次にキリスト教における死と救済について考えてみよう。
先に少し触れたようにキリスト教では、死は生の終わりではなく、イエスが十字架の死の三日後に復活したように、人間も死後、肉体とは異なる新しいからだを与えられ、復活すると教えられるが、この復活は死後すぐにではなく、この世の終わりにおいてであると考えられている。
この世の終わりの前兆は、戦争や飢餓、地震、迫害、偽キリストの横行等で、その後本物のキリストが再び地上に再臨し、イエス以後死んだ人々も生き返り、最後の審判をうけ、その審判により、天国、地獄のどちらに送られるかが決定する。
そして天国に送られた者は、神とともに永遠の至福(この世にあったときと同じように働き、学び、遊ぶといった様々な楽しみを、完成した形で味わう、と現代の神学者によって考えられているが、あくまでこの世の彼岸においてである)を、また地獄に送られた者は、永遠の罰、絶対に釈放されないいわば終身刑の報いを受けることになる。
これがキリスト教の終末観、救済観であるが、ここにおいては一回きりの現世での行為の善悪が、情け容赦なく厳しく裁かれるだけで、神の救済の力によって引きあげられるということが全くない。
なるほどイエスの十字架上の死によって、すべての人間の罪が人間に代わって贖われ、それによって人類の罪が許され、罪の結果である死も克服されたと教えられるが、人間の死のあとにまっているのは、この世の終わりでの復活と審判で、そこで義とされた者のみ救われるならば、イエスの贖罪と愛とは一体何を意味するのであろうか。厳正な審判と神の愛とはどう結びつくのであろうか。
ところでカトリックには煉獄の教えがあるが、これについてはどうであろうか。
この煉獄の考えは、大多数の人間は天国に入るほど完全でもなく、地獄に落ちるには善人でありすぎるので、天国と地獄の中間にある煉獄において、一時的に火にもやして苦しみを味わわせ、天国に入れるだけの完全さを備えさせた上で、天国に入れようとするもので、一見神の力による引き上げがあるようにみえるが、これも地獄を天国に近づけ、地獄をいわば終身刑から有期刑に軽減するだけで、神の救済による引き上げとは決して言いがたいと思われる。
では本教の「出直」における「親神の救済の力による引き上げ」とは何を意味するのであろうか。
「出直す」という言葉は、一般に最初からやり直すという意味だけではなく、何か不都合な場面を一度はなれ、考え方、態度を改めて、心機一転して再びその場面にもどることを意味するが、このことは「出直」について考えると、「出直」そのものによって、魂のほこりの一部が払われて、生まれかわってくることを意味するのであろうか。
この点について北村光氏は「出直」における「魂の浄化作用」(『G-TEN』6号41頁)という考えを示し、それを次のように説明している。
「出直し」は「人類が永遠に続く為にも欠かせない問題」であり、
・・・出直すことがなかったら、一方的に人間は流れていくことになり、それは、やがて人類の滅亡を意味する。例えば、いじめる者といじめられる者、勝つ者と負ける者、親と子、上と下等々。この状態が、永遠に続くとしたら、一方的なものである。(41頁)
しかし「出直」によって配役がかえられ、例えば親不孝の者は、今度は親に捨てられ、親がいてくれたらなあと思い続ける、親不孝の「心使いのよごれを、自然に払える環境、境遇、立場を与えられる。(中略」これが親神様の慈悲なのだ。しかも、そこには永遠に人類が存続し得られる理があると思う。)(42頁)
ここでの「出直」による境遇、立場、配役等の転換については、その考えに賛成したいが、はたしてそれらの転換そのものが、魂を浄化し、魂のほこりを一部払ってくれるのか、については疑問が残る。
「魂が白紙(白因縁)に戻るためにも、『出直』さねばならないのである」(41頁)は、「出直」そのものが、「魂の浄化作用」をもつとも、「出直」して境遇を転換されて生まれかわってから、魂が浄化されるとも解釈され、氏は前者の解釈をとっているようであるが、後者の解釈のほうが正しいのではないだろうか。
つまり「出直」そのものによって、魂のほこりの一部が払われるのではなく、「出直」によって、ほこりの払いにくい境遇から、ほこりの払いやすい境遇へと転換されて生まれかわり、その境遇においての具体的、自覚的な通り方や種々の節を通して、ほこりが払われていくのではないだろうか。
もしこのように考えることができるのなら、「出直」における「親神の救済の力による引き上げ」とは、親神が人間に代わってほこりを払ってくれるというようなものではなく、あくまで配役をかえたり、ほこりを払いやすい境遇へと生まれ変わらせることで、ほこりを払うことは、人間の主体性にゆだねられていると考えられるのである。
・・・月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。・・(M25,1,13)
というおさしづは、われわれに勇気を与えるとともに、反面では厳しさをも教えるが、また「平均勘定」はこの世において具体的な形で示されることや、「出直」による借金の棒引きのようなものはないことをも教えるものであると思う。
本教の救済は、「出直」、生まれかわりを前提とする、この世における現実的なものであり、主体性、心の自由を極めて重視するが、これらの点に他宗との根本的な相違があるように思われる。
また本教のような「出直」、生まれかわりの教えが今求められていると思うのである。
(完)
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