2015年4月17日金曜日

No.114 教理随想(65) 生まれ更わり(12)

 では人間の魂は、出直して次にこの世に生まれかわってくるまでの間、どのように存在しているのでしょうか。

       このものを四ねんいせんにむかいとり 

       神がだきしめこれがしよこや
              (三、109)
       それからハいまて月日しいかりと 

       だきしめていたはやくみせたい
              (七、68)
 この二つのお歌は『おふでさき註釈』によりますと、ともに明治三年陰暦三月十五日に出直された秀司先生の庶子お秀様のことで、明治十年たまえ様(秀司先生の長女)として出生されますが、ここにはっきりと魂は親神によって抱きしめられている(「神がだきしめ」)と教示されています。

 「やしろ」でない人間の魂とは、あくまで信仰の対象で、その存在は科学的に検証されないもの、時間空間をこえていて、この世のどこかに実体として客観的に実在するといえないもの、従って魂はいつ、どこに、どのように存在するかいうことのできないもの、この意味では、あるとも、ないとも、いえるもので、ただ「神がだきしめ」ている(したがいまして存在しても非活性な状態)としかいえないものと悟れます。
 
  山本利雄氏は魂はモノ(客観的物体)ではなく、モノとモノとの関係、コト(客観的現象)である、と説明しています(『続人間創造』)が、このコトという見方も実体視されるおそれがあり、魂の個別性については考慮されないという問題があるように思われます。
 
  教祖は『正文遺韻抄』中で、次のように仰せられています。

 「此の身上かやしても、心は我がの理ゆゑ、きえてしまうものやない。これが、たましいといふものや。たましひは、まんごふ(万劫)、まつだい(末代)のものである。
そこで、身上かやす理を世上では、死にゆくといふのである。けれども、死にゆきてどうなるかといへば、又、かりものかりて此の世へ出るのである。」(244頁)

 魂とは「それは、どういうものなら、いんねんと云ふもちこす処の理、一日けつこう(結構)にくらしても、晩になりて、兄弟や夫婦の中で、つみつくるといふ事がある。
したならば、あすのあさ、互いにこゝろもちがわるくて、ものもゆはんといふ事になる。中には、一日も二日も、ものゆはん。顔をみても、にらみやひで、通るやうな事もある。 この理はどこからでたか、なにがさしてゐるかといへば、みなわが心がしてゐるのや。
心の理が、のこりてあるからの事や。人の一生終りて、生れかへる場合にも、前生の理をもちこすといふは、このどふりであるで。」(244頁)

 このわかりやすいお話によりますと、教祖は魂とは「心の理」で、生まれかわっても残り続けて、この世の人生に様々な影響を与える、と教えられています。
 
  教祖は慶応元年、おはる様懐妊のとき、「今度、おはるには、前川の父(教祖の父親)の魂を宿しこんだ。しんばしらの真之亮やで。」(『教祖伝』66頁)と仰せられています。

 「先に長男(おはる様の)亀蔵として生れさせたが、長男のため親の思いが掛って、貰い受ける事が出来なかったので、一旦は迎い取り、今度は三男として同じ魂を生れさせた。」(『教祖伝』67頁)とより詳しく仰せられ、生まれかわりの実在をはっきりと教示されておられます。

 村田幸右衛門さん(明治十九年六十六才出直し)の次のような話があります。

 幸右衛門さん(大変声のいい方で、この方のおつとめの節を聞いて、教祖は節を決められたと聞かされています)が晩年になって三才の子供でもしないような仕草をするので、教祖にお伺いすると、教祖は「魂はもう先方へ宿っておるがな」と仰せられたそうです。(『おさしづ語り草』[]桝井孝四郎著89~92頁)

 魂を目に見えない粒子、実体のようなものと考えますと、「魂はもう先方へ宿って」の意味が悟れませんが、魂の宿しこみを、粒子のようなものを入れると考えずに、生命を成立させる気のエネルギーのようなものの注入と考え、その生命にいんねんの刻印を打つ、それによってその後、その生命が成長し、個別の人間として誕生するようになると悟れないでしょうか。(『おさしづ語り草』には、教祖の「魂の生き通り」のお話を疑った人の話がでています。91~93頁参照)

 「人間ノタマヒ(魂)ナルハドジョウナリ」(説話体十四年本)

 「親神は、どろ海中のどぢよを皆食べてその心根を味わい、これを人間のたねとされた」   (『教典』二七頁)
と教えられていますが、この「どぢよ」とは決して生き物としての存在ではありません。生命の元となるエネルギー、気のような存在と悟れます。
 
  最近世界の物理学者から熱い視線を注がれている超ひも理論があり、この理論によって極微の世界から宇宙の成り立ちまで解き明かされると期待されています。
 
  この理論によると、極微の素粒子の世界に踏み込むと、粒子としての性質については、ひもの揺らぎ方の違いによって生じると考えられています。大半の素粒子はひもの揺らぎ方が違うだけで、ひもそのものが違うわけではないということです。

 究極のひもは太さ、重さを持たず、長さのみをもつと見なされていますが、この理論で重要なのは「素粒子の本質はひもそのものにあるのではなく、その揺らぎにあるということです。長さを持っていなければ揺らぐことができませんが、太さは揺らぎとは直接には関係がありません。ひもは、揺らぎを与えるための仮想的な材料にすぎず、本当はひもさえなくて、存在しているのは揺らぎだけだと言ってもいいくらいです。」(『世界はゆらぎでできている』吉田たかとし著、光文社新書73ページ)
 
  ここから考えますと、「どぢよ」とは目に見えないエネルギーの揺らぎのようなものといえるのではないでしょうか。

 したがって、魂とは、受胎後何ヶ月が経って宿しこまれるものではなく、魂とは生命の母胎、生命を成立させるエネルギーのようなもので、それが約六ヶ月の間に「身の内六台」(くにとこたちのみことから、かしこねのみことまでの火、水、風、骨つっぱり、皮膚つなぎ、飲み食い出入り)のお働きによって、漸く人間らしくなってくる。それで「をびや許し」が妊娠六ヶ月以降に頂けると悟れるのではないでしょうか。

 

2015年3月18日水曜日

No.113 教理随想(64) 生まれ更わり(11)

  今回より出直しに関する霊魂の問題にについて考えてみたいと思います。 

  「こかんや秀司が来てくれるから、少しも寂しいことはないで。」
  「秀司やこかんが、遠方から帰って来たので、こんなに足がねまった。一つ、揉んでんか。」「正善、玉姫も、一しょに飲んでいるのや。」(『逸話篇』一一〇、魂は生き通し)
 「正善、玉姫」とは山本利雄氏の『続人間創造』の中で、二代真柱正善様が秀司先生の生まれかわりで、玉姫とは初代真柱様の長女玉千代様のことで、こかん様の生まれかわりであると説明されています。
 
 秀司先生は明治十四年六十一才で、こかん様は明治八年三十九才でそれぞれ出直されていますが、魂は生き通しで、現身をもたれている教祖と会話、飲酒をされていたということになります。これをどのように受け取ればいいのでしょうか。
 
   まず魂とは何かみてみましょう。
 魂は原典においては、

         高山にくらしているもたにそこに 

         くらしているもをなしたまひい
                (十三、45)

          「一寸の虫にも五分の魂」(M29.3.24
 の二ヶ所にしかでてきません。 

 おさしづの方は常識的なことわざで、おふでさきに一ヶ所しかありませんので、原典に基づいて論じることは極めて困難であります。
 
  哲学者カントは魂は形而上学的な存在で、理論理性によっては、認識、証明が不可能であり、実践理性(道徳)によってその存在が要請される、と考えています。
道徳的に完全無欠な人間になることは、この世では不可能で、その実現はこの世をこえて無限の前進においてのみ可能で、そのことから必然的に、理性は道徳的主体としての人格、すなわち魂の存在、不死を要請することになります。

 従ってカントにとっては魂は現象界、経験界に直接的に見出され、科学的に探知され、検証されるようなものではなく、あくまで信仰の対象とされるものであります。
 
  さて人間存在は一般に三つの次元、側面から成り立っているとみなされています。第一は身体的、第二は心的、第三は霊的次元で、第三の霊的次元については、これまで古今東西において様々な見方が示され、百家争鳴の観を呈しています。
 
  代表的な見方を紹介しますと、ユングの自我(Ego)に対する自己(Self)、これは無意識に潜在するもう一つの自分で、この自己の働きを知り、その声に耳を傾ける、こうした自我と自己、意識次元と無意識次元が生き生きと交流し、結びつくようになることが自己実現とみなされます。
 
  本教において深谷忠政氏は、魂とは、心づかいの起点である我れの抽象形態で、魂が展開して心となり、その現実形態が心づかいである。魂の現実存在ともいうべきものが我れなる主体である。

 魂はいんねんの担い手で、心の可能性、心の自覚性、心の原性とも言われる。魂は等価値で、心の原性には区別はないが、何回かの生まれかわりの中に、個人差がでてくる、との見解を示しています。(『天理教教義学序説』一四六、一四七頁)

 魂と心と身体は互いに密接な相関、因果関係をもち、心と身体は魂のいんねんに相応しいものを借りていて、心の働きはその本質である魂に規定され、心の働きは逆に魂に影響を与え、それが原因となって身体のあり方、心のあり方を変えていく、と考えられます。      
 また魂としての作用、すなわち心は身体をもつ生命の誕生に始まり、身体の生命が終わるとともに停止すると考えられます。

 諸井慶一郎氏は次のように説明しています。
「この魂が、身上と離れて在るかということについては、働きが身上を以ての働きである以上は、身上なくしては働きはないのであって、働きのない存在は、これは観念的な存在でしかないのであります。つまり、魂は心としては存在するが、身上なくしては存在するとも云えんのであります。したがって、死後の魂、死後の霊が存在するかといえば、この世においては存在しない。」(『天理教教理大要』立教164年、306頁)
 
  では「魂の生き通し」の逸話はどのように考えればいいのでしょうか。
 
  初代真柱様が明治二十年一月十三日教祖に尋ねられた三箇条の根本教理の第一に、「この屋敷に道具雛型の魂生れてあるとの仰せ」とあります。また『こふきの研究』(和歌体十四年本)に、

「29 くにさつちのかみさまハ親さまのたいないこもりだきしめござる」

「30 ことしから三十年たちたなら なあハたまひめもとのやしきへ」

「32 つきよみハしやちほこなりこれなるハ にんげんほねのしゆこふのかみ」

「33 このかみハとふねん巳の六十といゝ才にてぞあらハれござる」
  と、教示されています。
 
  こかん様、秀司さんの魂が、それぞれ、くにさづちのみこと、月よみのみことの魂で、
  こかん様は「たまひめ」(玉姫)に三十年後に生まれかわること、秀司先生が明治十四年六十一才であることは、史実によって確認することができます。

 教祖はいざなみのみことの御魂で、ともに人間創造の時の道具衆の魂であるため、私たち人間の魂と異なり、魂だけで、心の働き(教祖の場合は、観念的なものではなく、現実的なお働きも持つ)も持たれているので『逸話篇』110にみられるようなことが、現実に生起すると悟れます。

 秀司先生は明治十四年四月八日、六十一才で出直されますが、その直後に教祖から、「可愛相に早く帰っておいで。」と長年の労苦をお労いされます。
そしてすぐ後に座にかえられますと、教祖のお口から「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」との秀司さんの生の男性の声が聞かれたと、言われています。(矢持辰三著『教祖伝入門十講』374頁参照)

 また「口説き掛けたら、どういう事口説くやら分からん。さあ~~苦労の中でかくれたものを連れて出るで。」(M24,1,28

  このおさしづ関して、「すでにお出直しになった秀司様が、スッと本席様の中にお入りになって、秀司様のお言葉でおさしづが出てきます。秀司様の魂が話しておられるように受けとれます。」との見方が示されています。(同書411頁)
 
  このお話は『おさしづ語り草』(上)(桝井孝四郎著87~88頁)にも掲載されています。また、『神・人間・元の理二つ一つの世界』(森井敏晴著、天理やまと文化会議)の中の「教祖のお口に現れた秀司先生の御霊」(130~134頁)にも詳しく説明されています。

信じられないと思われるかもしれませんが、秀司先生は八柱の一つの「やしろ」であられますので、現身を隠されても、このようなことも現実に起こりうると悟れます。

しかしこのことは私たち人間には絶対に当てはまらないと思われます。
人間の場合は「やしろ」ではありませんので、死後祖霊となっても、身体がなくなると、その働きは停止しますので、生きている人間を通して肉声を発することなどありえないと悟れます。この点は本教の立場からはっきりと指摘しておかねばなりません。


2015年2月15日日曜日

No.112 教理随想(63) 生まれ更わり(10)

  次にキリスト教における死と救済について考えてみましょう。
 
  先に少し触れましたようにキリスト教では、死は生の終わりではなく、イエスが十字架上の死の三日後に復活しましたように、人間も死後肉体とは異なる新しいからだを与えられ、復活すると教えられていますが、この復活は死後すぐにではなく、この世の終わりにおいてであると教えられています。
 
  この世の終わりの前兆は、戦争や飢餓、地震、迫害、偽キリストの横行等で、その後本物のキリストが再び地上に再臨し、イエス以後死んだ人々も生き返り、最後の審判をうけ、その審判により、天国、地獄のどちらに送られるかが決定すると考えられています。
 
  そして天国に送られた者は、神とともに永遠の至福(この世にあったときと同じように働き、学び、遊ぶといった様々な楽しみを、完成した形で味わう、と現代の神学者によって考えられていますが、あくまでこの世の彼岸においてであります)を、また地獄に送られた者は、永遠の罰、絶対に釈放されない、いわば終身刑の報いを受けることになると教えられています。
 
  これがキリスト教の終末観、救済観ですが、ここにおいては一回きりの現世での行為の善悪が、情け容赦なく厳しく裁かれるだけで、神の救済の力によって引きあげられるということが全くありません。
 
  なるほどイエスの十字架上の死によって、すべての人間の罪が人間に代わって贖われ、それによって人類の罪が許され、罪の結果である死も克服されたと教えられています。
しかしながら人間の死の後に待っているのは、この世の終わりでの復活と審判で、そこで義とされた者のみ救われると言われますと、イエスの贖罪と愛とは一体何を意味するのか、また厳正な審判と神の愛とはどのように結びつくのか疑問に思えます。
 
  ところでカトリックには煉獄の教えがありますが、これについてはどのように考えればいいのでしょうか。
 
  この煉獄の考えは、大多数の人間は天国に入るほど完全でもなく、地獄に落ちるには善人でありすぎるので、天国と地獄の中間にある煉獄において、一時的に火にもやして苦しみを味わわせ、天国に入れるだけの完全さを備えさせた上で、天国に入れようとするもので、地獄行きの執行猶予のように受け取れ、一見神の力による引き上げがあるようにみえますが、これも地獄を天国に近づけ、地獄をいわば終身刑から有期刑に軽減するだけで、神の救済による引き上げとは決して言いがたいと思われます。 
 
  では本教の「出直」における「親神の救済の力による引き上げ」とは何を意味するのでしょうか。

 「出直す」という言葉は、一般に最初からやり直すという意味だけではなく、何か不都合な場面を一度はなれ、考え方、態度を改めて、心機一転して再びその場面にもどることを意味しますが、このことは「出直し」について考えますと、「出直し」そのものによって、魂のほこりの一部が払われて、生まれかわってくることを意味するのでしょうか。
 
  この点について北村光氏は「出直し」における「魂の浄化作用」(『G-TEN』6号41頁)という考えを示し、それを次のように説明しています。

 『「出直し」は「人類が永遠に続く為にも欠かせない問題」であり、(中略)出直すことがなかったら、一方的に人間は流れていくことになり、それは、やがて人類の滅亡を意味する。例えば、いじめる者といじめられる者、勝つ者と負ける者、親と子、上と下等々。この状態が、永遠に続くとしたら、一方的なものである しかし「出直し」によって配役がかえられ、例えば親不孝の者は、今度は親に捨てられ、親がいてくれたらなあと思い続ける、親不孝の心使いのよごれを、自然に払える環境、境遇、立場を与えられる。(中略」これが親神様の慈悲なのだ。しかも、そこには永遠に人類が存続し得られる理があると思う。』
(42頁)
 
  ここでの「出直し」による境遇、立場、配役等の転換につきましては、その考えに賛成しますが、はたしてそれらの転換そのものが、魂を浄化し、魂のほこりを一部払ってくれるのか、につきましては疑問が残ります。
 
 「魂が白紙(白因縁)に戻るためにも、『出直』さねばならないのである」(41頁)は、「出直し」そのものが、「魂の浄化作用」をもつとも、「出直」して境遇を転換されて生まれかわってから、魂が浄化されるとも解釈され、氏は前者の解釈をとっているようですが、後者の解釈のほうが正しいのではないでしょうか。
 
  つまり「出直し」そのものによって、魂のほこりの一部が払われるのではなく、「出直しによって、ほこりの払いにくい境遇から、ほこりの払いやすい境遇へと転換されて生まれかわり、その境遇においての具体的、自覚的な通り方や種々の節を通して、ほこりが払われていくのではないでしょうか
 
  もしこのように考えることができますと、「出直し」における「親神の救済の力による引き上げ」とは、親神が人間に代わってほこりを払ってくれるというようなものではなく、あくまで配役をかえたり、ほこりを払いやすい境遇へと生まれ変わらせることで、ほこりを払うことは、人間の主体性にゆだねられていると考えられます。

理は見えねど、皆帳面付けてあるのも同じ、。月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。
              (M25,1,13
というおさしづは、私たちに勇気を与えるとともに、反面では厳しさをも教えますが、また「平均勘定」はこの世において具体的な形で示されることや、「出直しによる借金の棒引きのようなものはないことをも教えるものであると悟れます。
 
  本教の救済は、「出直し」、生まれかわりを前提とする、この世における現実的なものであり、主体性、心の自由を極めて重視するものですが、これらの点に他宗との根本的な相違があるように思われます。