2014年9月23日火曜日

No.108  教理随想(59)  生まれ更わり(6)


  さて教祖は晩年になられてから、「元の理」を多忙なとき、また深夜に、熱心な少数の人々を相手に繰り返し繰り返しお聞かせ下されたと伝えられていますが、「動物の進歩」もこの「元の理」を念頭において話されたのではないかと考えますと、もっと深い解釈ができるのではないでしょうか。以下において述べてみたいと思います。
 
 「人間の数について」にでてくる「いきものが出世して、人間とのぼりているものが沢山ある」、「生まれ変わるたび毎に、人間のほうへ近うなるのやで」等は、動物が人間に近づき、人間に生まれ変わることを明示しているようにみえますが、実は人間と生き物、動物の関係を示唆しているのではないかと思われます。

 また拡大解釈をしますと、それを通して人間と自然の関係をも暗示しているように思われます。
 
  従来動物は、人間よりはるかに下等な生き物であり、人間にとっては単なる手段としての意義しか持たないものとみなされてきましたが、このことは動物を意味する畜生という言葉の使われ方を一瞥するだけでも明らかです。教祖は生命に対するこのような不遜な考え方を先のお言葉によって、まず改めさせようとされたのではないかと思われます。

 「いきものが出世して、人間とのぼりている」、「人間の方へ近うなる」等から、人間と生き物とは、高等、下等の区別、両者間の断絶は全くなく、人間と生き物とは連続した親しき関係にあることがわかりますが、このような考え方は単に生き物を大切にしよう、との動物愛護とか、人間と動物とを同列に見る人間性軽視の考え方とかではなく、あくまでも人間と生き物の本質的区別を認めつつ、両者の関係を従来の主従、優劣の関係から、正当な関係へともどす見方であります。
  この点をもう少し詳しくみてみましょう。

  まずキリスト教の旧約聖書の創世記をみますと、「われらの像に、われらに似せて人を作ろう。そしてこれに海の魚、空の鳥、家畜、すべての野獣と、地をはうすべてのものとを従わせよう。そこで神は、人をみずからの像に創造した」(第1章26,27)という天地創造の有名な一節があります。

 ここからは人間と生き物との主従関係、生き物は人間の意のままに使役される存在にすぎないとの見方しかでてきません。「海の魚、空の鳥、家畜、すべての野獣と、地をはうすべてのものを従わせよう」とは正にそのことを示しています。
 
  キリスト教では、「われらの像に似せて」、つまり人間は神の姿に似せて(理性的で自由意志をもつものとして)創造されたとみなされています。従って人間の精神的、霊的側面がもっぱら強調され、身体、物質的生命は第二義的な意義しかもたないものとして考えられていますが、このような見方は、人間と生き物を単に主従関係においてしかみない、創世記の見方から派生してくるものであり、極論すれば現代の自然や環境の破壊の根底にある考え方であるとも言えるのではないかと思われます。
  
  これに対して本教の「元の理」においては、全く異なった考え方が示されています。
「五分から生まれ、五分五分と成人して八寸になった時、親神の守護によって、どろ海のなかに高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた」、「次いで五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった」(『教典』29頁)
 
  ここにみられますのは、キリスト教のような、自然、環境、他の生き物がまずできて、それから人間が創造されたとの見方ではなく、人間の成人と海山、天地、世界(他の生き物を含む)の発展とが、平行して進んできたとの、従来みられない画期的な見方ですが、このような視点に立つことによって、はじめてこれまで西欧を支配してきた「人間は万物の尺度」や人間至上主義から脱却できるのではないかと思われます。

 また世界的な問題となっている自然や環境の破壊や異常気象などの真の解決に向かって歩を進めることができるのではないでしょうか。
 
  本教において、十全の守護の説き分けは、身の内の守護と世界の守護が一対となってされていますが、これも人間と世界が同じ素材から成り立ち、同じ理法によってつながっていること、同じ神の働きによって一貫していること、したがって人間も他の生き物も、親神の「懐住まい」をし、親神によって等しく生かされ、互いに有機的に相互的に、連関しあっていることを間接的に教示するものであると悟ることができます。
 
  このようにみてきますと、一見不可解に思える「動物の進歩」も極めて現代的な意義をもつのではないかと悟ることができます。

  次に仏教の輪廻について、本教の生まれかわりとの相違をこれまでとは違う観点からみてみましょう。
 
  さて輪廻とは衆生つまり生きとし生けるものが業によって生死をくりかえすことで、天上、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道をめぐると一般に考えられていますが、このような輪廻観は、インド思想や仏教の一部にはみられても、仏教全体を支配する考え方ではありません。
 
  六道、あるいは五趣(阿修羅が地獄に含まれる)の「道」、「趣」はともに、われわれが「死後に往く世界」の意で、これらはこの世とは別の死後の世界、地理的、空間的に存在する世界とみなされやすいのですが、仏教では本来そこまで拡大して考えられていたものではなく、人間のこの世での生存のあり方を六道、五趣として考える見方もあったようです。
 
  この考え方では、たとえば餓鬼は飢渇に苦しむ、欲求不満のあり方として、畜生は動物への転生ではなく、人間の殺し合い、苦しむあり方として、阿修羅は限りない戦い、怒りのあり方として、また天上はそれらの苦しみから脱してはいても、まだ迷いにあるあり方として、つまり個々人の心のうちに、身の回りに、社会において現実に展開されつつあるものとして六道輪廻が考えられているわけであります。
 
  したがって地獄も極楽浄土のように、彼岸、この世をはなれた、死後に往くところではなく、この世における人間のあり方、心の内容としてみなされることになります。

 
  『新仏教語源散策』(中村元編著 東書選書)の地獄の項における八熱、八寒、八大地獄の詳しい説明(21頁~26頁)や地獄絵図、餓鬼草子等は、それゆえに現代のわれわれにとって無縁で、非現実的なものでは決してなく、極めて現実味をおびた、鬼気迫る恐ろしさすら感じさせる「人間のあり方をありのままに映し出す鏡であり」、「すぐれた人間洞察のたまものである」(宮沢智氏『G-TEN』13号)ということになります。

2014年8月16日土曜日

No.107  教理随想(58)  生まれ更わり(5)

  この判定を自分なりに下す前に、『おふでさき注釈』にのせられてあります、牛馬にかんするお歌の実例として説かれたと言い伝えられています話をそのまま引用し吟味してみましょう。
 
  『某女は邪けんな性質で、教祖様に数々の御恩をうけながら、お屋敷の前を通っても立寄る事さえしなかった。それ程であるから、人々に対してもむごい心づかいが多かった。教祖様は常にそばの人々に「報恩の道を知らぬ者は、牛馬に堕ちる」とも「牛見たようなものになる」とも仰せられた。果して、某女は、明示七年から歩行かなわぬ病体となり、二十余年間いざりのような姿で家人の厄介になってこの世を終った』(74頁)(いざりという言葉は、差別用語と思われますが、2004年版の『おふでさき註釈』に、旧版のままで載せられていますので、ここでもそのまま使用します)
 
  簡単にまとめると恩に恩が重なり、いざりとなって苦しみ、出直したということになりますが、問題は「いざり」となったことの意味、その姿と牛馬とがどのように関わるかということであります。

 「いざり」となったことは、単に第一段階にすぎず、来世牛馬に生まれかわって、今までのつぐない、恩返しを無理やりさせられることになるのか、あるいは「いざり」という歩行困難な姿が牛馬とみえる道、「牛見たようなもの」であり、来世も人間として生まれかわることになるのか、そのどちらであるかという点であります。

 『おふでさき注釈』によると前者ということと悟れますが、私見によると後者の意味に解するほうが本教の教理より考えて、よいのではないかと思われます。
 
  言うまでもなく、本教教理の根幹は陽気ぐらしで、いんねんの教理も、これに基づいて考えられねばなりませんが、従来のいんねん論は、どちらかというと、仏教的な因果応報と同じようなものとして、したがいまして牛馬道も文字通り牛馬に生まれかわることとして、また忘恩の徒にたいする罰のようなものとしてみなされ、説かれてきたように思われます。

 おたすけでのお諭しにおいて、たとえば肺病の人に対しては、肺病の病気によって牛馬の先き道、来世牛馬になることを知らされているのであるから、普通の人間らしい生活を捨て、土間にむしろを敷いて寝ることによって、いんねんの納消はできる、というような諭しがなされ、それなりの布教上の効果をあげてきたと思われますが、このような説き方は、本教の教理の根本から少しはずれているように悟れます。たとえご守護を頂くことができても、そのような諭しが正しかったからではなく、その後のたすけ一条の理の御用によってであったと悟らせて頂きます。
 
  このことは『教典』の一部が改正され、「元のいんねん」(人間は陽気ぐらしができるように創造された)が強調されるようになったことからも言えると思われます。
 
        にち~~にをやのしやんとゆうものわ 

       たすけるもよふばかりをもてる
                    (十四、35)
のお歌から、忘恩の徒の罰として牛馬に生まれかわらせて、人間に酷使されたり、食べられたりすることが、「たすけるもよふ」であり、それが親神の慈悲であるとはどうしても思えないからであります。
 
  また「理はみえねど、みな帳面につけてあるもおなじこと、月々年々あまればかやす、たらねばもらう、平均勘定ちゃんとつく」(M25,1,13)の中の「たらねばもらう」には、足らねば牛馬に生まれ変わらせてでも恩報じを強制的にさせるという意味があるのかと考えますと疑問に思えます。

 このおさしづはあくまで人間に当てはまるのであれば、「たらねばもらう」には人間として生まれる中に、いろいろの節をみせられることによって、平均勘定をつけられるということではないでしょうか。
 
  このように見てきますと、牛馬道とは、牛馬そのものではなく、あくまで人間として生まれながら、牛馬のように人間的自由を失った姿で生きなければならない、という意味であり、それが牛馬そのものと受け取られましたのは、本教の草創期に根強かった仏教の因果応報の思想の影響によってではないかと思われます。
 
  ところで教内には次のような出所不明の話を論拠にした牛馬論がありますが、信憑性は極めて少ないと思われます。
 
  山本利雄氏は『続人間創造』の中で、つぎのような話しを引用しています。
『後日、御神憑あらせられて或る日のこと、、白牛がお屋敷の前を通った。御教祖は「あれはおかのの生まれ代りや」仰せられ、その牛に近寄って「お前もこれで因縁果しをしたのや」と人に諭すが如くに優しくお聞かせになった。間もなくその白牛は死んだといふ』(『復元』第29号100頁)(この話については山澤為次氏が『復元』第三号四二頁において、作り話ではあるまいか、と述べています)
 
  また『天理教校論叢』第二二号に芹澤茂氏の「牛馬考」(この中で人間から牛馬への転生が論証されている?)が掲載されていますので興味のある方は参考にしてください。

  では諸井政一氏の『正文遺韻抄』の「動物の進歩について」の教祖のお言葉は、どのような意味をもつのでしょうか。
 「動物の進歩について」のポイントになる部分を引用してみましょう。

  「生物は、みな人間に食べられて、おいしいなあといふて、喜んでもらふで、生まれ変わるたび毎に、人間の方へ近うなるのやで。さうやからして、どんなものでも、おいしい、おいしいと言うて、たべてやらにゃならん。なれども、牛馬といふたら、是れはたべるものやないで、人間からおちた、心のけがれたものやからなあ」(155頁)
 
  ここには人間から牛馬、牛馬から人間への転生がはっきりと示されていますが、これを文字通り受け取れないとしますと、一体何が意味されているのでしょうか。
 まず西山輝夫氏の解釈をみてみましょう。

  「私たち人間は生き物を殺して食べることが許されているとはいえ、それは必ずしも無条件ではないのであります。その条件というのは、せっかく、いのちあるものを食べることを許されているのだから、そのかわり、おまえたち人間はそれに十分感謝し、それによって得られたエネルギーをもって互いに助け合って生きるように努力せよ、と親神様はいうておられるように思われます」(『ひながたを身近に』187頁)、

  「生き物でも何でもそれが親神様のお与えであってみれば、おいしいといって食べることが、物を生かす道であり、自分もまた生かされる道であることを知るのであります」(同頁)
 
  つまり西山氏によると「動物の進歩」によって、われわれが食べ物にしている生き物への恩が教えられ、その恩返しとして人救け、物を生かす道が示されている、と理解されていますが、はたしてこのような意味だけでしょうか。
 
  西山氏の解釈は、極めて常識的で、すぐに思い浮かぶ解釈と思われますが、「動物の進歩」にはもっと深い意味があるのではないでしょうか。


2014年7月27日日曜日

No.106 教理随想(57) 生まれ更わり(4)

 さて輪廻の原義は流れること、生あるものが、さまざまの形態の生をくりかえすことを古代インドにおいては意味し、それが仏教に入って具体的に五趣(天上、人間、畜生、餓鬼、地獄)あるいは六道(人間と畜生の間に阿修羅が加わる)として転生する世界が明示され、これが業の思想と結びつくようになります。 

そして善き行ないには来世での善き結果、よりすぐれた人間や天人への生まれかわり、悪しき行ないには、下等な人間、動物への生まれかわり等々と説かれ、人間に道徳的行為をすすめる勧善懲悪の積極的な役割とともに、宿命論という、そこから絶対に抜け出すことのできない消極的な役割をもはたすようになります。

このような業思想は、後世に至るまで多大の影響を人々におよぼすようになりますが、この輪廻においては、輪廻の輪からの脱出、つまり解脱が人間にとって目指されるべき究極の理想であり、それが救済の成就と説かれます。

仏教においては、生まれかわる世界が人間界より上等の天上界であっても、それが輪廻の一部である限り、決して永遠に平安な世界ではない(また人間界に落ちたりしますので)、と考えられていますので、もはや生まれかわらないこと、つまり解脱とは具体的に何を意味するのか分かりません。
生まれかわらなくなった人間は仏陀とよばれますが、それがどのような人間なのか、また生まれかわらなくなった人間は、どこにいて、どのように存在しているのか、については何も具体的に示されていません。

それゆえに生死即涅槃(この世における涅槃)、あるいは即身成仏(この世での成仏)というような考え方がでてくると思われますが、苦からの解放とは何か、救済の完成とは何か、具体的に示されていません。

しかし本教においてはこの世に人間が何度も生まれかわり出かわりしつつ、救済の目標である、この世での具体的な陽気ぐらしが示され、それに向かって成人していくことが求められています。

本教においては人間創造の目的は、この世における、神人和楽の陽気ぐらしの実現でありますから、生まれかわらないことが救済の成就である、と考えることは絶対にできません。
 
 次に輪廻においては人間から動物(畜生)への転生が説かれますが、本教においては、この問題はどのように、考えられているのでしょうか。
 
 諸井政一著『正文遺韻抄』に掲載されています「人間の数について」を少し長いですが引用して検討してみましょう。
「元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、生き物が出世して人間とのぼりているものが沢山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、ああうらやましいものや、人間になりたいと思ふ一念より、うまれ変わり出変わりして、だんだんこうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらうたものが、沢山にあるで」(153頁)
 
 ここには動物から人間への進歩(?)とともに人間から動物への退歩(?)が「牛馬におちて居る者」、「人間にうまれてくる」という言葉によって示されていて、人間の数が元の子数より増えている訳が教えられているように思えますが、人間が牛馬におちること、牛馬が人間に転生することを、文字通りに受け取ることが果たしてできるでしょうか。
 言うまでもなく引用しました一節は、教祖の御言葉に基づくもので、後世の人の作り話であるとは、まず考えられませんから、問題はそれをそのまま受け取るか、あるいはたとえ話として、当時の人の成人に応じた子供向けの話として、受け取るかで、どちらであるかは「牛馬におちて居る者」の解釈いかんによると考えられます。

       いままでハぎうばとゆうハままあれど 
       あとさきしれた事ハあるまい
                   (五、1)
       このたびハさきなる事を此のよから 
       しらしてをくでみにさハりみよ
            (五、2)
 この二つのおふでさきの意味は『おふでさき注釈』によりますと、
「これまでから牛馬におちる、牛馬におちると説く者もあるが、如何なる者が牛馬におちるか、又如何にして牛馬の道から救われるか、今日まで明らかに説き諭した事はないから、だれも知らないであろう」、
「この度は、身に障りをつけて、来世の事をこの世から知らしておくから、現れている我が姿を見てよく反省せよ」
と解され、牛馬は文字通り牛馬とみなされています。

また「来世の事をこの世から知らしておく」とは、今世見せられている病気によって、来世牛馬に生まれるかどうかを知らせる、という意味として解されています。
 ところが、
       だんだんとをんがかさなりそのゆえハ 
       きゆばとみえるみちがあるから
          (八、54)
のお歌の場合、『おふでさき注釈』によりますと「人間は、親神の深い意図によって造られ、神恩によって生かされているのであるが、この神恩の偉大な事を知らず、従って、報恩感謝の道に進まずして、なおも気随気儘の道を歩み、恩に恩を重ねたならば、最後には牛馬に等しい道に堕ちるの外はないから、それが気の毒である。」と解され、牛馬は、牛馬に等しいもの、つまり牛馬そのものではなく、牛馬とみえる、牛馬のようなものとして受け取られていますので、この場合は人間は牛馬に落ちない、転生しないということになります。
 
 先のお歌の「ぎうば」と、今のお歌の「きゆば」の「う」と「ゆ」の文字の違いが、そのような解釈の違いをもたらしているとは、とても思えませんが、『おふでさき注釈』による限りでは、二つの解釈が成立するということになります。
しかし後のお歌の「牛馬とみへるみち」を牛馬のような道と解さず、来世には牛馬になることがみえている道と受け取りますと、牛馬とはあくまで牛馬である、との先のお歌と同一の解釈とみなすことができます。
 
 では一体どちらが正しいのでしょうか。



2014年7月2日水曜日

No.105 教理随想(56) 生まれ更わり(3)

  では矢島氏によると前生いんねんも否定されることになるのか。
 
  氏はその問いに対してとまどいを示しながら、「過去の積み上げでもってこの体はできているのですし、また過去の積み上げでもって意識の世界、無意識の世界、心の世界までできているのです。それで今までの経験でもってものの考え方もある程度決まっているのです。」(『ほんあずま』九八号)と一応過去の影響をみとめながらも、「前世、前々世のこと、先祖のことなどは、今の幸、不幸を支配するほど強くは意識の世界にはのぼってこないのです」[この意味はよくわからないが、前世、前々世のことは、幸、不幸にほんのわずかしか影響がない、と理解する]とのべて、前世いんねんを何とか否定しょうとしている。
 
  氏にとって大切なのは、「現在の心づかいというものは、陽気ぐらしに生きようと思い、助け合いをすれば幸せになれるし反対に殺し合いに借りものを使ったら、途端に不幸せになってしまうほど、幸せ、不幸せを決定的に決める重要な要素なのです」からわかるように現在の心遣いなのであるが、このような議論はよく考えてみると、過去から将来に目を転じさせ、前生いんねんという合理的思考のつまづきとなる問題を巧妙にさけ、常識的な理解へとわれわれを導くだけにすぎないように思われる。いかに現在の心づかいを強調しても、過去を前提としてなってくる現実(特にわれわれにとって不都合な)をいかにうけとめるかの問題の解決は全くできないからである。

       ・・・後々誰の生まれ更わり言えば世界大変。一つ事情よう聞き分け~~・誰がど
   う、彼がどう、とは言わん。想像これ一つどうもなろまい。・・・・(M31,4,29

 は決して生まれ更わりを否定しているのではなく、誰の生まれ更わりの詮索を制止しているところに、かえって生まれ更わりの真実性が間接的に教えられ、前生が直接的に分からず不透明であることは、親神の慈悲であることが同時に教えられているように思われる。
 
  したがって氏のような生まれ更わり論は、単に目先の生起する現実にのみとらわれ、なってくる現実の深みにまで入り込まない近視眼的で浅薄なもの、楽天的なものにすぎず、教祖の教えに基づいた見方であるとはおよそ言いがたいと思う。

  次に「出直」は生まれ更わりで、仏教の輪廻と同じように見られやすいが、それと同じものか、違うとすればどの点か、について考えてみたい。
 
  仏教の輪廻について考える前に、まず八島氏の輪廻観についてみてみよう。
 
  さて輪廻の教えとは氏によると、
「前生よいことをした人間が、よい身分に生まれ、前生悪いことをした人間が悪い身分に生まれて、裁かれた結果できている正しい社会なのだから、上の者はあぐらをかいてのうのうと食っていろ、下の者は食べられないで苦しんでも物を捧げ命を捧げて今生を通りなさい、そうすれば来世よくなるよ、こういうふうに言ったのがこの輪廻の教理であるわけです」(『ほんあずま』)と解され、この考え方はインドのバラモン教に由来するとみなされている。
 
  バラモン教では人間はスードラ(奴隷)、バイシャ(市民)、クシャトリア(王、政治家、武士)、バラモン(僧侶)の四階級に分かれ、今生たくさんの罪を犯した者は低い身分のところに、ときには動物に生まれ更わり、バラモンに仕えると身分の高いところに生まれかわると説かれている。この教えが仏教に入って輪廻となったと氏は考えるが、氏によるとこのような輪廻の教えは、実在するものでは決してなく、抑圧者が説く差別があっても当然であるという神学に基づく架空のものとみなされている。
 
  氏にとって輪廻の教えとは、今から約四千年前にインドを占領した白人系の支配者が、自分たちの地位を守るために、社会を乱されれぬように人為的に捏造した教えにほかならないのである。
 
  氏はさらに日本の仏教にも言及して「日本の天皇制確立に役立たせようということで外国の思想家を呼んだのが坊さんで、彼らは、身分の差別というようなことを言っていたら本当の幸せは得られないというお経を読みながら、自分たちを雇った人(天皇)からは、身分の違いをはっきり説けと命令され」、その結果、「本来、輪廻からの解脱を説き、差別社会否定の教理を教えるべき坊さんが、輪廻を教え、差別思想を説いてしまった」という極めて歪められた見方をしている。
 
  なぜなら仏教においては輪廻からの解脱が確かに説かれるが、このことは輪廻が克服されるべきものではあっても、決して実在しないようなものではないことを示すのに、氏は「輪廻というようなことを信じていると、むごい心になってしまう」、「やったら、されるのだ、されたら、仕返しをするのだ、こんな根性の人は、輪廻の通り返しを本気で信ずるわけです」等とものべ、その実在を全く認めようとせず、それを差別思想と考えるからである。
 
  氏にとって大切なことは輪廻の克服ではなく、輪廻を全く認めないことであり、それゆえ、「因縁話にしても、教祖の教えの中には、通り返しの話、したことがかえってくるとか、前世の何代前の因縁が今でてきて、こんな苦しみをつくっているのだよというようなことは別段説いていないのです。それらの話というものは、四千年も前から説かれていたいわゆる差別社会を守るための高山の説教であったわけです。」という歪んだ見方が平然となされるのである。
 
  ところで氏のこのような輪廻の教えイコール高山の説教との暴論の根底には、輪廻イコール差別思想の見方があり、輪廻はなるほど差別という価値判断と結びつきやすいものであるが、輪廻そのものは無色の価値中立的なもので、輪廻イコール差別思想との短絡視はできないのではないか。ゆえに輪廻は単なる高山の説教としてむげに否定できないのではないか。
 
   筆者は

    ・・・生まれ更わり聞き分けば、どんな理も治まる。・・・・( 補遺 M27.5.19

と教示されているので、輪廻(生まれ更わり)に実在を信じる立場に立ち、それを否定すると教祖の教えが成立しえないのではないかと考える。とすれば問題となるのは、輪廻と本教の「出直」、生まれ更わりの相違点である。どこに違いがあるのだろうか。


2014年6月13日金曜日

No.104 教理随想(55) 生まれ更わり(2)

   前置きはこのくらいにして、「出直」の教理がわれわれに何を教えるのか考えてみよう。
  先に引用したように「出直」とは、「古い着物を脱いで、新しい着物と着替えるようなもの」で、人間は死んでもまたこの世に生まれ更わってくるのであるが、この「着物」は人間が自由に着たり、脱いだりできるものではなく、心にふさわしく貸し与えられるものである。
  
  つまり「出直」はまずかしもの・かりものの教理を教えるのである。人間の身体は親神からのかりもので、借りている間は生命を持つが、「出直」によってかりものを返し、また新たなかりものを借りて、新しい生を始めるわけである。
 従って「出直」は、われわれに生命の尊さ、かけがえのなさを間接的に教えてくれるように思われる。
 
  古来多くの人は、死の問題を論ずるに際して身体と魂を分離し、身体は死によって解体して無に帰すものであるのに対して、魂は不滅で、死によって身体から自由になり、精神的な永遠の生に入る、と考えられてきたのであるが、このような思想はともすると、身体に対する精神の優位を説くあまり、身体を副次的な、それ自身価値をもたないものとして、軽視する危険性をもつであろう。
 
  これに対して「出直」によって教えられることは、魂は不滅であっても、この世を離れたところに永遠の生を認めず、あくまでこの世に生まれ更わりし、この世における身体的生命が問題とされる、ということであるから、そのような思想とは逆に、われわれに生命の重さ、かけがえのなさを間接的に教示するように思われる。
 
  本教において「着物」は精神と比べて価値の低いものではなく、親神の十全の守護が入り込んで働いている有り難く尊い存在である。
・・・人間にわみな神かいりこみ、なにのしゆうごもするゆゑに、人間にまされた神かないことなり。・・・(『神の古記』明治十六年本)と明示されるように、「着物」は人間の精神の足かせとなるようなものではなく、逆に神聖なものであり、「着物」を着せられていることは、「もはや奇跡としか言いようのない出来事である」(池田士郎氏『身体と信仰』)

 「出直」によって教えられることの第二点は、これまたかしもの・かりものの教理から派生してくる「心一つが我がのもの」という主体性である。次にこの点について考えてみよう。
 
  さて人間の生死のパターンについては、死によってすべてが終わるという人生一回説、死後極楽や地獄というこの世からかけはなれた場所での生を認める二回説、死後何度も生まれかわってくるという無限回説の三つに大別することができる。
 
  人生一回説は無信仰者の常識的な見方で、二回説は多くの宗教においてみられる死生観であるが、ともにこの世を無前提に考える点において不十分な見方である。
  一回説においては、この世における不平等、不運はすべて不条理とみなされ、ニヒリズムにおちいったり、あるいは刹那的な快楽主義に走ったりして、この世の生を全うできなかったり、二回説においては、この世からの逃避の場所があの世や霊界において空しく求められるだけで、これまたこの世の生を充実させることがむつかしくなる。
 なぜなら両方ともこの世を前世を前提にして考えるのではなく、この世をいわば根無し草のごとく考えるからである。
 
  これに対して「出直」は無限回説の立場に立ち、前生、今生、来生の時間相において人間を見ることを教えるが、この「出直」によってはじめて人間の主体性が真に成立することになる。主体性とは単に「心一つ我がのもの」としての自由な心遣いを意味するだけではなく、
           なんぎするのもこころから
        
           わがみうらみであるほどに(十下り七つ)

   ・  ・・たった一つの心より、どんな理も日々出る・・・(M22.2.14

  と教示されるように、成ってくる現実を自分の現実として真正面からうけとめることも意味するが、人生一回説、二回説においては、この世の生が前生なしに考えられるので、この世の不運の原因が自分以外のものに転嫁されることになりやすく、そこには真の主体は成立しないからである。
 
  前生において親神は前々生の心づかいと通り方に相応しい境遇を与え、「出直」に際して、一代の清算をされ、その結果がそのまま今生にもちこされて今生の生がはじまり、人生が展開されるのであり、それを認めることによって、この世における不条理に光があてられ、この世における救済が可能になるのである。
 
  このように「出直」よって真の主体が成り立つと言えるが、ここで注意しなければならないことは、出直して生まれかわってくる主体は、前生、今生、来生を通じて同一の主体であるということである。姿、形は当然かわるが、心の持ち主は同じでありつづけるということである。この点がはっきりしないと次のようなおかしな議論になってしまう。
 
  八島英雄氏の生まれかわり論をみてみよう。
 「教祖の生まれかわりの考え方は、ちょっと違うのです。つまり次を生んで、また次を生んでというように教えてくださったので、自分から子供、子供から孫、孫から曾孫というように、だんだんに成長し立派になっていくことを教えられ、そういうふうに生き続けて八千八たびを繰り返したということをおっしゃっているのです」(『ほんあずま』)
 
  矢島氏は「元の理」の八千八度の生まれかわりをこのように理解し、死後の霊については「教祖のお話はない」、「死んだ人間については何も語られていない」とのべて、その存在を否定している。したがって霊魂不滅を信じないで、親、子、孫へと生命が連綿と続いていくことを、生まれかわりとして解している。
  このような見方は、輪廻を遺伝子の相続と考え、親、子、孫へと遺伝子が受け継がれていくことを輪廻とみなす解釈(花山勝友氏『輪廻と解脱』講談社現代新書参照)においても見られるが、こうなると厳密には生まれかわりとはいえないことになる。

 
  なぜなら一つの生存が終わり、それを縁として他の生存が始まったというだけでは、前者が後者に生まれかわったとはいえず、生まれかわりとはあくまで同じ主体が、死後再び姿を変えてこの世に現れること、つまり転生を意味するからである。

2014年5月24日土曜日

No.103 教理随想(54) 生まれ更わり(1)

「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」(『教祖伝』一五二頁)
 
 これは秀司さんが明治十四年、六十一才で出直されたときに、教祖が秀司さんに代わられて仰せられたお言葉です。私たちにとって一番気になりながらも、一番理解することの難しい死、出直し、生まれ更わりについて(『あらきとうりょう』163、164号「出直」について、を加筆、転載)勉強させていただきます。

 哲学者ハイデッガーは、人間を「死への存在」と規定した。これは単に死に向かって進んでいる存在という常識的な意味だけではなく、死とは人事ではない自己の不可避の存在可能性であり、死の自覚によって、それまでの世間に埋没した自己とは根本的に異なった本来的自己にめざめるということ、また常に死を意識し、死の危険が迫っていなくても、自分の死について思いをめぐらし、不安や恐怖にかられる存在である、という意味である。
 
 人間にとって死は避けることのできない必然的な宿命であるが、死すべきものであるがゆえに必ずしも苦しむわけではなく、死の意味が分からず、不安、恐怖にかられる「死への存在」であるが故に悩むのである。それ故に古来宗教や哲学は「死とは何か」に種々の解答を与え、死を避けることなく、死を人生に積極的に位置づけることによって、死の苦悩から人間を解放しようとつとめてきたが、未だに十全なる解答を提示しえていないようである。
 
 このことはわれわれを死から守り、死の恐怖をやわらげるために貢献してきたと思われている近代現代医学についても同様である。
 なるほど今まで不治の病が医学の発達により予防されたり、治療法が見出されて助かるようになったり、平均寿命が延びてきたことは周知の通りである。しかしこのことはもろ手を挙げて喜べることとは必ずしも言えないと思われる。

 最近話題になっている脳死や臓器移植の問題は、死の時期の観点からすると、前者は死を手前にずらし、後者が死を先へ伸ばすことにほかならず、人間の死が医学によって、矛盾した形で操作されるという不気味な事態であるとらえるとき、「われわれを死から守ってくれると思っていた近代医学が、われわれの死を促進するのではないかという、新たな恐怖を与えるように」(河合隼雄氏『宗教と科学の接点』岩波書店 七七頁)なってきており、死への恐怖が医学の発達によって、逆に強められつつあるのではないか、とも考えられるからである。
 
  では本教において死はどのように考えられているのであろうか。
      『教典』とおさしづに、
 ・・・・身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもの・・・(七十頁)
     ・・古着脱ぎ捨てて新たまるだけ・・・
                              M26.6.12
と明示されるように、本教では死は肉体の単なる終わりではなく、この世で再び肉体を借りるために再出発すること、「出直」と教えられる。
 
 ところでこの「出直」は一般には直接に死と結びつかず、最初から改めてやり直すこと[この意味は「こころえちがいはでなおしや」(六下り八ツ)に含まれると思われるが、ここでは省いて考える]を意味するので、本教の用例は他に例をみないのであるが、「出直」が教語として死を意味するようになったのは、みかぐらうた、おさしづ(ここには「出直」は数例しかなく、生まれ更わりが圧倒的に多い)に「出直」の語があるにもかかわらず、決して古いことではない。おふでさきでは「出直」はなく、そのかわりに「しりぞく」、「むかいとり」、「てばなれ」、「かやし」等が使われ、またこふき本にも「はてる」、「クレル(崩れる)」、「しぼす(死亡)」等しか見られない。一体いつから「出直」が死の意味で使われるようになったのか。
 
 これについては教内において定説がなく、その詮索はあまり意味がないと思う。われわれにとって重要なことは「出直」をどのようにうけとめ、日々の生き方に映していくかであろう。では「出直」の教理はわれわれに何を教えるのか、またそれにまつわる問題は何か、を以下において考えてみたい。

 さて「出直」とは、
     ・・人間というは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・(M39.3.28

に示される生まれ更わりと同義であるが、この生まれ更わりの事実は、神の存在と同じく経験をこえた形而上的なものであるから、理論的には肯定も否定もできない。従って科学的に証明できず、信じるよりほかないものである。

 なるほど岡部金治郎氏のような科学者による推理科学的(氏によると自然科学の成果を重視しながら、自然科学の水準からある程度飛躍した仮定をおいて考えること)な次のような証明も考えられるかもしれない。
 
 『人間死ねば、肉体は、もちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう。・・・魂の核は生き通しのものだから、いつまでも熟睡が続けられるものではなく、いつかは、肉体に宿って、熟睡から醒め、活性状態になろう。つまり、いわゆる「生まれかわり」の可能性があることになろう。』(『人間は死んだらこうなるだろう』第三文明社 五七~五八頁)
 
 しかしこの説も魂の不滅、生まれ更わりの可能性を示唆する程度で、証明といえるもの
ではないと思われる。
 
 またトランスパーソナル(超個)心理学において、キューブラ・ロス等によって死後の生が単なる信、神話の対象としてではなく、科学知の対象として強調されたり、レイモンド・ムーディによって瀕死体験や医学的に死と判定された人の奇跡的な蘇生の具体的な事例がうんざりするくらいに多く紹介(『かいまみた死後の世界』レイモンド・A・ムーディ・Jr著 中山善之訳 評論社 参照)されたりしているが、これも人間は死によって無に帰すのではなく、死後の世界があることを暗示する程度で、生まれ更わりの事実を積極的に論証するようなものではない。

 「出直」、「生まれ更わり」とは結局信じるより他ないものであるが、このことは「出直」が非現実的で、事実に基づかないもの、不確かなもの、信憑性のないものであるということではない。
 
 河合隼雄氏の「科学者はアイ・ノウ(I know)といっていたけれども、それはそれほど確かなことではなく実はアイ・ビリーブ(I believe)なのではないかと考えられます。自然科学というのは絶対性を誇ってきたけれども、そうではなくて、一種のパラダイム、いわゆる自然科学的パラダイムによって世界を見ているというわけです。パラダイムが換われば、違うことがみえるということがある。
 
 つまりいままでアイ・ノウと思っていた人たちも、実際はビリーブにかなり規則付けられているのであり、アイ・ビリーブといっていた人も、実はまだまだアイ・ノウといえることがたくさんあるわけです。」(『G—TEN』天理教やまと文化会議編 第9号48頁)との指摘をまつまでもなく、信は相対的に過ぎない科学知と同じ地位、否むしろそれを基礎付ける地位にあって、積極的な価値をもつのである。

 科学哲学者のカール・ポパーは、科学の定義とは反証可能性、つまり常に反証ができることと考えましたが、これは科学による決定的な証明は永遠にできないこと、科学的真理とは所詮仮説に過ぎないこと意味します。(『99.9%は仮説』竹内薫著 光文社新書参照)

 従って、科学的に証明されないから価値がない、根拠がなく間違っているということは決して言えないのである。

2014年5月1日木曜日

No.102 教理随想(53) 陽気ぐらし(1)

 今回は「月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」(『教典』25ページ)という意味深長な文章を味わってみたいと思う。
 
まず「混沌たる様を味気なく思召し」人間を創造した、という箇所であるが、これは如何なる意味をもつのであろうか。
 一見すると「味気な」い、つまらない、面白くない、という偶然的な気まぐれから、人間が造られたように受け取れるが、決してそうではない。絶対者である親神が、泥海ばかりではつまらないから、という余りにも人間的な動機で、人間を創造するはずがないからである。
 
 そこで明治16年本の「神の古記」(中山正善著『こふきの研究』)をみてみると、「月日りよにんばかりでわ、神とゆうてうやまうものなし、なにのたのしみもなく、人げんをこんしらえ そのうえせかいをこしらえ、しゆごふさせば、にんげんわちよほ(重宝)なるもので、よふきゆさんを見て、そのたなにごともみられること」とあり、ここでは「神とゆうてうやまうもの」がないから、人間を創造した、と述べられている。
 
 つまり「味気ない」ということは「神とゆうてうやまうもの」がないこと、神を敬うことのできる主体者、自由をもった存在がないことを意味しているのである。
 したがってこの世の元初まりは泥海で、混沌としていて、そこには秩序もなく、物も何もないから味気ないというよりも、もっと端的に自由なる主体としての存在者がいないことが、味気ないことの理由であると理解されねばならない。
 
 ここでいよいよ人間創造となるのであるが、この創造は決して偶然的なものではない。「ともに楽しもうと思いつかれた」は、一見ある時偶然に思いついたように思えるが、そうではない。
 
 諸井慶徳氏が「神はただ即自的存在者たる限りにおいては、如何にその全一性を有し、根源性を保ち得ても、ついに神たるべき能動性を全うし得ない」(著作集第六巻114ページ)、「神は神たる存在に止まらず、神たるべき存在にならなければならない。神は神としての立場に安んぜず、神とされる立場に移らざるを得ない」(同書、115ページ)(極めて難解な表現であるが、神はいかに全知全能であっても、神だけでは全能性を全うできず、神とは独立の主体を必要とし、神とされる必要があるということ)と述べているように、あくまで必然的な展開なのである。
 
 ヘーゲルは、その弁証法論理において、即自から対自、さらに即自且対自への必然的移行を説いているが、ここでは神による人間創造であり、その展開は必然的なのである。
 次に「その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」の部分を検討してみよう。
 
 まず陽気ぐらしという人間創造の目的であるが、従来の宗教における創造説話においては、本教のように、はっきりとした人間創造の目的をもつものはない。
 『ムック天理』第二号「人間創造」には、世界各地の民族神話における人間、世界の創造が十七種類と、キリスト教の創世記が紹介されているが、そのいずれにも、何のために人間が創造されたのかという目的は示されていない。
 
 中国の神話には、女神が「さびしさ」から人間を造った、またミクロネシアの神話には同じように「一人でいることが空しい」からと記されているが、いずれも人間創造の単なる動機に他ならず「陽気ぐらし」というような積極的な目的は見当たらない。
 
 キリスト教においても「われわれのかたちに、われわれにかたどって人間を造り、これに海の魚とそらの鳥と、地のすべての獣と、家畜と、地のすべてのはうものを治めさせよう」(「創世記」)とあるだけで、何のために、は全く示されていない。
 
 本教においては「陽気ぐらし」という人間創造の目的は、
       月日にわにんげんはじめかけたのわ 
       よふきゆさんがみたいゆへから
               (十四,25)
にもみられるように、はっきりと示されているのであるが、このことは極めて画期的なことであり、この意味は深いといえる。
 
 なぜなら古来人間は、一体何のために生まれ、存在するのかという第一義的な疑問をたえず投げかけ、現代においても悩み続けているのであるが、この疑問、難問に人間の親なる神がはっきりと解答を出されたからである。
 
 仏教においては、生老病死一切皆苦と説かれ、生きていることそのことが苦痛とされ、この世からの逃避が強調され、またキリスト教においても、この世を苦の世界とみなし、あの世、彼岸をむなしく志向させるだけで、いずれも人間にこの世における生命を真に全うさせることができない。
 
 しかし本教では人間創造の目的が示され、この世で陽気ぐらしができることを教えられ、悩み、抗争にあえぐ世界の人々に、生きる希望を与えることになる。
 
 次に「陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」の箇所を見てみよう。
 ここで見落としてはならないことは、陽気ぐらしを「させる」ではなく、「する」のを見てとなっている点である。「させる」であれば、それは使役で、人間に自由がなく、ちょうど操り人形を扱うようにして、陽気ぐらしを実現するのであるが、それでは人間を造った意味がない。そうであればいかに人間と世界を造ったとしても、そこには親神しかなく、神は依然として「即自的存在者」に他ならず、また「味気なく思召す」ことになるからである。
 
 ところでよく、もし神がいるのなら、なぜこの世に諸悪がはびこり、抗争や戦争などの不幸が存在するのか、という一見もっともと思える疑問がだされるが、この問いは、自由という人間にとって貴重なもの、人間存在の根拠でもあるものをわすれる点で成立しない。
 
 なぜならもし人間に自由がなく、悪(といっても普通の意味ではなく、親神の思いに反する心)への傾向がないならば、人間は善のみを行なう自動機械のようなものになってしまい、そこには親神の意志しかないことになり、楽しみはないからである。
 
 真の楽しみは、他の自由なる主体がいてはじめて成立するからである。親神が自由をもたない人間を造り、それを操って陽気ぐらしを実現しても何の楽しみがあろうか。そのような問いを発するひとは、自分から自由をとってもらい、神の操り人形になることを望むようなものである。
 
 このように考えるとき、「させる」ではなく「する」となっていることが、いかにありがたいことかわかるのではないだろうか。
 親神はいつまでも気長く、子供であるわれわれが親の心を悟り、自発的に「陽気ぐらし」をするのを見て、ともに楽しむ、つまり神人和楽の世界を待ち望んでいるのである。