2014年9月23日火曜日

No.108  教理随想(59)  生まれ更わり(6)


  さて教祖は晩年になられてから、「元の理」を多忙なとき、また深夜に、熱心な少数の人々を相手に繰り返し繰り返しお聞かせ下されたと伝えられていますが、「動物の進歩」もこの「元の理」を念頭において話されたのではないかと考えますと、もっと深い解釈ができるのではないでしょうか。以下において述べてみたいと思います。
 
 「人間の数について」にでてくる「いきものが出世して、人間とのぼりているものが沢山ある」、「生まれ変わるたび毎に、人間のほうへ近うなるのやで」等は、動物が人間に近づき、人間に生まれ変わることを明示しているようにみえますが、実は人間と生き物、動物の関係を示唆しているのではないかと思われます。

 また拡大解釈をしますと、それを通して人間と自然の関係をも暗示しているように思われます。
 
  従来動物は、人間よりはるかに下等な生き物であり、人間にとっては単なる手段としての意義しか持たないものとみなされてきましたが、このことは動物を意味する畜生という言葉の使われ方を一瞥するだけでも明らかです。教祖は生命に対するこのような不遜な考え方を先のお言葉によって、まず改めさせようとされたのではないかと思われます。

 「いきものが出世して、人間とのぼりている」、「人間の方へ近うなる」等から、人間と生き物とは、高等、下等の区別、両者間の断絶は全くなく、人間と生き物とは連続した親しき関係にあることがわかりますが、このような考え方は単に生き物を大切にしよう、との動物愛護とか、人間と動物とを同列に見る人間性軽視の考え方とかではなく、あくまでも人間と生き物の本質的区別を認めつつ、両者の関係を従来の主従、優劣の関係から、正当な関係へともどす見方であります。
  この点をもう少し詳しくみてみましょう。

  まずキリスト教の旧約聖書の創世記をみますと、「われらの像に、われらに似せて人を作ろう。そしてこれに海の魚、空の鳥、家畜、すべての野獣と、地をはうすべてのものとを従わせよう。そこで神は、人をみずからの像に創造した」(第1章26,27)という天地創造の有名な一節があります。

 ここからは人間と生き物との主従関係、生き物は人間の意のままに使役される存在にすぎないとの見方しかでてきません。「海の魚、空の鳥、家畜、すべての野獣と、地をはうすべてのものを従わせよう」とは正にそのことを示しています。
 
  キリスト教では、「われらの像に似せて」、つまり人間は神の姿に似せて(理性的で自由意志をもつものとして)創造されたとみなされています。従って人間の精神的、霊的側面がもっぱら強調され、身体、物質的生命は第二義的な意義しかもたないものとして考えられていますが、このような見方は、人間と生き物を単に主従関係においてしかみない、創世記の見方から派生してくるものであり、極論すれば現代の自然や環境の破壊の根底にある考え方であるとも言えるのではないかと思われます。
  
  これに対して本教の「元の理」においては、全く異なった考え方が示されています。
「五分から生まれ、五分五分と成人して八寸になった時、親神の守護によって、どろ海のなかに高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた」、「次いで五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった」(『教典』29頁)
 
  ここにみられますのは、キリスト教のような、自然、環境、他の生き物がまずできて、それから人間が創造されたとの見方ではなく、人間の成人と海山、天地、世界(他の生き物を含む)の発展とが、平行して進んできたとの、従来みられない画期的な見方ですが、このような視点に立つことによって、はじめてこれまで西欧を支配してきた「人間は万物の尺度」や人間至上主義から脱却できるのではないかと思われます。

 また世界的な問題となっている自然や環境の破壊や異常気象などの真の解決に向かって歩を進めることができるのではないでしょうか。
 
  本教において、十全の守護の説き分けは、身の内の守護と世界の守護が一対となってされていますが、これも人間と世界が同じ素材から成り立ち、同じ理法によってつながっていること、同じ神の働きによって一貫していること、したがって人間も他の生き物も、親神の「懐住まい」をし、親神によって等しく生かされ、互いに有機的に相互的に、連関しあっていることを間接的に教示するものであると悟ることができます。
 
  このようにみてきますと、一見不可解に思える「動物の進歩」も極めて現代的な意義をもつのではないかと悟ることができます。

  次に仏教の輪廻について、本教の生まれかわりとの相違をこれまでとは違う観点からみてみましょう。
 
  さて輪廻とは衆生つまり生きとし生けるものが業によって生死をくりかえすことで、天上、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道をめぐると一般に考えられていますが、このような輪廻観は、インド思想や仏教の一部にはみられても、仏教全体を支配する考え方ではありません。
 
  六道、あるいは五趣(阿修羅が地獄に含まれる)の「道」、「趣」はともに、われわれが「死後に往く世界」の意で、これらはこの世とは別の死後の世界、地理的、空間的に存在する世界とみなされやすいのですが、仏教では本来そこまで拡大して考えられていたものではなく、人間のこの世での生存のあり方を六道、五趣として考える見方もあったようです。
 
  この考え方では、たとえば餓鬼は飢渇に苦しむ、欲求不満のあり方として、畜生は動物への転生ではなく、人間の殺し合い、苦しむあり方として、阿修羅は限りない戦い、怒りのあり方として、また天上はそれらの苦しみから脱してはいても、まだ迷いにあるあり方として、つまり個々人の心のうちに、身の回りに、社会において現実に展開されつつあるものとして六道輪廻が考えられているわけであります。
 
  したがって地獄も極楽浄土のように、彼岸、この世をはなれた、死後に往くところではなく、この世における人間のあり方、心の内容としてみなされることになります。

 
  『新仏教語源散策』(中村元編著 東書選書)の地獄の項における八熱、八寒、八大地獄の詳しい説明(21頁~26頁)や地獄絵図、餓鬼草子等は、それゆえに現代のわれわれにとって無縁で、非現実的なものでは決してなく、極めて現実味をおびた、鬼気迫る恐ろしさすら感じさせる「人間のあり方をありのままに映し出す鏡であり」、「すぐれた人間洞察のたまものである」(宮沢智氏『G-TEN』13号)ということになります。