次にキリスト教の天国、仏教の極楽と本教の「ごくらく」との相違について少し考えてみたいと思います。
一九八六年十一月一日、和歌山で新興宗教「真理の友教会」の女性信者七人が、前日病死した教祖の後を追って、集団で焼身自殺をしました。この種の事件は海外では、一九七八年十一月に、南米ガイアナで九一四人にも上る「人民寺院」の集団自殺はありましても、日本では戦後はじめてですので、関係者のみならず、一般の人にもショックを与えましたが、この事件を聞いたとき、まず感じましたことは、女性の集団自殺という悲惨さというよりは、教祖の「死ねば天国にいける」との教えを盲信し、天寿を全うするのではなく、自ら死を選んでその教えを実行した驚きであります。
彼女らが信じたように、天国は死の向こう側にあるものなのでしょうか。
まずキリスト教の天国について少しみてみましょう。
さて一般に天国というと死後の世界と考えられていますが、キリスト教においては必ずしもそうとは言えません。なぜなら「天国」(Kingdom of Heaven)という呼称は、マタイによる福音書に一回でてくるだけで、あとは全て「神の国」(Kingdom of God)と表記され、神の国はユダヤ教によりますと、国、領域というよりは、神の支配の意味で、神が統治者としてこの地上に君臨すること、あるいは神の意志を地上に実現することが天国にほかならず、キリスト教もこの考えをうけついでいるからであります。
天国とは神の国、神の支配で、単なる彼岸、あの世ではなく、この世的、現在的でもありますので、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」
(ルカによる福音書第十七章,20~21)
とイエスは教えるのでしょう。
イエスにとって、神の国はすでに時がみちて、現在すでに到来しているのですが、しかし神の国の実現は阻止されていて、まだ完成していない。その完成はこの世の終わり(これについては、この世の発展完成で、あくまでこの世においてという解釈と、いったんこの世が終わり否定されて別の世界においてという二つの解釈が考えられますが、キリスト教ではふつう後者の解釈がとられています)においてで、それが完成するとき、神に忠実な者は復活し、神の国に入るとされます。
そしてこの神の国の完成が、一般に天国と考えられ、この世の彼岸に存在すると信じられているわけであります。
このようにキリスト教においては天国は、神の国、神の支配の意味で、この世的、現在的な要素をもちますが、神の国完成としての彼岸的天国の面がつよいために、「死んで天国にいく」という俗信を生じさせることになると考えられます。
では仏教においてはどのように考えられているのでしょうか。
キリスト教の天国に相当するものは、仏教では極楽である、と考えられやすいのですが、厳密に言うと正しくありません。
キリスト教の神の国に対して、仏教では仏の国、仏国土(一人の仏が教化する領域のこと)、または浄土(煩悩やけがれのない浄らかな土地)とよばれています。キリスト教は唯一絶対神で、神の国はひとつしかありませんが、仏教では仏が無数にあると考えられていますので、それぞれの仏が自分の仏国土、浄土をもっているとみなされています。
私たちの住む世界は釈迦仏の教化する仏国土ですが、残念なことにこの世界は、人間の煩悩、けがれなどに満ちているために穢土とよばれています。
浄土とは、このようなけがれのなくなった世界にほかならず、わが国では阿弥陀仏の極楽浄土があまりにも有名なために、極楽イコール浄土と考えられ、天国と極楽が結び付けられるわけです
ところで仏教には、この浄土とは別に天上界があります。天上界とは先に見ました輪廻の六道のうち、天人の住む世界ですが、仏教では天人といえども、非常に長い寿命を保証されてはいても、いつかは死に、再び六道をめぐらねばなりませんので、天上界は天国と同じように考えることはできません。
天国に相当するものは、輪廻の輪の外にある永遠の世界である浄土ということになります。
ところでこの浄土は、キリスト教の天国と同じく死後の世界、あるいは西方十万億の仏国土を過ぎたかなたにある、と記述されますように、この世にあらざる別世界で、死後往生するところとふつう考えられていますが、これは浄土の一面で、私たちが浄土を築いていかなければならないという考え方もあるようです。
この考えによりますと、浄土を築くことは、利他の修行に励むことによって心のけがれをとり、心を浄めていくことになりますから、浄土はこの世的な面をもつことになります。[田村芳朗氏は『日蓮』(NHKブックス、1975)の中で、浄土には「ある浄土」、「なる浄土」、「ゆく浄土」の三種類があると説明しています。「ある浄土」とは、この世界がそのまま理想の浄土で、「いま、ここ」がそのまま絶対であると考えます。「なる浄土」とは理想の浄仏国土を、この世に実現することです。また「ゆく浄土」とは死後に生まれる浄土です。]
しかし仏教の浄土も、キリスト教の天国と同じく、結局はこの世の彼岸にあるもの、死後の抽象的な世界、あるいはこの世における単に霊的な世界と主として考えられますので、この点に本教との根本的な相違があります。
では本教ではどのように考えられているのでしょうか。
極楽という言葉が、みかぐらうたに、
ここはこのよのごくらくや
わしもはや~~まゐりたい
(四下り九つ)
よくにきりないどろみづや
こゝろすみきれごくらくや
(十下り四つ)
と二例[おさしづには「極楽世界」(M26,2,26)「極楽やしき」(M31,9,25)がみられます]だけでてきますが、ここから分かりますことは、極楽はあくまでこの世(四下り九つの「ここ」とは教祖のおられるお屋敷、ぢばを指しますが、十下り四つのお歌からは必ずしも場所的に限定されず、この世のどこにおいてもと考えられます)にあり、心をすみきらせることによって実現されるということであります。
また本教においては、極楽が単にこの世で、と指示されるだけではなく、その姿が次のように具体的に示されています。
だん~~と心いさんでくるならバ
せかいよのなかところはんじよ
(一,9)
このたすけ百十五才ぢよみよと
さだめつけたい神の一ぢよ
(三,100)
そのゝちハやまずしなすによハらすに
心したいにいつまでもいよ
(四、37)
またゝすけりうけ一れつどこまでも
いつもほふさくをしえたいから
(十二、96)
「雨は六さい(六日)夜々降り、風は五日に、働きは半日」
(尾崎栄治氏『しあわせを呼ぶ心』294頁)
「こふお(子を)ほしいと思ひバ、何時成共。男子と思へバ、男子。むすめの子と思へバ、女子。」(『根のある花・山田伊八郎』70頁)等々の具体的なご守護の姿として示されています。