2011年11月4日金曜日

No.56 教理随想(7) 出直し(7)

ころでこのような輪廻観は、天台宗の教義である「十界互具」(六道に仏、菩薩、縁覚、声聞の四つを加えた十界のひとつひとつに十界があるという考えで、人間の中にも仏と地獄が共存しているとみなされる)の思想と同じく、六道、十界のそれぞれを独立して客観的に存在すると考えず、人間の心のあり方とみなすので、現代人にとってもうけいれやすいが、しかしこの輪廻観では、現世のことのみが問題とされるので、当然生まれかわりは軽視されるか、否定されることになってしまう。
 
このことは禅宗においても同じである。道元の死生観をみてみよう。
 さて一般に西洋では、体が滅しても魂は永遠不滅と考え、精神優位の立場に立って、心身や主客の二元論を主張する傾向が強いのであるが、このような考えは心身一如の立場に立つ禅宗からは「身滅心常」として否定される。
 禅では「不生不滅」(宇宙の元素の離合集散によって、われわれの身体や物体が生じたり、滅するにすぎないこと)、「永遠の今」の立場に立つから、生死の彼岸、来世に極楽を求めるような考えは、すべて「身滅心常」の心身一如でない立場からでてくるものとして退けられる。

 道元にとっては、心身一如としてのこの人生をおいてほかに人間の生きる道はない。それゆえ苦悩多き人生そのものの真只中で、自分の足元において、極楽浄土を求めることが、人間にとって真っ正直な生き方とみなされるのである。

 このような考え方は、極楽をこの世をはなれた彼岸に求めるこれまでの見方より、はるかに現実的で、「今、ここ」の大切さを教えるので、積極的に評価されうるが、ここでも「人のしぬるのち、さらに生とならず」(『正法眼蔵』現成公案)とあるように、生まれかわりは否定されるというより、無視されてしまう。(もっとも道元は現世の行為が現世に結果をおよぼす順現報受とともに、来世、来々世に結果をおよぼす順次生受、順後次受という三時業の考え方を展開しているが、これは単に過去の影響によって現在があるという考え方でないのなら、生まれかわりを間接的に認めていると考えることが出来る)
 このようにみてくると、仏教においては輪廻は必ずしも、生まれかわりと結びつかず、また否定もされるのである。

 次にキリスト教の復活と本教の生まれかわりとの相違を考えてみよう。
キリスト教ではイエスの十字架上の死は、人類の罪をあがなう死で、このことを信じる者は神によって義と認められ、イエスと同様に死後復活すると教えられるが、この復活は矢内原忠雄氏によると次の二点で単なる霊魂不滅説とは異なると考えられている。 

 まず第一点は「霊魂不滅説では、人間は霊魂と肉体とよりなり、肉体の死後は、霊魂は自然に肉体を遊離して存在をつづけるというだけであって、そこには霊魂の救いという要素がない。だから肉体から離脱した後の霊魂の状態は、幸福なのか不幸なのか不明である。(中略)キリスト教で言う復活は、もちろん霊魂の不滅を含んでいるが、それはキリストによりて救われた霊魂であり、したがって神とともにあって神を讃美し、永遠の讃美にすむ霊魂であるがゆえに、人間の慕うべき至福の状態である。」(『キリスト教入門』103頁)

 第二点は「霊魂不滅説では霊魂の個性がはっきりせず、したがって肉体の死後における個性の生活が認められない」(103頁)
 しかし復活においては「救われた霊魂を宿すにふさわしい新しい体が与えられる」ので、これによって「救われた霊は救われた体を器として活動し、我々の個性が永遠に生きるのである」と説明されるが、「霊魂を宿すにふさわしい新しい体」といっても、この世における身体とは全く別の抽象的なものであるから、復活は単にあの世への生まれかわりであるか、あるいはこの世であっても単なる霊的な存在にすぎないということになる。

 このような復活観からは、単なる霊魂の救い、「地上における苦難は、天国における祝福」というような、この世とは別の彼岸における至福が空しく待望されるにすぎないであろう。

 最近欧米諸国において、死生観が大きく変わり、転生、生まれかわりへの関心が急激に高まりつつあるといわれている(『ムー』1990年七月号)が、転生というキリスト教の教義と相容れない思想が復権しつつあるということは、キリスト教の復活が単に霊的なものにすぎず、これによっては「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という太古以来の謎を十分に解明することができないからではないだろうか。

 これに対して本教では単なる霊魂不滅説とも異なり、
     ・・人間というものは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・
               (M39,3,28
と明示されるように、あくまでこの世への、新たな身体をお借りしての生まれ更わりが教えられている。

 人間とは「出直」が示すように、この世の生を終えても、この世にまた帰ってきて、この世の生をくりかえしつつ、究極の目標である陽気ぐらしを目指す、と教えられるが、このような「出直」こそ、われわれに本来的あり方を示し、人生を真に全うさせる教えである。

 なぜならこの今の生への態度には、大別すると、この生のみが強調され、それの充実のみがめざされる禅のような生き方と、今の生を仮のものとみなして、明日の生、あの世における永遠の生を求める生き方に分けられるが、前者の場合、なるほど今を大切にし、足元から離れない点において現実的ではあっても、未来の生への目標や希望の面が希薄なために、ともするとニヒリズムや神秘主義におちいったりしがちであり、また後者の場合、あの世の永生やあすの生が強調されることによって、この今の生が軽視されるか、あるいは刹那主義におちいったりして、いずれもこの今の生を真に全うさせえないからである。

     ・・世の処何遍も生まれ更わり出更わり、心通り皆映してある。・・・
                (M21,1,8
と教示されているように、「出直」はわれわれに前生、今生、来生を通して、いかなる不平等(善悪と禍福が必ずしも対応していないというような)もないことを教える、われわれに真の生きる勇気を与える教理であるとともに、反面では現実に埋没したり、そこから逃避することを許さない、あくまでも現実に立ち向かわせる厳しさをも教える教理であるといえよう。

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