古今東西を問わず人間の一生とは、ほとんど例外なく病気、事情をはじめとする様々な「ふし」の生滅と継起の過程にほかならず、人間である限り、それを避けることはできない。しかも一寸先は闇といわれるように、「ふし」の多くは当人の予想の範囲外で、予期なり覚悟をしたうえで出会う「ふし」というものは、はなはだ少ない。
そこで「ふし」の意味、「ふし」からの解放が宗教に求められ、これまで種々の考え方が示されてきたが、日本においては、長い間
主として祟りの信仰の観点から「ふし」がとらえられ、外から憑き物、怪物がついたり、悪霊、怨霊が祟ったり、先祖の霊の不十分な供養が病気、不幸の原因であるから、それらの除霊、浄霊等によって苦悩から解放されると説かれる。
しかしこのような見方は本教においては、 このよふにかまいつきものばけものも
かならすあるとさらにをもうな
(十四、16)
・ ・・憑きもの化けもの、心の理が化けるで。・・・ (M25,4,19)
と断言されているように、きっぱりと否定され、「ふし」にたいして全く異なった見方が教示されている。
では本教において病気、事情等の「ふし」とは教理的にどのような意味をもつのであろうか。以下において考えてみたい。
さて本教における「ふし」にたいするこれまでの見方には、大別すると過去から現在を見る、いんねんの教理に基づくものと、未来から現在を見る、陽気ぐらしの教理に基づくものがあり、昭和二十四年の『天理教教典』いわゆる復元教典の公布以後、前者の見方から後者の見方に重点が移されるようになったが、この二つの見方はともに「ふし」にはなくてはならない大切な見方で、両者は相補的な関係にあると考えられる。
まず前者のいんねんの教理に基づく「ふし」にたいする見方をみてみよう。
この見方はいまさら説明する必要もないくらいに長い間、われわれが慣らされている見方で、「ふし」を与えられたときに、「OOOの身上、事情は、OOOのいんねんが原因である」、「OOOのふしは過去の悪しき心遣いによって生じてくる」というように、いんねんを機械必然的な因果律や因果応報的に理解して、「ふし」に条件反射的に適用していくものである。
確かにおさしづを見ると、
・・・どうなるもいんねん、こうなるもいんねん・・・ ‘(M27,3,6)
・・・見るもいんねん、聞くもいんねん。・・事情はいんねんという。・・(M23,9,27)
・・・いんねん遁れようと思うても遁れられ
ん・・・・(M23,5,26)
等々と教示され、いんねんを因果応報的にうけとるとき、一見過去における悪因と現在の悪果、「ふし」との結びつきは絶対的で、いささかの遺漏もないように思われるが、しかし悪因と悪果とをいんねんによって機械的、必然的に結びつけるだけであるなら、いんねんにいかに華美な装飾をほどこしても、「ふし」は過去の行い、心づかいの報い、罰と同じものになってしまうであろう。
なるほどいんねんの教理には、先述の祟り信仰と根本的に異なり、人間一人ひとりの自由な心づかいにすべての責任を負わせる、個人の主体性と人格性とを尊重する教理であり、いんねんの徹底的な自覚によって思い切って道一条に入らせたり、一切なってくることを我が責任として受け止める、たんのうに徹した人々を多く生み出してきたことは事実である。
しかし反面ではいんねんは原罪や宿業と同じようなものとして受け取られ、人々を罪人扱いしていずませたり、また単なる責め道具や成ってきた現実に対する説明不足を正当化するための逃げ口上や、こじつけとして安易に使われてきたこともまた事実である。
なぜならいんねんによってこれまで「ふし」における過去ー現在の一面だけが照射され、不当に強調されてきたからである。
しかしこのことは「ふし」を考えるときに、いんねんの教理はもはや不要であるとか、過去の心づかいの反省は必要がない、ということでは決してない。
・ ・人が障りあればあれほこりやと言う。どうも情無い。・・(M22,10,9)
・ ・身の内苦しんで居る処を見て尋ねるは、辛度の上に辛度を掛けるようなもの。・・
・ (M25,11,19)
この二つのおさしづの意味は、「ふし」をみせられている者にたいして、ほこりやいんねんの教理を振り回して、過去の悪しき心づかいを詮索するようなことをしてはいけない、と考えることができ、一見「ふし」と、ほこり、いんねんの教理の結びつきが否定されているように思えるが、そうではなく、ほこりやいんねんの教理は、相手を責める道具ではなく、あくまで自分の心づかいを反省するためにあることや、「ふし」における過去―現在の一面にのみとらわれ、他の面を忘れてはいけない、という意味であると思われる。
病のさとしについて考えてみると、病のさとしは過去の悪しき心づかいと病気との因果関係に焦点があるのではなく、病を台にして心の入れ替えをすることに焦点がある、とよく言われるが、これは過去の心づかいと病気との間に、OOO病はOOOの心づかいが原因であうというような公式的、一義的な関係はないということで、過去の心づかいと病気は全く無関係ということではないと思う。
どのよふないたみなやみもでけものや
ねつもくだりもみなほこりやで
(四、110)
せかいぢうどこものとハゆハんでな
心ほこりみにさハりつく
(五,9)
この二つのおふでさきからはっきりわかるように、過去の心づかいと「ふし」との結びつきは絶対的であるが、問題は過去の心づかい、ほこりと「ふし」との関係(これについては後述)で、これが単に悪因と悪果として因果応報的にとらえられるとき、「ふし」は報い、罰と同じようなものとして忌避されるか、我慢、忍耐、諦め等によってうけいれられるにすぎないと思われる。(「ふし」に対する過去―現在の見方の一つとして、盗んだから、盗まれる、殺したから殺されるという通り返しがよく言われるが、通り返しという言葉は原典のどこにもないので、決して使うべきではない)