2013年1月18日金曜日

No.90 教理随想(41) 「にほん」と「から」 (1)


今回は「ぢば」にまつわる「にほん」と「から」の問題について検討を加えてみたい。
 まず「元の理」にみられる「にほん」と「から」についてみてみよう。

 『教典』の「元の理」には「にほん」、「から」の表現はみられないが、
十四年本説話体の「こふき話」には、「にんげんハ五尺ニなるまた(で)みずのなかのすまい。三尺より五尺ニなるまでじきもつをだんだんとくいまハり、からてんじくまでもまハりいくなり」(『こふきの研究』83頁)
 
また十六年本の「神の古記」には、
「人かす九億九万九千九百九十九人のうち、やまとのくにゑうみおろしたる人げんわにほんの地に上り、外ゆくにゑうみおろしたる人間わじきもつをくいまわり、から、てんじくの地あかりゆきたるものなり」(同書138~139頁)との記述がみられる。「にほん」、「から」とは一体いかなる意味をもつのだろうか。

 ここには「てんじく」の表現もみられるが、これは「から」と同義とみなして考え、引用文を文字通りうけとると、「にほん」、「から」は地理的な意味での日本、唐、外国という場所、空間を示すものと理解される。

「にほんの地」、「から、てんじくの地」とは、それをまさに示しているが、果してこの場所は、そのまま現実の日本、外国として理解しうるであろうか。

 なるほど戦争中、戦前においては、そのまま日本、外国として、教内外において受け取られ、当時の八紘一宇の民族主義に迎合、妥協するかたちで、都合のいいように解釈されてきたが、この解釈は少し考えると妥当しないことがすぐに分かる。

 なぜなら、
これからハからとにほんのはなしする
なにをゆうともハかりあるまい
          (二、31)
のお歌によって、「にほん」、「から」を日本、外国として考える常識が成立しないことが示されているからである。

 またこのことは「元の理」をよく吟味しても、すぐに分かることである。
 なぜなら「神の古記」において、七十五日かかって大和、山城、伊賀等に産みおろされたと記されているが、よく考えてみると、「五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった」(『教典』29頁)のであるから、産みおろしの場所を文字通り受け取ることはできないからである。

 それでは「にほん」、「から」をどのように理解すればよいのか。
とふじんとにほんのものとハけるのハ
火と水とをいれてハけるで
          (二、47)

 このお歌の注釈をみてみよう。
「未だ親神の教を知らない者と、親神の真意を悟った者とを分けるのは、親神の絶大な力を現してする事である。 
註 にほんとは、創造期に親神様がこの世をお創めになったぢばのある所、従ってこの度先ずこの教をお説き下さるところ、世界たすけの親里のあるところを言い、からとは、創造期に人間が渡って行ったところ、従って、この度この教の次に普及さるべきところを言う。従って、にほんのものとは、最初に親神様に生み下ろされたる者、従って、この度この教を先ず聞かして頂く者、親神様の真意を悟った者を言い、とふじんとは、つづいて生み下ろされた者、従って、この度次にこの教を説き聞かして頂く者、未だ親神様の教を知らぬ者をいう。」(『おふでさき注釈』28頁)

 この注釈では「にほん」、「から」は日本と外国としてスレトートに理解されていないが、その意味はもう一つはっきりしないように思われる。

 ということは「にほん」、「から」とは場所というような目に見える固定的なものを示すのではなく、精神的な内容のみならず、さらに深い意味をもつのではないだろうか。

 注釈には「にほんのもの」は「最初に親神様に生み下ろされた者」、「この教を先ず聞かして頂く者、親神様の真意を悟った者」、「とふじん」は「つづいて生み下ろされ」、「次に教を説き聞かして頂く」、「親神様の教を知らぬ者」として、それぞれの内容が示されているので、これに基づいて検討してみよう。

 まず「にほんのもの」。「とふじん」が、親神に最初に、次に生みおろされた者であるとしても、その最初、次という区別は何によって生じるのだろうか。そもそも七十五日かかった時間的順序のある生みおろしの意味は何か。同時に宿しこまれた子数には、宿し込みの時点においてすでに区別があったのか、等などの問題については、全くわからないのであるから、最初、次を「にほん」、「から」に当てはめることはわれわれにとってあまり意味がないのではないか。

 最初、次を固定化すると、どうしてもそれに優劣の価値判断が加えられたりしやすく、「にほんのもの」は「とふじん」より優れ、神に近い魂をもっているので、他の民族を指導、救助すべく運命付けられている、というような民族主義的な思想を復活させることになりかねないと思われる。

 松本滋氏は『陽気ぐらしへの道』の中の「にほんの理について」において、「にほん」の者は、親神にとって、長子、総領という意味をもつのであるから、「日本の者は、世界の人々に先がけて親神、教祖の教えを聞き分け、その思いを一番早くから悟りとり、それを最初に実現してゆかねばならない使命、義務を本来的に帯びている」(171頁)、「日本の治まりの理によって世界が治まっていく。これが親の願いなのであります。」(173頁)等と述べ、日本人に向かって、自覚、反省を促そうとしているが、このような考え方は、氏の否定している民族主義的な発想なのではないだろうか。

なるほど『日本の文化や歴史や現実を十二分にわきまえた上で、しかもその日本に、日本人としての教祖をとおして、この「だめの教え」が創められたという事実の根底にある意味』(156頁)を深く考えての提言であり、それなりの説得力はあるが、次の点で受け入れられない。

氏は「日本の治まりの理によって世界が治まっていく」という順序を示しているが、「人をたすけて我が身たすかる」を拡大解釈して、「世界たすけて日本たすかる」ということが言えるのなら、日本と世界の治まり、たすかりは同時に成立すべきものなのではないか。

世界の治まりのないときに、長子としての日本の治まりなど考えられるのか。このように考えると、日本人長子論は成立しないのではないかと思う。

「にほん」と「から」とは、場所的に、固定的に理解しないで、『おふでさき注釈』にある「親神様の真意を悟った者」で、それを行動に、つまりたすけに現している者の集まりと、悟っていない、実行していない者の集まり、として流動的に理解できないであろうか。

だん~~とよろづたすけをみなをしへ からとにほんをわけるばかりや
にち~~にからとにほんをわけるみち 神のせきこみこれが一ぢよ
       (四、57,58)
 
このお歌から「にほん」、「から」は
親神のたすけ一条に関連するものであることが分かるので、「にほん」とはたすけを促進し、「から」はたすけを阻止、妨害することとして解することができるのではないか。

したがって、
とふじんとにほんのものとハけるのハ     火と水とをいれてハけるで
         (二、47)
この「火と水とをいれて」を火水風のバランスを乱すこと、つまり節を通して、親神のたすけの思いに沿う「にほんのもの」とたすけの思いに反し、邪魔をする「とふじん」に分けて、たすけを推進していく、と受け取れるのではないか。

また、
とふぢんがにほんのぢいゝ入こんで
まゝにするのが神のりいふく
         (二、32)

この「にほんのぢい」は日本の領土とかではなく、たすけの行われている空間や「にほんのもの」の集まりで、「とふじん」がたすけの妨害をすることが「神のりいふく」と解せるのではないか。

もしこのように理解できると、「にほん」は日本に限定されず、外国においても成立し、逆に日本、教内にも「から」がはびこっている、と考えられるのではないか。

それゆえに親神が今われわれに求められていることは、松本氏のような「長子としての日本人よ、世界の範たれ」というようなものではなく、親神の教えを聞き分けた世界の者(他宗教の者を含む)、用木、教祖の道具衆が、立場をこえて、世界たすけに日々奮起することではないか。
 
おふでさきには、
こらほどに月日の心せきこめど
そばの心わなんでいづむど
         (七、48)
 こらほどに月日の心しんばいを
 そばなるものハなにもしらずに
         (十二,37)

等の「そばなるもの」の成人の鈍さをいましめるお歌がでてくるが、この「そばなもの」は、松本氏のように、現代の日本人として理解するのではなく、親神の教えを聞いている者と受け取らねばならないのではないかと思われる。
 
親神の教えを聞いている者が、親の思い通りに働いてくれない、この点に親の残念があるのであって、長子としての日本人が長子としてふさわしくない点に、残念があるのではないと思う。
 
松本氏は、日本人が天の理に基づいて暮らし、それによって日本の国がしっかり治まると、世界の人々はその姿に感心して、親元を慕ってやってくるようになる、そうすると武力、軍事力や経済力によってではなく、精神の次元で、世界の手本雛形、模範になってゆける、そうなってこそ、
いままでハにほんがからにしたごふて
ままにしられた神のざんねん
         (四、128)
という親の残念がはれると述べている。
 
しかしこれでは日本が今までに外国に踏みにじられてきたことが神の残念であると誤解され、今尚根強い民族主義を復活させることになるのではないか。
 
しかしこのように考えるからといって、氏の否定する現実の日本という足元をわすれた観念的な宙に浮いた世界だすけを主張するつもりは毛頭ない。ただ世界だすけ、世界の治まりは、まず日本が治まり、たすかって、それからはじまるという順序に少し異議をさしはさみたいだけである。

ぜんしよのいんねんよせてしうごふする これハまつだいしかとをさまる
          (一、74)

このお歌を国、民族について当てはめると、いんねんの違いが、民族性、歴史、伝統、文化、思想などの相違となっているが、それらには価値的な差異は一切なく、互いにそれらを尊重しつつ、親神の教えを聞き分けた者(他宗の者を含む)が世界だすけに挺身していき、それによって日本、世界が同時にたすかり、治まっていく、このことを親神はわれわれに強く求められているのではないかと思うのである。

 世界の政治経済等の動向が、直接的、間接的に日本に影響を与えつつある最近の状況は、われわれに日本の治まりは、世界の治まりをはなれてはありえないことを教えているのではないか。

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