2014年5月1日木曜日

No.102 教理随想(53) 陽気ぐらし(1)

 今回は「月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」(『教典』25ページ)という意味深長な文章を味わってみたいと思う。
 
まず「混沌たる様を味気なく思召し」人間を創造した、という箇所であるが、これは如何なる意味をもつのであろうか。
 一見すると「味気な」い、つまらない、面白くない、という偶然的な気まぐれから、人間が造られたように受け取れるが、決してそうではない。絶対者である親神が、泥海ばかりではつまらないから、という余りにも人間的な動機で、人間を創造するはずがないからである。
 
 そこで明治16年本の「神の古記」(中山正善著『こふきの研究』)をみてみると、「月日りよにんばかりでわ、神とゆうてうやまうものなし、なにのたのしみもなく、人げんをこんしらえ そのうえせかいをこしらえ、しゆごふさせば、にんげんわちよほ(重宝)なるもので、よふきゆさんを見て、そのたなにごともみられること」とあり、ここでは「神とゆうてうやまうもの」がないから、人間を創造した、と述べられている。
 
 つまり「味気ない」ということは「神とゆうてうやまうもの」がないこと、神を敬うことのできる主体者、自由をもった存在がないことを意味しているのである。
 したがってこの世の元初まりは泥海で、混沌としていて、そこには秩序もなく、物も何もないから味気ないというよりも、もっと端的に自由なる主体としての存在者がいないことが、味気ないことの理由であると理解されねばならない。
 
 ここでいよいよ人間創造となるのであるが、この創造は決して偶然的なものではない。「ともに楽しもうと思いつかれた」は、一見ある時偶然に思いついたように思えるが、そうではない。
 
 諸井慶徳氏が「神はただ即自的存在者たる限りにおいては、如何にその全一性を有し、根源性を保ち得ても、ついに神たるべき能動性を全うし得ない」(著作集第六巻114ページ)、「神は神たる存在に止まらず、神たるべき存在にならなければならない。神は神としての立場に安んぜず、神とされる立場に移らざるを得ない」(同書、115ページ)(極めて難解な表現であるが、神はいかに全知全能であっても、神だけでは全能性を全うできず、神とは独立の主体を必要とし、神とされる必要があるということ)と述べているように、あくまで必然的な展開なのである。
 
 ヘーゲルは、その弁証法論理において、即自から対自、さらに即自且対自への必然的移行を説いているが、ここでは神による人間創造であり、その展開は必然的なのである。
 次に「その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」の部分を検討してみよう。
 
 まず陽気ぐらしという人間創造の目的であるが、従来の宗教における創造説話においては、本教のように、はっきりとした人間創造の目的をもつものはない。
 『ムック天理』第二号「人間創造」には、世界各地の民族神話における人間、世界の創造が十七種類と、キリスト教の創世記が紹介されているが、そのいずれにも、何のために人間が創造されたのかという目的は示されていない。
 
 中国の神話には、女神が「さびしさ」から人間を造った、またミクロネシアの神話には同じように「一人でいることが空しい」からと記されているが、いずれも人間創造の単なる動機に他ならず「陽気ぐらし」というような積極的な目的は見当たらない。
 
 キリスト教においても「われわれのかたちに、われわれにかたどって人間を造り、これに海の魚とそらの鳥と、地のすべての獣と、家畜と、地のすべてのはうものを治めさせよう」(「創世記」)とあるだけで、何のために、は全く示されていない。
 
 本教においては「陽気ぐらし」という人間創造の目的は、
       月日にわにんげんはじめかけたのわ 
       よふきゆさんがみたいゆへから
               (十四,25)
にもみられるように、はっきりと示されているのであるが、このことは極めて画期的なことであり、この意味は深いといえる。
 
 なぜなら古来人間は、一体何のために生まれ、存在するのかという第一義的な疑問をたえず投げかけ、現代においても悩み続けているのであるが、この疑問、難問に人間の親なる神がはっきりと解答を出されたからである。
 
 仏教においては、生老病死一切皆苦と説かれ、生きていることそのことが苦痛とされ、この世からの逃避が強調され、またキリスト教においても、この世を苦の世界とみなし、あの世、彼岸をむなしく志向させるだけで、いずれも人間にこの世における生命を真に全うさせることができない。
 
 しかし本教では人間創造の目的が示され、この世で陽気ぐらしができることを教えられ、悩み、抗争にあえぐ世界の人々に、生きる希望を与えることになる。
 
 次に「陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」の箇所を見てみよう。
 ここで見落としてはならないことは、陽気ぐらしを「させる」ではなく、「する」のを見てとなっている点である。「させる」であれば、それは使役で、人間に自由がなく、ちょうど操り人形を扱うようにして、陽気ぐらしを実現するのであるが、それでは人間を造った意味がない。そうであればいかに人間と世界を造ったとしても、そこには親神しかなく、神は依然として「即自的存在者」に他ならず、また「味気なく思召す」ことになるからである。
 
 ところでよく、もし神がいるのなら、なぜこの世に諸悪がはびこり、抗争や戦争などの不幸が存在するのか、という一見もっともと思える疑問がだされるが、この問いは、自由という人間にとって貴重なもの、人間存在の根拠でもあるものをわすれる点で成立しない。
 
 なぜならもし人間に自由がなく、悪(といっても普通の意味ではなく、親神の思いに反する心)への傾向がないならば、人間は善のみを行なう自動機械のようなものになってしまい、そこには親神の意志しかないことになり、楽しみはないからである。
 
 真の楽しみは、他の自由なる主体がいてはじめて成立するからである。親神が自由をもたない人間を造り、それを操って陽気ぐらしを実現しても何の楽しみがあろうか。そのような問いを発するひとは、自分から自由をとってもらい、神の操り人形になることを望むようなものである。
 
 このように考えるとき、「させる」ではなく「する」となっていることが、いかにありがたいことかわかるのではないだろうか。
 親神はいつまでも気長く、子供であるわれわれが親の心を悟り、自発的に「陽気ぐらし」をするのを見て、ともに楽しむ、つまり神人和楽の世界を待ち望んでいるのである。


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