2014年3月15日土曜日

No.98  教理随想(49)  本席飯降伊蔵

飯降伊蔵さんが本席に
定まれるまで

飯降伊蔵さんは、明治20年3月25日、本席に正式に定まられます。教祖がおられる間は、神様のお話を直接聞かしていただくことができましたが、現身を隠されてからは、今度は本席を通してご神言をありがたいことに、聞かせて頂くことが出来るようになります。キリスト教、仏教では教祖、開祖の亡き後、直接の神言はなく、弟子たちが、教祖や開祖の言葉を思いだして、いろいろな福音書や経典にまとめるようになりますが、いろいろ異なった解釈を生み出す原因となり、教団が分裂していく要因となります。そのために教祖は本席を育て上げられたわけです。伊蔵さんの入信から本席になられるまでの経緯を簡単に振り返ります。

元治元年に奥さん、おさとさんの二度目の流産後の煩いをおたすけ頂いてから、明治十五年までの約20年間、伊蔵さんは朝早くから、仕事のあるときは、仕事が終わってから毎日雨の日も、風の日も、休むことなく、お屋敷に通われ、御用を続けられます。

その間、教祖から「伊蔵はん、この道はなあ、陰徳を積みなされや。人の見ている、目先でどんなに働いても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うているようでは、神様のお受け取りはありませんで。なんでも人様に礼を受けるようでは、それでその徳が勘定ずみになるのやで」とお仕込みさますと、早速に実行され、夜中、家路を急ぎながらも、こわれた橋を見つけると修理をし、もぐらが穴を開けて水漏れしていれば、だれの田もおかまいなく、これをつくろったりされたそうです。
そしてそのことが村人の知れるところとなりますと、「困ったことになったわい」と嘆いておられたようです。

また「理を立てて身が立つ。必ず人様を立てるようにして自分は上がらぬようにせよ。よしや人々より立てられる身となっても、高い心を使わぬようにすることが肝要である。十人の上に立てられたならば、十人の上に立って、十人の上の仕事はしていても、その心は十人の一番下に置くように。千人万人の上に立てられた場合も同様、その心は千人万人の一番下に置くようにせよ。」と諭されますと。道を通るときも、誰かれなく自分のほうから先に挨拶をされ、墓地への参拝のときも、道端の乞食にも挨拶をされ、その前を通られたそうです。
 
 教祖は伊蔵さんを、入信前から本席として定めることを予定されておられたように思います。
 元治元年教祖は「大工がでてくる。でてくる」と予言され、伊蔵さんが五月にお屋敷にこられると、「さあさあ、待っていた、待っていた」と仰せられ、おたすけされます。
 同年十月つとめ場所の棟上式の翌日、大和神社のふしがあります。それまでついてきていた信者はほとんど離れてしまいますが、伊蔵さんだけは一人残られ、後始末と内造りを続けられます。
 
 その後三年ほど、伊蔵さんはお屋敷に常詰めされ、これより九年間は、忙しい大晦日には、自分の家はさておき、決まってお屋敷の掃除をし、祭壇を整え、迎春準備をすませたうえで、帰宅、明けて正月には誰よりも先に、お参りされたそうです。
 
 二代真柱様は『ひとことはなし』の中で、「この九年の勤め、只一人でのつとめ、一筋心に親神様にお仕えされたそのうちに、後年本席としての理をつまれたものと悟られます」と述べられています。
「丸九年という~~。年々大晦日という。その日の心、一日の日誰も出てくる者も無かった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、ついてきてくれたと喜んだ日もある。これ放って置けるか。それより万事委せると言うたる」(M34,5,25)
ここに伊蔵さんへの全幅の信頼が感じられます。

 伊蔵さんは教祖のお言葉には絶対に服従で、素直についてこられますが、慶応年間とも明治元年のころともいわれる「お屋敷に入り込め」とのお言葉だけは、なぜか聞いておられません。
 
 つとめ場所の内造りのころ、夫婦ともども子供がまだなく、身軽だったこともあって、三ヶ月間、お屋敷に住み込まれますが、すでに子供三人、弟子一人を含め、六人が住み込む余裕はない、との人間思案、おはるさんのご主人、梶本惣治郎さんの「行ってもよかろうが、今のお屋敷の状態では、さしずめ食うに困るやろ」と意見、また村人の「金が要ればだしてやる。家が狭ければ普請の材木もだしてやるから、あんなところにはいきなさんな。どうでも行くというなら、乞食する覚悟でいきなはれ」と助言等によって躊躇をせざるをえなかったようです。
 
 それでも教祖は気長に辛抱強く待ち続けられますが、明治十四年、いよいよ時が熟してきます。
 伊蔵さんは仕事中、どうしたはずみか足を踏み外して腰を抜かす、次女のまさえは風眼(?)、長男政甚は口がきけない、という節をみせられます。
 そこで伊蔵さんも、いよいよ決断され、まず明治十四年九月、おさとは、まさえと政甚を連れて、つづいて明治十五年3月、伊蔵さんは長女よしえを連れて、お屋敷にに移り住まれることとなります。伊蔵さん五十才、おさと四十九才のときです。
 
お屋敷では伊蔵さんは、すでに年切り質からかえっていた、お屋敷の田畑にでて、慣れない野良仕事をされます。夜なべには、内職にお社造りをされ、子供の養育費にあてられたようです。有形無形の苦労がつづきますが、しかし教祖から「さぞつらかろうが、もうしばらくであるほどに、気を長く持って、堪忍なされや」、「これまでの苦労の理は、一夜の間にも取り返してみせる。子供のことは何も思うやないで」と諭され、それに勇気付けられ日々を通られます。
 
 明治十五年十一月九日、伊蔵さんは弟子が宿屋の寄留届けをおこたったことを理由に、奈良監獄署に十日間拘留されることになります。これも神様からのためしのように思われます。

 伊蔵さんは元治元年に夫婦そろって扇と御幣のさづけを頂き、明治八年ごろ、言上のさづけを頂かれます。
 
 さらに十三年、「ほこりの仕事場」と称されるようになります。これは人間の事情に対処する立場で、「若き神」といわれた、こかん様が、明治八年に出直されてからは、教祖はよく、「ほこりの事は仕事場に回れ」といわれ、伊蔵さんに任されたようです。
 
 明治二十年正月から、教祖のご気分すぐれなくなられますが、そのとき、「伊蔵さんに扇を持ってもらってくれ」指図されたとも語り伝えられています。
 教祖が現身をかくされたとき、御休息所の教祖の休んでおられた次の間に控え、のち一同を前に内蔵の二階で現身おかくしの神意が明かされることになります。

 明治二十年二月二十三日、教祖のご葬祭が盛大に万余の参列者が押し寄せる中、執行されます。そのときの指図は伊蔵さんに伺われたようです。
 
  三月四日「刻限御話」がでます。
「さあ~~身の内にどんな障りがついても、これはという事がありても、案じるではない。神が入り込み、皆為すことや」
 三月十一日、伊蔵さんは昼食のあと、身体のだるさ、悪寒を訴えます。
「額から玉のような汗がでて、汗が飴か納豆のように、ふくたびに糸を引く。顔は引付をおこしたようだった。」と言われています。また、あばら骨がブギブギと大きな音を立てて、一本一本、右のほうから、左のほうからおれていく。すると今度はおれた骨が一本一本、元にもどっていく、という不思議な現象がおこり、その音はそばで見守る者の耳まで届いたといわれています。
 
 十一日から二十五日までの十五日間に三十一回にわたって、「刻限御話」がだされます。
 三月十七日午後七時の刻限御話、
「さあ~~今までというは、仕事場は、ほこりだらけでどうもならん。さあ~~これからは綾錦の仕事場。(中略)さあ、すっきりとした仕事場にするのやで。綾錦の仕事場にするのやで。」
 
 このお話から伊蔵さんの半月に渡る身上を通してのお仕込みは、これまでの「ほこりの仕事場」から「綾錦の仕事場」へのしこしらえのためのものであったことが分かります。

 三月二十五日午前五時半の刻限御話、
「・・・神というものは、難儀さそう、困らそうという神はでて居んで。・・・それ故渡すものが渡されんだが、残念情なさ、残念の中の残念という。・・・さあ返答はどうじゃ。無理にどうせと言わん。」これにたして「いかにも承知致しました」と答えると、続いて「・・・やりたいものが沢山にありながら、今までの仕事場では、渡した処が、今までの昵懇の中であるが故に、心安い間柄で渡したように思うであろう。この渡しものというは、天のあたえで、それに区別がある。・・・さあ~~本席と承知がでけたか~~~。さあ、一体承知か。」
 これにたいして初代真柱様より「飯降伊蔵の身上差し上げ、妻子は私引き受け、本席と承知」と申し上げられ、ここに神の思し召しによって「本席」と正式に定まられることになったわけです。
 「やりたいもの」、「天のあたえ」とは言うまでもなく、おさづけのことで、おさづけを渡される立場が、「綾錦の仕事場」ということなります。
 これより二十年間、刻限と伺いにたいする、おさしづと、さづけが本席を通して私たちに渡されることになります。
 本席は明治四十年六月九日正午ごろ、七十五才で出直しになられます。


2014年1月31日金曜日

No.97 教理随想(48) やさしき心

やさしき心
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」
(『逸話篇』一二三)                            むごい心をうちわすれ 
やさしきこゝろになりてこい
(五下り、六ツ)                   
 
このお言葉は教祖が入信後間もない梅谷四郎兵衛さんに言われたもので、信仰の角目をわかりやすくお示し頂いています。
「やさ(優)し」の意味は、『広辞苑』には(1)さし向うと恥かしくなるほど優美、(2)素直、おとなしい、温順、(3)情深い、情がこまやか(4)けなげ、殊勝、神妙等と示されていますが、本教ではもっと積極的な意味を教えられています。

『みかぐらうた講義』(深谷忠政著)によりますと、やさしき心の反対の「むごい心」は両手で押える手振りから、強い者が弱い者を押える非道で情知らずの、我さえよくばの利己主義の心であるのに対して、「やさしき心」は手を平にして円を描き、両側から抱きかかえて押しいただく形の手振りから、人を抱きかかえる思いやりのある心、即ちたすけ一条の心と理解されています。
 
又おさしづには、
「どんな事も心に掛けずして、優しい心神の望み」     (M34.3.7)、
「たんのう安心さすが優しき心と言う」(M33.4.21)、
「優しき者は日々満足。満足は小さいものでも、世上大き理に成る」(M33.7.14)、
「皆来る者には優しい言葉かけてくれ。…年取れたる又若き者も言葉第一、男という女という男女に限りない」(M34.6.14
等と教えられ、優しさは老若男女にかかわらず求められ、たんのうに根差していることがわかります。
 

教祖は人類の母親である、いざなみのみことの御魂のお方で、
          一れつのこどもハかわいばかりなり 
          とこにへたてわさらになけれど
              (十五、69
          「反対するのも可愛我が子、
        念ずる者は尚の事。」
             (M29.4.21
に示されますように、我子である人間を救けたい一条で五十年のひながたの道中を通られました。従って「やさしき心」とは「たすけ一条の心」である親心の一つの現われと悟ることができます。
 
教祖五十年のひながた、御誕生からの御道すがらに拝察されます「やさしき心」の具体例をふりかえってみましょう。
 
 教祖は相手が乞食、怠者であれ、軍人であれ一切の隔て心なく「御苦労さま」とお声をかけられています。その優しき心にふれ、怠者の作男は人一倍の働き者に更生し、又佐治登喜治良さんはお声を聞いたとたんに神々しい中にも慕わしく懐かしく、ついて行きたいような気がして、身上も事情もないのに入信を決意したと言われています。(『逸話篇』一四六)

 教祖は米泥棒に対しても、その罪を責めることなく、「貧に迫っての事であろう、その心が可哀想や」とかえって労りのお言葉をかけられた上、米を与えてゆるされています。

 また明治十九年二月十八日からの櫟本分署での最後の御苦労の際にも、道路にそった板の間に坐らせて、外を通る人に見せてこらしめようとする巡査に対しても、孫のひさに「あのお菓子をお買い」、「あの巡査退屈して眠って御座るから、あげたいのや」と言われ、底なしの深い親心を、どこにおられても示されておられます。

「やさしき心」とは、このように見てきますと、たすけ一条の心、親心の一つで極めて積極的な意義をもつもので、誠の心と同じであると悟ることができます。

「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い」、「一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという、一つの理が治まるという、それ世界成程という」、「人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという」(「おかきさげ」)

「やさしき心」がたすけ一条の心に通じるものであり、たすけ一条の心から真の「やさしき心」が生じてくることを、教祖が「月日のやしろ」にお定まり下さいます以前の道すがらの中から学ばせて頂きたいと思います。

 教祖の夫善兵衛さんと女衆かのの事件について、『私の教祖』(中山慶一著)にみられます悟りを基にして思案してみます。(「御貞節」136~145頁参照)

 善兵衛さんと、かのの事件は、いつのことか明確ではなく、色々の推測や憶測がなされています。仮にこの事件が教祖十九才前後の事としますと、結婚以来六年で、まだ子供がおられないときで、当時の社会事情からしますと、全く考えられない事件というわけではありません。

 問題は妻であられる教祖が、かのに対してどのようなお心で、どのような態度を取られ、どのように接しておられたかということであります。

 ある日隣家の足達家の当主が、中山家に敬意と親しみを感じている上から、他人事と思えず、秘かに教祖に二人の様子に気をつけるように忠告します。これをお聞きになられた教祖は少しも動揺されることなく、心からその厚意に感謝された後、「夫の身持に関する限り、妻である自分が一番良く承知して居ります。決して人々の口の端に上る様な事はございませんから、何卒御心配頂きませぬよう」と確信のある態度でお応えになられたと伝えられています。

 この事情をお知りになられても、夫の心を忖度なされ、妻として夫の心に充分の満足を与えることが出来ず、夫の心に隙を与えた身の不徳を、強く反省なされ、もし夫の心に隙や淋しさを与えたとすれば、それは全部妻たる自分の責任である、と氏は教祖の御心中を推察されています。

 したがいまして教祖は夫を恨む事なく、却って申し訳がないという、一入お優しい思いやりをもって、夫の心の安まるように仕えられ、憎い(私たちから見て)かのに対してさえ、「自分の足りないところを自分に代って夫の心を慰めてくれるのだ」との思いで、「ご苦労様」という労りさえこめて、かのを可愛がっておられます。ここには決して悲しいあきらめの姿は見えず、積極的に事態に対処されている様子がうかがわれます。

 夫がかのを連れて名所見物にでかけようとしているときに、夫の気持ちを汲まれて、かのにお供するようにお声をかけられ、御自分の晴れ着を貸し出され、大家の若奥様のような髪型に結い上げられ、御自分の立派な櫛、かんざしまでも出され、かのの頭に飾っておやりになられます。そして送り出されておられます。

 かのは教祖の敵への底なしのご親切を裏切り、教祖を無きものにしようと悪だくみを企て、ある日食事の汁のものに毒を盛ります。これを召し上がられた教祖は、やがて激しく苦しまれますが、その原因がかのの仕業であるとお分かりになられたときにも、かのを責められることなく、苦しい息の下から、「これは、神や仏が私の腹の中をお掃除下されたのです。」(『教祖伝』17頁)と宥め許されておられます。

 この事件を氏は「徹すれば道開ける」という真理であると悟られています。
 後年になって「捨てゝはおけん、ほってはおけんと言う処まで行けば神が働く」と諭されていますが、真実の限りを尽して親神様が「捨てゝはおけん、ほってはおけん」と思召し下されるところまで徹し切れば、如何なる難局も必ず打開されるものであるという事を、身を持ってお示し下されているものと悟られています。

 我々は、常に相手の非行をのみ責めようとしますが、それは決して事態を解決する道ではありません。事情の縺れの原因と責任の半分は、必ず自己にもあるものであります。己の心と態度が変わる事によって、必ず事態は解決するものであるという、真理をお教え下されているものとも悟られています。 

最近女性が結婚の条件の第一に男性に求めることが、優しさであると言われていますが、このような優しさは、自分を甘やかしてくれ、我ままを受け入れてくれるという自己中心的なもので、かえって心のほこりとなるようなものと思われます。
 
誠と同じ意味での「やさしき心」は、癖、性分をとって、いかなる事が起きても、相手を責めるのではなく、「我が身うらみ」として受け止め、たんのうの心を治め、親心に少しでも近づかせてもらい、たすけの心が生れるときにはじめて、自ずと出てくるのではないでしょうか。

『諭達第二号』に「成人とはをやの思いに近づく歩みである」、「この果てしない親心にお応えする道は、人をたすける心の涵養と実践を措いて無い」とお示し頂いています。見方をかえますと、成人の目標とは「むごい心をうちわすれ やさしき心になりてこい」ということもできると思われます。

 また『諭達第三号』に「慎みを知らぬ欲望は、人をして道を誤らせ、争いを生み、遂には、世界の調和を乱し、その行く手を脅かしかねない。我さえ良くばの風潮の強まりは、人と人との繋がりを一層弱め、家族の絆さえ危うい今日の世相である。まさに陽気ぐらしに背を向ける世の動きである。
心の拠り所を持たず、先の見えない不安を抱える人々に、真実のをやの思いを伝えて世界をたすけることは、この教えを奉じる者の務めである。

今こそ、道の子お互いは挙って立ち上がり、人々に、心を澄まし、たすけ合う生き方を提示して、世の立て替えに力を尽すべき時である。」と明示されています。そのために求められていますのが、まさに「やさしき心」であると言えるのではないでしょうか。

2013年11月17日日曜日

No.96 教理随想(47) 三つの宝

   三つの宝
教祖は、ある時飯降伊蔵さんに、掌を広げさせ、籾を三粒お持ちになって、
『これは朝起き、これは正直、これは働きやで。』と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、 『この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。』と、仰せられた。」(『逸話篇』二九)
 
教祖は人間生活の指針、生活倫理として、「朝起き、正直、働き」を教示されています。「朝起き」と「働き」について考えてみましょう。
「朝起き千両」、「朝起きは七つの徳」という諺がありますが、教祖はこのような常識的功利的な意味だけではなく、心身にとってもっと大切なことを教えられていると悟れます。
 
最近の脳科学による眠りや生体時計の研究をみてみましょう。
人間の体には自律神経、体温、睡眠、覚醒を司る各種のホルモンなど、およそ一日の周期で変化する様々な生理現象があって、そのリズムはすべて脳にある生体時計からの命令で刻まれています。
人間の生体時計は両目の奥にある視床下部の視交又上核と呼ばれる部分にあります。この生体時計の一日は二十四時間より約三十分長くなっています。

従って睡眠覚醒のリズムは地球時間より毎日三十分づつ遅れていきますので、二十四日目になると、体の一日のリズムが昼夜が逆転し、昼に体がいちばん不活発な状態になるということも起こります。

しかしふだんこういうことがなく、地球時間と歩調をあわせて生活することができます。これは生体時計の周期を地球の周期にリセット(同調)させる因子があって、中でも朝の光による同調作用が効果的で、脳の視交又上核が毎朝光を認識することによって、生体のリズムを二十四時間になるようにリセットしています。
 
生命システムの動的協力性の解明を目指す、生物学者の清水博氏は次のように述べています。
 生命科学における「引き込み現象」とは異なるリズム同士が自発的にシンクロナイズする現象であり、同じリズム同士がそうなる共鳴現象と区別されている。」

「本質的には共鳴は同じ振動数をもつ振動系が同期する現象ですが、引き込みは二つの基本振動数が異なっていても、その振動数を互いに合わせるように変更して同期化してしまう現象です。動物のもつ体内時計のリズムが、日周期の変化に引き込まれて変化するのも一種の引き込みです。このように引き込みは我々の体内でも、いろいろな生命現象に関連して起きており、生理的にみても非常に意義ある現象として知られています。」(『モダンの脱構築』今田高俊著、中公新書93、94頁)

夜ふかしの生活では朝より夜に自然光でない光を浴びることになり、生体時計の周期を長くし、二十五、六時間になり、このズレが夜ふかしをつづけると拡大していき、修正できないようになります。

これが「内的脱同調」とよばれる慢性の時差ぼけ状態で自律神経失調症の一つである起立性調節生涯(起き上がると血圧が急に下る)、慢性疲労、抑うつ、活力消耗等の症状となっていきます。
 
又朝の光には心を穏やかにする神経伝達物質であるセロトニンの働きを高める作用もあります。この物質は脳内の神経活動の微妙なバランスを保ち、これが不足すると精神が不安定になり、人間関係がうまくいかなくなってくることがわかってきています。 

人間は当り前のこと思われるかもしれませんが、朝日を浴び、昼夜は働いたり、活動したりして、夜はゆっくり休むときに持てる能力を最大限に発揮できるように守護されているわけです。 

次に「働き」について考えてみましょう。「働く手は」で働く意味について述べましたので、今回はそれを補足して別の観点から考えてみます。
 
これまでの労働観において働くことは生きるための単なる手段、生活の糧を手に入れるためにやむをえずしなければならないことや義務とみなされ、働かざる者にマイナスの評価が与えられてきました。

これに対して教祖は「人間というものは働きにこの世に出てきたのや」と仰せられたと聞かして頂きますが、このお言葉は人間は働かずにおれない存在で、働くことは生きることと離れず結びついている人間の本性であることを教えられていると悟ることができます。

「働く手は」において「人間にとって他者から承認されることは、ほとんど本能的ともいえる根源的な欲求である」という仮説を紹介しましたが、その欲求とともに、人間には贈与に対してお返し、お礼をせずにおれないという本能的ともいえる欲求があるのではないでしょうか。
 
          人のものかりたるならばりかいるで 
          はやくへんさいれゑをゆうなり
             ( 三、28
 このお歌は他人に物を借りたなら利子をつけて御礼を言い、早く返済するようにという常識的な意味の奥に、人の物でも借りたなら利がいる、まして神からの借り物となると、どれだけの利がいるか思案してみよ、という意味があると考えられます。
 
人間の身体は親神からの借り物で、それは親神の見返りを求めない絶対的な無限の価値をもつ贈与であると悟りますと、感謝の気持ちが生じ、恩義に感じてお返しせずにおれなくなる、このことが「働き」、働くことの根本にあるのではないでしょうか。
 
昨今、世界金融危機、世界同時不況によって、労働環境が悪化し、働くことについての、ひいては生きることそのものについてのシニシズム(物事を正面から立ち向かおうとするのを冷笑する考え方)が人々のあいだにしのび寄ってきているように感じられます。

はたらくのは所詮金のためにすぎず、要領のいいやつが勝組となって得をする、正直者は馬鹿をみる社会になっている、つまり働くことが生きがいとならないと感じる若者が増加してきています。 

この根本原因として、借り物を自分の意のままに処分できる自分の所有物であり、働くことは生きるための単なる手段にすぎないとの考え方や社会における生産至上主義、能力主義、成果主義が考えられます。
 
本教では「身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。」(M2261)と教示されています。
 これは身体は親神からの借り物で、人間に所有権はなく、使用権しかないことと「我が理」として許されています心(自我を含む一切の精神現象)は借り物である身体、いのちに支えられて成立することを意味していると悟ることができます。

私のいのちは借り物の身体に宿りますが、それは又親のいのちによって授けられたものでもあります。又社会のいろいろな人のいのちや世界の国々の人々のいのちの営み・働きによっても支えられ、食物(動植物のいのち)をはじめとするいろいろなものによって維持されています。
 
それらのお金には換えることのできないいのちの営み・働きによって私が支えられている、また心を使うことができると悟りますと、心の使い方も自ずと制限され、それらのいのちの贈与に対するお礼の心づかい、働きとなってくるのではないでしょうか。
 
この報恩としての働きにおいては、職業に貴賎はなく、たとえ家事労働であっても、報恩の心でなされる限り、尊いということになります。
 
最後に働きに伴います与えについてのおさしづを紹介します。

「十分楽しませてある。不自由さしてない。この理しあんせにゃわかりやせん。」                                  (M35,3,14

「これまで年限相応の楽しみは皆つけてある。」(M32,2,2

「めん~~年々のあたゑ、薄きは天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという。」                     (M21918

「あたゑというは、どうしてくれこうしてくれと言わいでも、皆出来て来る。天よりの理で出来て来る。」                (M261128

「欲しいと言うてあたゑはあろうまい。心にたんのう持たねばなろうまい。」
                (M24520

「渡世商売という~~~、一時には良いように思う。(中略)数々商法中にせいでもよいものもある。よう聞き分け。せいでもあたゑ、ならん事すれば理を添えて後へ返える。」
               (M31629
 
格差社会といわれ、与えに関して不平等にみえる現実は確かにありますが、これについては「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け。」(M25113)とのお言葉を心に治めたいものです。


2013年9月18日水曜日

No.95 教理随想(46) 宮池の問題

「或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよ~~となると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、『短気を出すやない~~~』と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果せなかった」
(『稿本天理教教祖伝』31ページ)
 
これは、教祖が月日のやしろとなられてからごく最初のころの出来事で、晩年の御苦労とともに、教話などに多く引用され、聞く者の共感と涙を誘いましたが、これの解釈については、大別して次の二つが考えられます。
 
第一は教祖成人論、つまり、教祖は月日のやしろとなられたときは、まだ人間性、人間としての心を残していて、明治七年に赤衣を召されるようになって初めて親神様の御心と一つになられたという見方に立つものです。復元経典が出される以前においてよくみられたもので、『正文遺韻抄』に、次のように記されています。

「実に恐れ多い事ながら、御教祖様のけなげなる丈夫の御心でありてすら、遂に三度までも、井戸ばたへ御たちなされたのであります。三度溜池へはまらうとなされたのであります。こゝまで御決心を被遊、六度までも身を殺してと思召し立ちたまふその御心中の御せつなさ、いかがでござりませう」(38ページ)

 親神様の思召と周囲の者、とりわけ夫善兵衞様の思いの間に立って苦悩される教祖のお姿に限りない共感を寄せ、多くの人は涙するとともに、神の道を求める厳しさに心を引き締めたわけですが、この解釈は二代真柱様の教祖論からは成立しないもので、人間としての教祖の側面が強調され、本来の「月日のやしろ」としてのお姿が歪められることになります。

 これに対して第二の解釈は、教祖は立教以来一貫して神性をもたれ、人間性、人間心は一切ないという見方に基づくものです。しかしそれでは、常に親神様の御心で判断され、行動されたと考えられますので、ひながたとしての身投げ、私たちにとっての身投げの意味が分からなくなります。

 教祖は月日のやしろとして、親神様の思召を啓示された教えの親であられるとともに、人間救済の先頭にお立ちくだされ、私たちを導かれるひながたの親でもあられます。「人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された」(『稿本天理教教祖伝』30ページ)と教えられています。

しかし身投げはどのように考えても「苦難に処する道」の一つとして、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」というジレンマに立たされたときの、取るべき行動とは思われません。苦難からの単なる逃避になってしまいます。また、教祖が私たちのために演技、芝居をされたとはとても思えません。

 宮池の問題は、私たちにとってのひながたにならないのであれば、それをどのように考えればいいのでしょうか。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』一八五「どこい働きに」に、次のように記されています。
「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも必ず思うな」

 これは明治十九年三月、教祖が櫟本分署からお帰りになられて、しばらくしてから仰せられたお言葉ですが、ここにヒントがあるように思います。

「起きてるというと、その働きの邪魔になる」とは、教祖は現身のままで「存命の理」としてのお働き(御魂だけのお働き。『逸話篇』四四、八八参照)があられ、現身はそのお働きの妨げとなるもので、教祖はお寝みになられている時も「存命の理」としてのお働きをされていた、と考えられないでしょうか。

 荒川善廣氏の月日のやしろの解釈(『「元の理」の探究』)を見てみましょう。
氏は、魂とは心身現象の生起する場所、容器と考え、「やしろ」とは教祖の身体ではなく魂であり、身体は「やしろの扉」に相当すると考えています。

 従って、教祖は「やしろの扉」を開かれる、つまり現身をかくされることによって、「月日のやしろ」としてのお働きは身体的制約を脱して、完全な生動性を全宇宙的な広がりにおいて発揮される、とみなされます。

 このように考えますと、宮池の問題は、あくまで月日のやしろとしての立場で推測しますと、教祖は月日のやしろとなられてすぐに「存命の理」としてのお働きを持たれており、身投げによって、身体的制約を脱せられ、月日のやしろから、いきなり「存命の理」としての教祖におなりになろうとされ、それを親神様から「短気を出すやない」と引き止められたのではないでしょうか。

 もしその時、現身をかくされていますと、ひながたの親としての五十年の道中とともに「存命の理」としての教祖のお働きも、私たち人間に教えられることがないことになります。

 荒川氏は、ひながたの五十年について次のような見解を示しています。
「教祖が『ひながたの親』として通られた五十年間は、単に言葉を介して人々の記憶にとどめられているだけでなく、たとえ意識されずとも、客体的不滅性として、後続の人々がそこから新たな経験を生み出すための実在的基盤を成している」(前掲書111ページ)

 つまり、「たすけ一条の台」としてのひながた五十年と悟れますが、これも結局は宮池の問題を前提にして、初めて成立してくるのではないかと悟れます。


2013年7月5日金曜日

No.94 教理随想(45) 最後の御苦労(2)

教祖の最後の御苦労を打擲説を肯定して、イエスの十字架の磔刑と重ねて見る見方もありますが、言語道断というほかありません。
 
イエスの磔刑の様子については、『マタイ伝』二七章に詳細に記されていますが、イエスはユダヤ人の王として、ユダヤ教の正統派であるパリサイ派、サドカイ派の反感を買い、ローマ帝国の支配下にあったパレスチナの地に政治的危険をもたらす人物と映り、約二年間の伝道はローマの国法にふれるものとみなされ、政治犯としてエルサレム門外のゴルゴタの丘で処刑されたわけです。また直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお捨てになったのですか)と叫んだと言われています。

イエスを「神の子」であるとする信仰は、イエスが死後三日後に霊的に蘇り、それを信じた弟子たちの間にはじめて芽生え、弟子のパウロを中心にして、イエスはキリスト(救世主)であるとの信仰が確立されるようになります。イエスは自らをキリスト教の開祖であると決して認めていなかったわけであります。
 
ところで打擲説の認否にかかわらず、教祖は三十年来の寒さの中、お休みのときは「上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被り、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれ、分署から支給されるものは何一つ召し上がられず、梶本家からの鉄瓶に入れた白湯のみをお飲みになられておられたためか、分署から帰られてから連日お寝みになられていることが多かったようです。

また「耳は聞こえず、目はとんと見えず、という状態であった」(『根のある花、山田伊八郎』八一頁)と記されていますが、これをどのように受け取ればいいのでしょうか。
 
『教祖伝』に教祖の御苦労については「親神が連れて行くのや」、「皆、親神のする事や」、「とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや」(二九〇頁)と記されています。ということは教祖の御身が不自由になられたのも、親神のされることとなります。

『おふでさき講義』に「十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ」(三、73)は明治二十年に教祖が現身をかくされる御予言である、と説明されています。おふでさき第三号は明治七年一月より書かれたもので、この年十一月大和神社での祭神問答をきっかけにして、十二月に山村御殿への御苦労が始まります。
 
そして十二月二十六日に四名の者に身上だすけのさづけが渡されます。さづけは「存命の理」に基づくことを考えますと、教祖は現身をもたれたままで、身体的制約のため不十分ではありますが、「存命の理」としてのお働きを具体的な目に見える形で示され始めたと悟れるのではないでしょうか。
 
従って分署から帰られて十二日目の三月十二日のお言葉、「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな」(『逸話篇』一八五)の「その働き」とは「存命の理」としてのお働きで、現身をもたれていることによって、制約されない自由なお働きができないと考えることができます。

また分署からお帰りになられた三月一日は陰暦の正月二十六日で、それからちょうど一年後に教祖は「やしろの扉」を開かれ現身をかくされますが、その一年間につとめの急き込みとともに、「存命の理」の信仰を確立するための教祖のさらなる御苦労が続けられることになる、と悟らせて頂けるのではないでしょうか。
 
最後の御苦労を通して教えられますことは、「蝉の抜け殻」(『おふでさき注釈』170頁、教祖は小寒様の出直しに際して、「お前は何処へも行くのやない。せみの抜けがらも同じ事、魂はこの屋敷に留まっている。またこの屋敷に生まれ帰って来るのやで。」と、さながら生ける人に物言う如く微笑やかに仰せられたという。)同然の分署を訪れ、そこでの御苦労を涙ながらにしのび、たすけ一条の決意をするという皮相的なことではなく、私たち子供の成人の鈍さゆえに、教祖のその御苦労が百十五歳の定命を二十五年縮められ現身をかくされる遠因となったことへのおわびと、たすけ一条の根拠であります、ぢばを中心とする神一条の信仰、「存命の理」への信仰、「元の理」によって教えられます生命の根源への思慕、つとめ一条の信仰を改めて問い直すことで、それによって真のたすけ一条の心定めができるのではないかと思われます。








2013年6月11日火曜日

No.93 教理随想(44)  最後の御苦労(1)

     最後の御苦労 

「この冬は,三十年来の寒さであったというのに、八十九才の高齢の御身を以て、冷たい板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である。」(『教祖伝』二九一頁)

 教祖は明治十九年二月十八日から三月一日までの十二日間、櫟本分署にて最後の御苦労を下されます。

拘留の理由は心勇組(敷島の前身)の講中が門前の村田長平方の二階でてをどりをしたためと考えられていますが、それは契機でありまして直接的には『御守の中に入れたる文字記してある「キレ」出でしより、其品を証拠として教祖様及び真之亮を引致したり。桝井と仲田ハ屋敷に居りし故引致せらる。』(『ひとことはなし』二三三頁)からわかりますように、「御守り」の交付の責任の所在に関わるものです。

明治十七年八月十八日から十二日間の御苦労の拘引理由と同じで、「違警罪第一条第九項」の違反であります。「神官、僧侶ニアラズシテ他人ノ為メニ加持祈祷ヲナシ、又ハ守礼ノ類ヲ配授シタル者」に当たるとみなされたわけです。

また次のような見方もあります。
『教祖に対する告発は不敬罪でもなく、また菊の紋を使ったことに対するものでもなく、違警罪第四二七条の十二、すなわち「妄ニ吉凶禍福ヲ説き、または祈祷符咒ヲ為シ人ヲ惑ハシテ利ヲ図ル者」に対する処罰で、これを犯したときは「一日以上三日以下ノ拘留ニ処シ又ハ二十銭以上二円二十五銭以下ノ科料ニ処」されるのが普通であるのに、教祖の場合はこの規定をはるかに越える十二日間という拘留を課している。それは旧刑法の再犯加重ないし併合罪を適応したからである。いずれにしても適応した刑は違警罪であり、決して不敬罪でも重罪でもない。』(『お道の弁証』飯田照明著533~534頁)

違警罪とは明治刑法(明治十五年施行)では重罪、軽罪の下の一番軽いもの、拘留、科料に処せられるもので、教祖の場合は政治犯では決してありません。

従って明治十九年頃は、軍国主義が大いに宣伝されていたので、その時代に世界一列兄弟、たすけ合いなどと説く人間は、政治犯とみなされたり、重罪人とみなされるというようなことは、考えられません。

大日本帝国憲法制定は一八八九年(明治22年)で、ここではじめて天皇が神聖にして不可侵という国家神道における立場が明確にされることになりますが、それまでは明治政府の宗教政策は二転三転していて、各宗教は自主的な教化活動を行うことが認められていたようです。(『国家・個人・宗教』稲垣久和著 講談社現代新書31頁)

本教への本格的な弾圧がはじまりますのは、明治二九年教祖十年祭が執行されました翌月の内務省秘密訓令甲第12号が発布されて以降のことであります。

重罪人ということは「不敬罪」つまり天皇を尊敬しない罪で、教祖にとっては一列兄弟で、天皇も普通の人間も親神の子として平等ですから、この教えから直ぐに、天皇を無視している、軽視している、だから「不敬罪」である、というのはあまりにも短絡視した浅はかな見方ということになります。

「神聖にして不可侵」という天皇の立場は、明治二十二年に制定される帝国憲法以降のことで、それまでは時の政府も「不敬罪」を振り回すことはできなかったので、明治十九年の時点で「不敬罪」を当てはめることは論外ということになります。

伊藤之雄氏は「明治天皇については、第一次大戦を経て、国民に不安感が広がった1920年代、英雄を求める機運もあったことから神格化されている。」(『明治天皇』ミネルヴァ書房)と述べています。

明治四十三年(教祖が現身をかくされてから二十三年、教祖が現身をもたれていますと百十三才の年)に大逆事件がおこります。これは社会主義者の幸徳秋水をはじめとする十二名が天皇暗殺未遂の疑いをかけられ、天皇の名で処刑される事件です。このときは「大逆罪」が適用されます。

この事件は後に検事の手による冤罪であることが証明されますが、この時には、社会主義のイデオロギーを少し主張するだけで、不敬と見なされ、逮捕されたり、処刑されるというようなことが起こっていましたが、明治十九年の時点では、このようなことは全く考えられません。
 
しかし問題は違警罪の教祖が官憲から拷問をうけたか否かで、肯定否定の見方があります。辻忠作さんは次のように記しています。
「其時さし入にゆき居るに巡査が教祖様を無暗に打ちょふちゃくすること甚だ敷く誠に見るも涙の種思ふもかしこきこと事にぞある後三月中ごろから中田儀三郎煩ひとなり五月末に死去なりました」(『復元』第三一号、四十頁)

仲田儀三郎さん(当時五六歳)の死去が、改宗をせまる折檻によるものかどうかはわかりません。
しかし教祖への打擲については事実かどうかは疑わしく、忠作さんが差し入れ(これも不確実)にいって、そのような現場を見ることなど考えられません。分署に入ることすら自由にできず、分署の中の様子は、教祖に昼夜の別なくお側に仕えられた、ひさ様に差し入れられた弁当箱のタブレットを通してしか知ることができなかったようです。

またひさ様の書き残されたものの中には、忠作さんの名前は全く見当たりません。一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています。
 
ひさ様は教祖が井戸水を浴びせられたという風説を聞くたびに、『「老母様には一寸だって水なんかかけさせなかった」とさながら自分が咎められているかの様に、力説いたされました』(『ひとことはなし』二四六頁)とも記されています。
 
教祖にはひさ様が付き添われますが、付き添いをゆるされ、夜具類は何一つ与えられない中、座布団を二枚持ち込められたのも、「其真の心(ひさ様の)ニ署長初ぢゅんさもみな~~かんじて、おひさ様のゆふ事ハみな~~ゆるしてくれたる事であり升」(『静かなる炎の人』一二二頁)と記されていますように、警察側に教祖の御健康を気遣い、配慮があったためと考えられます。
 

2013年4月10日水曜日

No.92  教理随想(43)  自由自在について


 今回は本教における自由、自由自在について検討してみよう。
 さて自由の問題は、古くて新しい問題で、様々な人々によって種々の立場から論じられているのであるが、一般的には次のように理解されている。

 自由とは「広義には存在物が、外的あるいは内的な力の強制や拘束や妨害なしに、その本性あるいはその意志にしたがって働きうること。物体の自由落下から人間の自由意志まで含めていう。より狭義には、行動の自由と意思決定の自由に分けられる」(『現代哲学事典』講談社)と考えられ、行動の自由はさらに細かく、身体の自由や衝動や狂気に支配されず、良心にかなった行動をする倫理的自由(カントに代表される自由で、自由とはミズカラニ由ル、つまり自律で、各自に内在する道徳法則に従うことと考えられている)。また結社集会、思想表現、信仰の自由等に分けられ、原則としてこれらの自由の実現がよりよきものとして目指されている。

 これについては自由実現の手段、実現の程度の差などが問題にされるにすぎず、常識的に理解しうるといえよう。
 しかし意志決定の自由となると、複雑でいろいろ論議をよぶことになる。
 
なぜなら選択における人間の意思決定、例えば結婚相手を誰にするかはあくまで自由で、何にも依存しない、否因縁によって、自分が決定する前にすでに決定している、選ぶのではなく、選ばされる、とも考えることができるからである。また何にも拘束されず自由に振舞っていると思っていても、単に目に見えない運命のようなものに操られているにすぎないとも考えうるからである。

 このように考えると、意思決定の自由はあるのか否か、極めて難しい問題になってくる。

 最近の脳科学の研究によると、次のような
興味深い研究結果が報告されている。
 例えば水を飲もうと思って、コップのほうに手をだそうとすると、そう思う0.5秒前に、水を飲む行動に対して、脳はすでに動きだしている。「水を飲もう」という意識は、「無意識である」脳機能の後追いなのである。(養老孟司著『無思想の発見』ちくま新書)

これが本当だとすると、人間の自由、意志とは何か、はたして存在するのか、改めて考えさせられる。

 哲学者ヘーゲルは意志の自由について次のように述べている。
 意志の自由とは単なる恣意、つまり偶然性の形式のうちにある自由、他から強制されないで自ら進んで選ぶという選択の自由にほかならない。自分が選択の自由によって選んだのだから、自由で最も主体性を発揮しているように見えても、それを選択したその根拠になるものは多かれ少なかれ外部の事情に基づいている。したがって本来の内容のある自由ではなく、たんなる形式的な自由にすぎない。

 これについては教理から考えると、心の自由は許されているので、選択は何にも依存しないように思われるが、心のほこり、いんねん、つまり過去の心使い、通り方によって拘束されている、従って自由ではないということになる。

 結婚相手を例にして考えると、誰を選ぶか、その選択肢はすでに決まっているが、その中から誰を選ぶかの選択の自由は残されている。しかし結婚の旬がきているときは、その余地はなく、選ばされることになるのではないだろうか。

 原典において自由、自由自在はどのように教示されているのであろうか。

 おふでさきには「ぢゆよ」、「ぢゆよじざい」が数多く散見されるが、これらはあくまでも神の立場からのものであるので、ここでは触れないでおくことにする。

 人間の立場からの自由、自由自在についてみてみよう。
 『正文遺韻抄』(諸井政一著)に次のように記されている。

「めいめいのおもふやうに、ばかりはいかんといふが、これが一ツのふそくである。そのふそくをないやふに、おもい通り、おもわくどほりかなへてやったら、それで十分やろ。このたびは、ここの一ツをおしへる道である」(一九一頁)ここから「おもひ通り、おもわくどほり」に成ってくることが、「ぢうよじざい」であると思われやすいのであるが、はたしてそうであろうか。

 松本滋氏は、そのように「ぢうよじざい」を解して、それを「身上の自由」と「思いの自由」(自分の思い通りになってくること)に分けて考察している。(『これからの人間の生き方』一八五頁)

 「身上の自由」については問題はないが、「思いの自由」については少し議論の余地があるのではないだろうか。

 『論語』において孔子は「七十にして心の欲する所に従いて矩(規範)をこえず」と述べているが、これと「思いの自由」とは同じように考えることはできないと思われる。「思いの自由」においては「矩」は対立するものではありえず、それを超越しているからである。

 では「思いの自由」はどのように考えられるのか。
 なるほど親神は人間に「病まず死なず弱らん」の「百十五才定命」という「めづらしたすけ」を約束されているので、それが実現すると「思いの自由」がかなうかもしれないが、そこにおいてはもはや欲、高慢に代表されるほこりは一切ないのであるから、「思い」も親神の「思い」から離れたものではありえない。

したがって自由自在といっても、思うことがそのまま何でも実現するというようなものではなく、また神の「思い」があくまで先行するのであるから、「思いの自由」とはむしろ「成ってくる理」を喜び、楽しむ自由であり、それが「ぢうよじざい」になるのではないだろうか。
「自由自在は、何処にあると思うな。めんめんの心、常々に誠あるのが、自由自在という」
         (M21,12,7
「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」(おかきさげ)

 これらのお言葉から「誠」の心に自由、自由自在があり、「誠」の心の持主が「成程の人」であることがわかるが、この「成程の人」とは、「思いの自由」を実現する人というよりも、「成ってくる理」を楽しめる人であると思われる。

 なぜならば「たんのうが誠。心に誠さい定めば、自由自在と言うて置こう」(補遺M21,5
からわかるように「誠」は、「たんのう」で「成ってくる理」を楽しむことであるからである。

 次に「誠」がなぜ「自由自在」となるのか、を考えてみよう。
 まず教祖のひながたにおける「自由自在」の具体例をみてみよう。

 教祖は明治七年から十九年の間に警察、獄舎へ何度も御苦労下されていますが、常に平静であられるのみならず、高山へのにをいがけの機会として勇んで出かけられています。また獄舎においても、我が家で孫と遊んでおられる気分で、退屈そうな巡査にお菓子を与えようとされたり等、環境の影響を全く受けられず、自由の世界におられますが、このようなことはなぜ可能であろうか。

 ある人は、教祖は生き神様であられたので、できたのであって、我々凡人には到底まねはできず、不可能であるというかもしれない。

 しかしもしそうなら、あの御足跡は教祖のみのもので、我々にとってのひながたにはならないことになってしまう。
 教祖が「ひながたの道を通らねばひながた要らん」といわれるからには、それは我々にとっても可能であるはずである。ではどうすれば可能になるのか。

「これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん~~事情の理に治め」(おかきさげ)

 このお言葉は「運び尽し」は、人のためではなく、自分のためにしていると思え、と解されている。しかしこれは単に「運び尽し」に対してのみならず、すべてのことにも妥当するのではないか。

 教祖は世界だすけのために、貧のどん底におちきられ、人から笑われ、そしられながら、やむにやまれん御心で御苦労下されたのも、教祖は人類の母親であられ、世界だすけを我が身、我が家のことと思われたからこそであり、それゆえに先述のような自由自在の境地が可能となったのではないだろうか。

 このように考えるとき、我々が自由自在になれないのは、すべての御用、「成ってくる理」を我が事として受け取れないからということになる。

「運び尽し」が教会、会長のため、人救けが他人のため、とみなされるから、御礼を言ってもらえない、思うようにご守護をいただけない、見返りがない等の不足がでてくるのであって、「運び尽し」は自分のため、人救けは、自分の子、兄弟、身内のたすけで、なんとかせずにおれない、放っておけないと思えるとき、そのような不足はなくなるのではないだろうか。

このように考えるとき、「誠」が自由自在であるのは、「誠」が親心にほかならず、そこには自分と他人という対立はなく、親子、兄弟、身内のような関係しかないからである。

自由自在とは、自分の思い通りになってくるというよりも、「自分に由って、自分に在る」(随処に主となれば立処皆真なり『臨済録』)
という意味で、全てのことを「内々事情の理、めん~~事情の理に治め」ること、つまり「誠」によって成立するのであり、この「誠」に少しでも近づくことが今我々に焦眉の課題として求められているのである。

 したがってこの自由自在は、我々にとっての成人の目標でもある、ということができる。