今回は「子数の年限」について、その奥にこめられた意味について考えてみたい。
さて「子数の年限」とは、九億九万九千九百九十九人の産みおろされた子数と、人間創造から天保九年の立教までの年限が同数であることを明示するのであるが、子数と年限が同数であるとことは、一体いかなる意味をもつのであろうか。
深谷忠政氏は「子数と年限とが同数であることは、極めて興味深い点である」(『元の理』32頁)と述べ、その意味を「子数は、教祖魂の因縁という、又年限は、旬刻限の理という絶対的一即ち、立教の一回起性を示されたるもの」(同書同頁)として理解されているが、旬刻限のほうは、問題なくうけとれても、子数と教祖魂の因縁がなぜ結び付けられるのか、また一体子数と年限が同じであるのはなぜかについては、全くわからない。
では子数と年限の同数の意味は何であるか。
柏木大安氏は、子数を「空間」、年限を「時間」(『あらきとうりょう』一三七号79頁)として(子数は立体的なひろがりを思わせるところから「空間」とみなされている)解しているが、もしこのように考えることができるなら、「空間」と「時間」が同じものとなるが、これはいかなる意味をもつのであろうか。
古来、時間、空間は多くの哲学者を悩まし続け、現代においても、その解釈については、百花繚乱、百家争鳴の観を呈し、確固たる解釈はなされていない。
その理由は、時間、空間とも親神の働きによるからで、それを問うことは、神とは何かを問うに等しい難問であるからである。
では本教において、時間、空間はどのように考えられているのだろうか。『こふきの研究』(二代真柱著)に収録されている「十六年本」、「神の古記」を参考にしてみてみよう。
さて「神の古記」には、「くにとこたちのみこと」について次のような記述がみられる。
「くにとこたちの命わ、天にてわ月様なり、この神わ男かみにして、おんすがたわ、かじらひとつ、おふ(尾)わひとすじのたいりやう(大龍)なり。このせかい、国とこをみさためたもふ。このりをもってくにとこたちの命とゝゆう」
ここで頭一つ、尾はひとつの大龍とは何かについては解釈は難しく検討を要するが、「国とこみさだめたもふ」ゆえに、国床立命と名づけられている点に注目すると、この神は、国、床つまり空間に関連していることがわかる。このことは、国床立命の身の内の守護は、眼うるおいで、眼は常に見られる空間、場所を前提とすることからも言えると思われる。
ところで物を見定めることは、われわれにとっては、空間の特定の対象に視線を向け、物を見て取ることであり、「空間のこのような視線的体験がわれわれの生の先行的基礎である」(蔵内数太氏『ムック』第五号108頁)といえるのであるが、それでは親神にとって、国を見定めることは具体的にはいかなる意味を持つのであろうか。
言うまでもなく国を見定めることは泥海の状態から「高低が出来かけ」、「海山も天地も日月も区別できるように、かたまりかける」等のこと、つまり空間が限定され、成立することを意味し、この限定する働きが、国床立命の働きと言えるであろう。
木下民善氏は『すべてそこから』、『希求する生活』において、その働きを「限定作用」、「凝集的縮小作用」とよび、この働きによって、空間が成立すること、また「くにとこたちのみこと」、「たいしょくてんのみこと」が、かぐらづとめにおいて結びついていることの意味を説明している。
またこの働きは現代的に理解すると、重力と密接につながるものではないだろうか。
宇宙物理学によると、星は生涯を通して二つの相反する力、つまり星を膨張させる熱と、逆に星を収縮させる重力の支配下に置かれ、この二つの力がうまくつりあうことによって、星の安定が保たれ、維持されていると考えられているからである。
次に「をもたりのみこと」についてみてみよう。
「御すがたわかしら十二の三すじのおふ(尾)に三つのけんある大蛇」、「かしら十二ある一つのかしらにて、十二月のあいだ、一月づつかわりてしゆこう。また十二時つつかしらかわりて、目を一時とすしゆうごうあるゆえに一ヶ年を十二月とさゝめ、一日を十二ときとゆう」
ここで「三すじのおふ」、「三つのけん」が何を意味するのかは検討を要するが、とにかく十二の頭によって、一年が十二ヶ月、一日が十二ときに区分される、つまり時間が成立することがはっきりと示されている。
また「をもたりのみこと」の身の内の守護は、温み、世界では火の守護であるが、これがともに時間に結び付けられるのは、温み、火も運動につながり、存在しているものが、運動によって生成変化し、消滅していく、ここに時間が成立するからである。
このように「くにとこたちのみこと」によって空間、「をもたりのみこと」によって時間が成立すると考えられるのであるが、では時間、空間が「子数の年限」として同じであることはいかなる意味をもつのであろうか。
古典力学においては、時間は現象や出来事の外側にあって、絶対的なものさしのようにみなされ、また空間についても、事物の存在の枠組み、器のようにみなされ、時間、空間はそれぞれ独立して存在すると考えれてきた。
しかし相対性理論によると、時間、空間は相対的なものにすぎず、時間が場所や運動系によって異なったり、空間のゆがみ等が確認されており、時間、空間とは密接につながったもので、両者を一緒にした時空融合体を考えるほうが、より合理的であるとみなされている。
「この現実は時間―空間的なものであって、一方を他方から離すことはできない。従って最も根源的なことの現実は本質的に言って、事実として時空統一体であると言わざるを得ない」(伊東俊太郎氏『時間』東京大学公開講座40頁)
「時空統一体としての根源的な現実はたんに意識でも存在でもなく、意識即存在的なものである」、「時空が現実とは別にそれの要れ物のようにあるのではない。現実は場においてしかありえず、その存在様式そのものが時空なのである」(同書12頁)
結局時間、空間は「くにとこたちのみこと」、「をもたりのみこと」つまり月日親神の二つ一つの働きで、その二つ一つの働きによって、一切の存在、現象が成立することを間接的に説明していると言えるのではないか。
このようにみてくると、「子数の年限」という一見何の変哲もないように思える言葉にも、深い哲理がこめられていることに驚かざるをえないのである。
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