氏は客観的解釈をさらに敷衍して、一般教会の道の先達の通り方と教会設立との間にも、教祖の場合と同じ必然性がみられると考えているが、このような見方は「貧におちきる」ことの意義を、かえって誤解させることになるのではないかと思われる。
なるほど道の先達は「貧におちきる」ことを教祖にならって家屋敷、財産を納消することと解し、人だすけにつとめた結果、教会、たすけ道場をご守護いただいたのであり、その限り、かって教祖が、おぢばにおいてなされたことが、時、場所、形をかえて再現されたのであるが、ここでの必然性は、形の財産の納消と、教会という目に見える形でのご守護を結びつけるにすぎないといえる。
つまりここで必然性を強調することは、「貧におちきる」ことを単に形の上からのみみて、ご守護を単に形の上の目に見えることに限定することになるのではないか。
しかし「貧におちきる」ことの意義を問うわれわれにとっては、形の上の「貧におちきる」ことと、形の上の御守護(たとえそれが個人の所有ではない教会のようなものであれ)とは必ずしも直結しないと思われる。
教会や一粒万倍の形の上のご守護は、形の財産を納消する「貧におちきる」ことを手段とする目的では決してなく結果にすぎず、教会設立を目指して、あるいは形の上のご守護を目的として「貧におちきる」ことは、教祖の厳しく排された、よくにとらわれたご利益信心になるのではないか。
そのような「貧におちきる」道中は、将来の形の上のご守護を期待する、忍耐、我慢、辛抱の道中に過ぎず、期待通りの成果が現れないと心をたおし、不足するような「貧におちきる」ことの本質から逸脱した通り方であろう。
なるほど道の先達は「貧におちきる」ことを文字通り形の上の財産の納消とうけとったのであるが、しかしそれを教会設立とか形の上のご守護を得るために、せざるをえないことと考えたのではなく、それを御恩報じ(何に対する報恩か、という問題があるが、それについては後述する)として、せずにおれないことと考え、人だすけに励んだ結果、自ずと形の上のご守護を与えられたのではないか、と思われる。
ではわれわれにとって形の上での「貧におちきる」ことの目的とは何であるか。
よく使われる裸(「貧におちきる」こと)と風呂(「陽気ぐらし」)のわかりやすい比喩や「人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」(『教典』25頁)との記述から考えると、目的は「陽気ぐらし」ということになるが、「陽気ぐらし」は人間創造の目的ではあっても、それは親神の立場からであって、われわれ人間の立場からは、「陽気ぐらし」は結果として自ずと与えられるものであるから、「貧におちきる」ことの目的とは言えないのではないか。
一体「陽気ぐらし」を目的とすることは何を意味するのか。
われわれが「成ってくる理」を素直にうけとれず、喜べないとき、常に形の上の御守護(身上、事情がなくなるなどの)「陽気ぐらし」を目的として前もってもち、それと成ってくる結果と比較するからではないのか。そのような「陽気ぐらし」を目的とすることは、形の上の守護にとらわれた御利益信心を説くことになるのではないか。
このことは「陽気ぐらし」を客観的条件(物、金、健康等)に依存しない主観的な「陽気づくめ」、「陽気ゆさん」であると言っても同じことである。
なぜなら「陽気づくめ」という、逆境や「ふし」にあっても可能な精神状態であっても
いちれつに神がそふちをするならば
心いさんでよふきつくめや
(三、54)
に示されるように、神の守護の結果として与えられるものだからである。
では目的とは何であろうか。
母屋とりこぼちのときに教祖の言われた「世界のふしん」とは、単に形のふしんであるのみならず、「心のふしん」でもあり、「形のふしんに先行する心のふしん」を「形のふしん」を手段、「心のふしん」を目的として理解するとき、目的は「心のふしん」ということになるのではないだろうか。
だん~~とこどものしゆせ
まちかねる
神のをもわくこればかりなり
(四,65)
の「こどものしゆせ」とは常識的な立身出世の意味ではなく、心の成人の意味で、成人とは「親の思いに近づくこと」であり、これがわれわれにとっての「貧におちきる」ことやわれわれの信仰の目的でなければならない。
そして前真柱様が「ひながたの道は御恩報じの道」(昭和五十七年秋季大祭神殿講話)という趣旨のことを述べておられるように、「貧におちきる」ことを御恩報じとして通る中に、結果として自ずと「陽気ぐらし」が与えられることになると思われる。
このように考えることができるなら、「貧におちきる」ことは、信仰を続ける限り、一粒万倍の形の上のご守護がみえたあとも、いやそういうときこそ実践されねばならない「信仰の出発点、原点であると同時に帰着点」(「あらきとうりょう」91号16頁)であると思われる。
次に西山氏の主観的解釈を検討してみよう。
この解釈は、「物を施して執着を去れば、心に明るさが生まれ、心に明るさが生まれると、自ずから陽気ぐらしへの道が開ける」
(『教祖伝』23頁)
との見方に基づくもので、「貧におちきる」ことによって、世界の対立抗争の原因となり、陽気ぐらし実現をさまたげている物への執着を取り去ることを教えられたのである、とみなされる。