2014年10月22日水曜日

No.109   教理随想(60) 生まれ更わり(7)

  
  ところでこのような輪廻観は、天台宗の教義である「十界互具」(六道に仏、菩薩、縁覚、声聞の四つを加えた十界のひとつひとつに十界があるという考えで、人間の中にも仏から地獄までの十界が共存しているとみなされる)の思想と同じく、六道、十界のそれぞれを独立して客観的に存在すると考えず、人間の心のあり方とみなしますので、現代人にとってもうけいれやすい見方ですが、しかしこの輪廻観では、現世のことのみが問題とされますので、当然生まれかわりは軽視されるか、否定されることになってしまいます。
 
  このことは禅宗においても同じことになります。道元の死生観をみてみましょう。
 さて一般に西洋では、身体が滅しても魂は永遠不滅と考え、精神優位の立場に立って、心身や主客の二元論を主張する傾向が強いのですが、このような考えは心身一如の立場に立つ禅宗からは「身滅心常」として否定されることになります。
 
  禅では「不生不滅」(宇宙の元素の離合集散によって、わたしたちの身体や物体が生じたり、滅するにすぎないこと)、「永遠の今」の立場に立ちますので、生死の彼岸、来世、いわゆるあの世に極楽を求めるような考えは、すべて「身滅心常」の心身一如でない立場からでてくるものとして退けられます。
 
  道元にとっては、心身一如としての、この人生をおいてほかに人間の生きる道はありません。それゆえに苦悩多き人生そのものの真只中で、自分の足元において、極楽浄土を求めることが、人間にとって真っ正直な生き方とみなされることになります。
 
  このような考え方は、極楽をこの世をはなれた彼岸に求めるこれまでの見方より、はるかに現実的で、「今、ここ」の大切さを教えますので、積極的に評価することができますが、ここでも「人のしぬるのち、さらに生とならず」(『正法眼蔵』現成公案)とありますように、生まれかわりは否定されるというより、無視されてしまうことになります。(もっとも道元は現世の行為が現世に結果をおよぼす順現報受とともに、来世、来々世に結果をおよぼす順次生受、順後次受という三時業の考え方を展開していますが、これは単に過去の影響によって現在があるという考え方でないとしますと、生まれかわりを間接的に認めていると考えることが出来ます)
 
  このようにみてきますと、仏教において輪廻は必ずしも、生まれかわりと結びつかず、また否定もされるということになります。

  次にキリスト教の復活と本教の生まれかわりとの相違を考えてみましょう。
キリスト教ではイエスの十字架上の死は、人類の罪をあがなう死で、このことを信じる者は神によって義と認められ、イエスと同様に死後復活すると教えられますが、この復活は矢内原忠雄氏によりますと、次の二点で単なる霊魂不滅説とは異なる、と考えられています。 
 
  まず第一点は「霊魂不滅説では、人間は霊魂と肉体とよりなり、肉体の死後は、霊魂は自然に肉体を遊離して存在をつづけるというだけであって、そこには霊魂の救いという要素がない。だから肉体から離脱した後の霊魂の状態は、幸福なのか不幸なのか不明である。(中略)キリスト教で言う復活は、もちろん霊魂の不滅を含んでいるが、それはキリストによりて救われた霊魂であり、したがって神とともにあって神を讃美し、永遠の讃美にすむ霊魂であるがゆえに、人間の慕うべき至福の状態である。」(『キリスト教入門』角川選書昭和55年、103頁)
 
  第二点は「霊魂不滅説では霊魂の個性がはっきりせず、したがって肉体の死後における個性の生活が認められない」(同書103頁)
  
  しかし復活においては「救われた霊魂を宿すにふさわしい新しい体が与えられる」ので、これによって「救われた霊は救われた体を器として活動し、我々の個性が永遠に生きるのである」と説明されていますが、「霊魂を宿すにふさわしい新しい体」といいましても、この世における身体とは全く別の抽象的なもの、非現実的なものですので、復活は単にあの世への生まれかわりであるか、あるいはこの世であっても単なる霊的な、非実在的な存在にすぎないということになります。
 
 このような復活観からは、単なる霊魂の救い、「地上における苦難は、天国における祝福」というような、この世とは別の彼岸における至福が空しく待望されるにすぎないと思われます。
 
  最近欧米諸国において、死生観が大きく変わり、転生、生まれかわりへの関心が急激に高まりつつあるといわれています(『ムー』1990年七月号)が、転生というキリスト教の教義と相容れない思想が復権しつつあるということは、キリスト教の復活が単に霊的なものにすぎず、これによっては「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という太古以来の謎を十分に解明することができないからであると考えられます。
 
  これに対して本教では単なる霊魂不滅説とも異なり、

  ・・・人間というものは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・
                                (M39,3,28
と明示されますように、あくまでこの世への、新たな身体をお借りしての生まれ更わりが教えられています。
 
  人間とは「出直」が示すように、この世の生を終えても、この世にまた帰ってきて、この世の生をくりかえしつつ、究極の目標である陽気ぐらしを目指す、と教えられますが、このような「出直」こそ、わたしたちに本来的なあり方を提示し、人生を真に全うさせる教えであると言うことができます。
 
  なぜならこの今の生への態度には、大別すると、この生のみが強調され、それの充実のみがめざされる禅のような生き方と、今の生を仮のものとみなして、明日の生、あの世における永遠の生を求める生き方に分けられますが、前者の場合、なるほど今を大切にし、足元から離れない点において現実的ではありましても、未来の生への目標や希望の面が希薄なために、ともするとニヒリズムや神秘主義におちいったりしがちであり、また後者の場合、あの世の永生や明日の生が強調されることによって、この今の生が軽視されるか、あるいは刹那主義におちいったりして、いずれもこの今の生を真に全うさせることができないからであります。

  ・・・世の処何遍も生まれ更わり出更わり、心通り皆映してある。・・・
                               (M21,1,8
と教示されていますように、「出直」はわたしたちに前生、今生、来生を通して、いかなる不平等(善悪と禍福が必ずしも対応していないというような)もないことを教える、わたしたちに真の生きる勇気を与える教理であるとともに、反面では現実に埋没したり、そこから逃避することを許さない、あくまでも現実に立ち向かわせる厳しさをも教える教理であると言うことができます。