2013年9月18日水曜日

No.95 教理随想(46) 宮池の問題

「或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよ~~となると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、『短気を出すやない~~~』と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果せなかった」
(『稿本天理教教祖伝』31ページ)
 
これは、教祖が月日のやしろとなられてからごく最初のころの出来事で、晩年の御苦労とともに、教話などに多く引用され、聞く者の共感と涙を誘いましたが、これの解釈については、大別して次の二つが考えられます。
 
第一は教祖成人論、つまり、教祖は月日のやしろとなられたときは、まだ人間性、人間としての心を残していて、明治七年に赤衣を召されるようになって初めて親神様の御心と一つになられたという見方に立つものです。復元経典が出される以前においてよくみられたもので、『正文遺韻抄』に、次のように記されています。

「実に恐れ多い事ながら、御教祖様のけなげなる丈夫の御心でありてすら、遂に三度までも、井戸ばたへ御たちなされたのであります。三度溜池へはまらうとなされたのであります。こゝまで御決心を被遊、六度までも身を殺してと思召し立ちたまふその御心中の御せつなさ、いかがでござりませう」(38ページ)

 親神様の思召と周囲の者、とりわけ夫善兵衞様の思いの間に立って苦悩される教祖のお姿に限りない共感を寄せ、多くの人は涙するとともに、神の道を求める厳しさに心を引き締めたわけですが、この解釈は二代真柱様の教祖論からは成立しないもので、人間としての教祖の側面が強調され、本来の「月日のやしろ」としてのお姿が歪められることになります。

 これに対して第二の解釈は、教祖は立教以来一貫して神性をもたれ、人間性、人間心は一切ないという見方に基づくものです。しかしそれでは、常に親神様の御心で判断され、行動されたと考えられますので、ひながたとしての身投げ、私たちにとっての身投げの意味が分からなくなります。

 教祖は月日のやしろとして、親神様の思召を啓示された教えの親であられるとともに、人間救済の先頭にお立ちくだされ、私たちを導かれるひながたの親でもあられます。「人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された」(『稿本天理教教祖伝』30ページ)と教えられています。

しかし身投げはどのように考えても「苦難に処する道」の一つとして、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」というジレンマに立たされたときの、取るべき行動とは思われません。苦難からの単なる逃避になってしまいます。また、教祖が私たちのために演技、芝居をされたとはとても思えません。

 宮池の問題は、私たちにとってのひながたにならないのであれば、それをどのように考えればいいのでしょうか。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』一八五「どこい働きに」に、次のように記されています。
「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも必ず思うな」

 これは明治十九年三月、教祖が櫟本分署からお帰りになられて、しばらくしてから仰せられたお言葉ですが、ここにヒントがあるように思います。

「起きてるというと、その働きの邪魔になる」とは、教祖は現身のままで「存命の理」としてのお働き(御魂だけのお働き。『逸話篇』四四、八八参照)があられ、現身はそのお働きの妨げとなるもので、教祖はお寝みになられている時も「存命の理」としてのお働きをされていた、と考えられないでしょうか。

 荒川善廣氏の月日のやしろの解釈(『「元の理」の探究』)を見てみましょう。
氏は、魂とは心身現象の生起する場所、容器と考え、「やしろ」とは教祖の身体ではなく魂であり、身体は「やしろの扉」に相当すると考えています。

 従って、教祖は「やしろの扉」を開かれる、つまり現身をかくされることによって、「月日のやしろ」としてのお働きは身体的制約を脱して、完全な生動性を全宇宙的な広がりにおいて発揮される、とみなされます。

 このように考えますと、宮池の問題は、あくまで月日のやしろとしての立場で推測しますと、教祖は月日のやしろとなられてすぐに「存命の理」としてのお働きを持たれており、身投げによって、身体的制約を脱せられ、月日のやしろから、いきなり「存命の理」としての教祖におなりになろうとされ、それを親神様から「短気を出すやない」と引き止められたのではないでしょうか。

 もしその時、現身をかくされていますと、ひながたの親としての五十年の道中とともに「存命の理」としての教祖のお働きも、私たち人間に教えられることがないことになります。

 荒川氏は、ひながたの五十年について次のような見解を示しています。
「教祖が『ひながたの親』として通られた五十年間は、単に言葉を介して人々の記憶にとどめられているだけでなく、たとえ意識されずとも、客体的不滅性として、後続の人々がそこから新たな経験を生み出すための実在的基盤を成している」(前掲書111ページ)

 つまり、「たすけ一条の台」としてのひながた五十年と悟れますが、これも結局は宮池の問題を前提にして、初めて成立してくるのではないかと悟れます。


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