ちるの外はないから、それが気の毒である。」と解され、牛馬は、牛馬に等しいもの、つまり牛馬そのものではなく、牛馬とみえる、牛馬のようなものとして受け取られていますので、この場合は人間は牛馬に落ちない、転生しないということになります。
 
 先のお歌の「ぎうば」と、今のお歌の「きゆば」の「う」と「ゆ」の文字の違いが、そのような解釈の違いをもたらしているとは、とても思えませんが、『おふでさき注釈』による限りでは、二つの解釈が成立するということになります。
しかし後のお歌の「牛馬とみへるみち」を牛馬のような道と解さず、来世には牛馬になることがみえている道と受け取りますと、牛馬とはあくまで牛馬である、との先のお歌と同一の解釈とみなすことができます。
 
 では一体どちらが正しいのでしょうか。



2014年7月2日水曜日

No.105 教理随想(56) 生まれ更わり(3)

  では矢島氏によると前生いんねんも否定されることになるのか。
 
  氏はその問いに対してとまどいを示しながら、「過去の積み上げでもってこの体はできているのですし、また過去の積み上げでもって意識の世界、無意識の世界、心の世界までできているのです。それで今までの経験でもってものの考え方もある程度決まっているのです。」(『ほんあずま』九八号)と一応過去の影響をみとめながらも、「前世、前々世のこと、先祖のことなどは、今の幸、不幸を支配するほど強くは意識の世界にはのぼってこないのです」[この意味はよくわからないが、前世、前々世のことは、幸、不幸にほんのわずかしか影響がない、と理解する]とのべて、前世いんねんを何とか否定しょうとしている。
 
  氏にとって大切なのは、「現在の心づかいというものは、陽気ぐらしに生きようと思い、助け合いをすれば幸せになれるし反対に殺し合いに借りものを使ったら、途端に不幸せになってしまうほど、幸せ、不幸せを決定的に決める重要な要素なのです」からわかるように現在の心遣いなのであるが、このような議論はよく考えてみると、過去から将来に目を転じさせ、前生いんねんという合理的思考のつまづきとなる問題を巧妙にさけ、常識的な理解へとわれわれを導くだけにすぎないように思われる。いかに現在の心づかいを強調しても、過去を前提としてなってくる現実(特にわれわれにとって不都合な)をいかにうけとめるかの問題の解決は全くできないからである。

       ・・・後々誰の生まれ更わり言えば世界大変。一つ事情よう聞き分け~~・誰がど
   う、彼がどう、とは言わん。想像これ一つどうもなろまい。・・・・(M31,4,29

 は決して生まれ更わりを否定しているのではなく、誰の生まれ更わりの詮索を制止しているところに、かえって生まれ更わりの真実性が間接的に教えられ、前生が直接的に分からず不透明であることは、親神の慈悲であることが同時に教えられているように思われる。
 
  したがって氏のような生まれ更わり論は、単に目先の生起する現実にのみとらわれ、なってくる現実の深みにまで入り込まない近視眼的で浅薄なもの、楽天的なものにすぎず、教祖の教えに基づいた見方であるとはおよそ言いがたいと思う。

  次に「出直」は生まれ更わりで、仏教の輪廻と同じように見られやすいが、それと同じものか、違うとすればどの点か、について考えてみたい。
 
  仏教の輪廻について考える前に、まず八島氏の輪廻観についてみてみよう。
 
  さて輪廻の教えとは氏によると、
「前生よいことをした人間が、よい身分に生まれ、前生悪いことをした人間が悪い身分に生まれて、裁かれた結果できている正しい社会なのだから、上の者はあぐらをかいてのうのうと食っていろ、下の者は食べられないで苦しんでも物を捧げ命を捧げて今生を通りなさい、そうすれば来世よくなるよ、こういうふうに言ったのがこの輪廻の教理であるわけです」(『ほんあずま』)と解され、この考え方はインドのバラモン教に由来するとみなされている。
 
  バラモン教では人間はスードラ(奴隷)、バイシャ(市民)、クシャトリア(王、政治家、武士)、バラモン(僧侶)の四階級に分かれ、今生たくさんの罪を犯した者は低い身分のところに、ときには動物に生まれ更わり、バラモンに仕えると身分の高いところに生まれかわると説かれている。この教えが仏教に入って輪廻となったと氏は考えるが、氏によるとこのような輪廻の教えは、実在するものでは決してなく、抑圧者が説く差別があっても当然であるという神学に基づく架空のものとみなされている。
 
  氏にとって輪廻の教えとは、今から約四千年前にインドを占領した白人系の支配者が、自分たちの地位を守るために、社会を乱されれぬように人為的に捏造した教えにほかならないのである。
 
  氏はさらに日本の仏教にも言及して「日本の天皇制確立に役立たせようということで外国の思想家を呼んだのが坊さんで、彼らは、身分の差別というようなことを言っていたら本当の幸せは得られないというお経を読みながら、自分たちを雇った人(天皇)からは、身分の違いをはっきり説けと命令され」、その結果、「本来、輪廻からの解脱を説き、差別社会否定の教理を教えるべき坊さんが、輪廻を教え、差別思想を説いてしまった」という極めて歪められた見方をしている。
 
  なぜなら仏教においては輪廻からの解脱が確かに説かれるが、このことは輪廻が克服されるべきものではあっても、決して実在しないようなものではないことを示すのに、氏は「輪廻というようなことを信じていると、むごい心になってしまう」、「やったら、されるのだ、されたら、仕返しをするのだ、こんな根性の人は、輪廻の通り返しを本気で信ずるわけです」等とものべ、その実在を全く認めようとせず、それを差別思想と考えるからである。
 
  氏にとって大切なことは輪廻の克服ではなく、輪廻を全く認めないことであり、それゆえ、「因縁話にしても、教祖の教えの中には、通り返しの話、したことがかえってくるとか、前世の何代前の因縁が今でてきて、こんな苦しみをつくっているのだよというようなことは別段説いていないのです。それらの話というものは、四千年も前から説かれていたいわゆる差別社会を守るための高山の説教であったわけです。」という歪んだ見方が平然となされるのである。
 
  ところで氏のこのような輪廻の教えイコール高山の説教との暴論の根底には、輪廻イコール差別思想の見方があり、輪廻はなるほど差別という価値判断と結びつきやすいものであるが、輪廻そのものは無色の価値中立的なもので、輪廻イコール差別思想との短絡視はできないのではないか。ゆえに輪廻は単なる高山の説教としてむげに否定できないのではないか。
 
   筆者は

    ・・・生まれ更わり聞き分けば、どんな理も治まる。・・・・( 補遺 M27.5.19

と教示されているので、輪廻(生まれ更わり)に実在を信じる立場に立ち、それを否定すると教祖の教えが成立しえないのではないかと考える。とすれば問題となるのは、輪廻と本教の「出直」、生まれ更わりの相違点である。どこに違いがあるのだろうか。