2012年1月24日火曜日

No.67 教理随想(18) 「ひながた」の一考察(2)

氏は客観的解釈をさらに敷衍して、一般教会の道の先達の通り方と教会設立との間にも、教祖の場合と同じ必然性がみられると考えているが、このような見方は「貧におちきる」ことの意義を、かえって誤解させることになるのではないかと思われる。
 なるほど道の先達は「貧におちきる」ことを教祖にならって家屋敷、財産を納消することと解し、人だすけにつとめた結果、教会、たすけ道場をご守護いただいたのであり、その限り、かって教祖が、おぢばにおいてなされたことが、時、場所、形をかえて再現されたのであるが、ここでの必然性は、形の財産の納消と、教会という目に見える形でのご守護を結びつけるにすぎないといえる。

 つまりここで必然性を強調することは、「貧におちきる」ことを単に形の上からのみみて、ご守護を単に形の上の目に見えることに限定することになるのではないか。 
 しかし「貧におちきる」ことの意義を問うわれわれにとっては、形の上の「貧におちきる」ことと、形の上の御守護(たとえそれが個人の所有ではない教会のようなものであれ)とは必ずしも直結しないと思われる。

 教会や一粒万倍の形の上のご守護は、形の財産を納消する「貧におちきる」ことを手段とする目的では決してなく結果にすぎず、教会設立を目指して、あるいは形の上のご守護を目的として「貧におちきる」ことは、教祖の厳しく排された、よくにとらわれたご利益信心になるのではないか。
 そのような「貧におちきる」道中は、将来の形の上のご守護を期待する、忍耐、我慢、辛抱の道中に過ぎず、期待通りの成果が現れないと心をたおし、不足するような「貧におちきる」ことの本質から逸脱した通り方であろう。

 なるほど道の先達は「貧におちきる」ことを文字通り形の上の財産の納消とうけとったのであるが、しかしそれを教会設立とか形の上のご守護を得るために、せざるをえないことと考えたのではなく、それを御恩報じ(何に対する報恩か、という問題があるが、それについては後述する)として、せずにおれないことと考え、人だすけに励んだ結果、自ずと形の上のご守護を与えられたのではないか、と思われる。

ではわれわれにとって形の上での「貧におちきる」ことの目的とは何であるか。
 よく使われる裸(「貧におちきる」こと)と風呂(「陽気ぐらし」)のわかりやすい比喩や「人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」(『教典』25頁)との記述から考えると、目的は「陽気ぐらし」ということになるが、「陽気ぐらし」は人間創造の目的ではあっても、それは親神の立場からであって、われわれ人間の立場からは、「陽気ぐらし」は結果として自ずと与えられるものであるから、「貧におちきる」ことの目的とは言えないのではないか。 

一体「陽気ぐらし」を目的とすることは何を意味するのか。
 われわれが「成ってくる理」を素直にうけとれず、喜べないとき、常に形の上の御守護(身上、事情がなくなるなどの)「陽気ぐらし」を目的として前もってもち、それと成ってくる結果と比較するからではないのか。そのような「陽気ぐらし」を目的とすることは、形の上の守護にとらわれた御利益信心を説くことになるのではないか。

このことは「陽気ぐらし」を客観的条件(物、金、健康等)に依存しない主観的な「陽気づくめ」、「陽気ゆさん」であると言っても同じことである。
 なぜなら「陽気づくめ」という、逆境や「ふし」にあっても可能な精神状態であっても
 
 いちれつに神がそふちをするならば
  心いさんでよふきつくめや
          (三、54)
に示されるように、神の守護の結果として与えられるものだからである。
  では目的とは何であろうか。
 母屋とりこぼちのときに教祖の言われた「世界のふしん」とは、単に形のふしんであるのみならず、「心のふしん」でもあり、「形のふしんに先行する心のふしん」を「形のふしん」を手段、「心のふしん」を目的として理解するとき、目的は「心のふしん」ということになるのではないだろうか。
 
だん~~とこどものしゆせ
まちかねる
  神のをもわくこればかりなり
          (四,65)
の「こどものしゆせ」とは常識的な立身出世の意味ではなく、心の成人の意味で、成人とは「親の思いに近づくこと」であり、これがわれわれにとっての「貧におちきる」ことやわれわれの信仰の目的でなければならない。
 
そして前真柱様が「ひながたの道は御恩報じの道」(昭和五十七年秋季大祭神殿講話)という趣旨のことを述べておられるように、「貧におちきる」ことを御恩報じとして通る中に、結果として自ずと「陽気ぐらし」が与えられることになると思われる。
 このように考えることができるなら、「貧におちきる」ことは、信仰を続ける限り、一粒万倍の形の上のご守護がみえたあとも、いやそういうときこそ実践されねばならない「信仰の出発点、原点であると同時に帰着点」(「あらきとうりょう」91号16頁)であると思われる。

 次に西山氏の主観的解釈を検討してみよう。
この解釈は、「物を施して執着を去れば、心に明るさが生まれ、心に明るさが生まれると、自ずから陽気ぐらしへの道が開ける」
   (『教祖伝』23頁)
との見方に基づくもので、「貧におちきる」ことによって、世界の対立抗争の原因となり、陽気ぐらし実現をさまたげている物への執着を取り去ることを教えられたのである、とみなされる。
 
したがって「貧におちきる」ことは、必ずしも形の財産を手放すことを意味せず、例えば気位が高く、人にきらわれ不幸になっている美人が、美人であることを鼻にかけることなく、心優しくなることも「貧におちきる」ことになり、自分中心の、よくにとらわれた心、ほこりの心づかいを改め、相手をたすける心になることを「貧におちきる」御苦労によって、教祖がわれわれに教えられた、ということになる。

2012年1月17日火曜日

No.66  教理随想(17) 「ひながた」の一考察(1)

私の曽祖父である村上孝三郎(泉東分教会初代会長)が、『教祖伝逸話篇』72「救かる身やもの」において示されているように、不治の病を教祖より直々おたすけいただき、ご恩返しとして、たすけ一条に邁進し、その結果教会名称のお許しを頂いたのは、明治25年5月であり、立教175年(平成24年)10月に創立120周年を迎える。

 このような千載一遇の尊い三年千日の旬を迎えて、私は信仰の元一日にたいする思いを新たにし、たすけ一条へのなお一層の決起を誓うとともに、「白紙に戻り 一より始める」この旬に、自分なりに信仰の原点を教理的に問い返し、再確認したいと思って、テーマとして信仰者にとって永遠の指針である「ひながた」を浅学菲才をかえりみず、選ばせて頂いた。
 さて「ひながた」には、われわれよふぼくが道を通る上での手本、雛形としていろいろの道すがらを、お残しくだされているのであるが、現代に生きるわれわれにとって「ひながた」を通るとは、具体的にどのようにすることなのか、となるといま一つはっきりしていないように思われる。

 教祖の道すがらの外形、ご行為をそのまま真似ることなのか。あるいは道すがらに一貫する精神をとりだし、それをわれわれの行為の規範や日常生活の目標として通ることなのか。あるいはもっと別のことなのか、判然としない。
 またそもそも教祖はなぜ、そのような道を通られたのか。われわれはなぜ「ひながた」の道を通らねばならないのか、等々の疑問が次々にわいてくるが、
・・・ひながたの道を通らねばひながた要らん。・・・      (M22,11,7
とまで仰せられるからには、そこに深い意味があるにちがいないと、思われる。
 
そこで以下において「ひながた」を考えるにあたって一番理解することが難しく、実践するに際して、躓きとなり、誤解をうけやすい「貧におちきる」とは何か、それの現代的意義は何かを考えてみたい。
 したがって「ひながた」五十年の道すがらの前半二十五年を「貧に落ちきられる」道すがらと理解し、それがどのような意味を持つのか、「つとめ」と「さづけ」を中心とする後半の二十五年の道すがらとどのように結びつくのか、また「貧におちきる」ことの考察から派生する問題について考えてみたいと思う。

 ここで「貧におちきる」ことの意義について考えるのは、教祖が貧に落ちきられた道すがらの意義が、現代において軽視されたり、歪められていることが、教勢の低迷、布教意欲の低下、信仰のいずみ等の本教の将来の存亡、興亡にかかわる重大な問題の一つの遠因となっているのではないか、と危惧するからである。

 さて「貧におちきる」ことについては、従来教内外において種々の解釈がなされているが、ここでは西山輝夫氏の解釈(『新教理随想』、『ひながたを身近に』)を主としてとりあげ、検討してみたい。
 氏は「貧におちきる」ことについて、主観的、客観的の二つの解釈が成り立つと考えているが、先に客観的解釈とは何かみてみよう。
 客観的解釈とは「教祖が貧におちきられた行為を永い時間の経過の中で観察し、検証し、その中から何が生じてきたかという姿を見定め、それによって改めて、貧におちきることの必然性を認識」することであるが、それによると「貧におちきる」ことは、「決してあるものをなくしていくというのではなく、実は万人たすけの道場を建設するための前段階として必要であった」(『ひながたを身近に』46頁)ということになる。

 氏によると、この解釈の成立する根拠は、立教のときの「この屋敷にいんねんあり」というお言葉で、中山家の私有財産である家屋敷は、「やしきのいんねん」によって神のやしきとなる必然性があり、そのために教祖は邪魔になる一切のものを「程越し」されたとみなされる。
 したがって教祖が嘉永六年に、人間の目からみると、中山家の没落を示す母屋とりこぼちのときに言われた「これから、世界のふしんに掛かる。祝うて下され」との常識をこえたお言葉の意味も理解されてくる。

 つまり「世界のふしん」は約十年後の「つとめ場所のふしん」となって、具体化の第一歩がしるされ、さらに「ぢば定め」へとつながっていくのであるが、「つとめ場所」も「ぢば定め」もともに元の中山家の母屋のあった場所に相当し、母屋のとりこぼちは破壊ではなく、建設、ふしんであることが理解される。
 「世界のふしん」は結局「中山家の母屋のとりこぼちなくして成立せず、母屋とりこぼちは教祖が家族もろ共、貧のどん底に落ちきられることなくしてあり得なかった」(『ひながたを身近に』47頁)

 以上が客観的解釈であり、このような解釈は史実に基づき、形あるものによって証拠づけられているだけに、普遍妥当性をもつように思えるが、よく考えてみると、この解釈は形のうえの「貧におちきる」ことを単に手段として、それ自体積極的な意義をもたないものとしてみていることがわかる。
 つまり「つとめ場所」、「世界のふしん」(目に見える形での)が主であって、形の上の「貧におちきる」ことは従の第二義的な、消極的な意義しかもたない、ということになる。

 なるほど客観的解釈は、教祖の「貧におちきる」道中は、「つとめ場所」、「ぢば定め」が可能となるために、なくてはならぬものであり、お通りいただかざるを得なかった道中であり、その意味で必然的なものであった、と理解させるが、この解釈は「貧におちきる」ことを「つとめ場所」等が可能となるための単なる手段とみるかぎり、現代のわれわれにとっては積極的な意義をもたないことになるのではないか。

 それは賃金を得ることを目的とする物や形にとらわれた苦役としての労働と同じようなものではないか。もしそうであるなら「貧におちきる」ことは「万人のひながた」(『教典』45頁)であるのではなく、教祖の、教祖による、教祖のための「ひながた」となり、「ひながたの道を通らねばひながた要らん」とのお言葉の意味がなくなり、教祖だからこそ、あのような道中が何の苦もなく通られたのであって、われわれはとても真似が出来ない、としりごみさせることになるのではないか。

2012年1月4日水曜日

No.65 教理随想(16) 「ふし」の意味(6) (完)

最後に「たんのう」が、
    ・・たんのう理諭そ。よう聞き分け。人間かりもの持って日々という。・・・
              (M30,8,31
と教示されるように、かりものと結びついている意味を、次のみかぐらうたを手がかりにして考えてみよう。
   やむほどつらいことハない
   わしもこれからひのきしん
(三下り、八つ)
 このおうたは「病気で苦しまねばならぬ事ほど、辛い事はない。このことを思えば、身上壮健で働かせていただけることは、どれほど有り難いことかわからない。この感謝の心から、日々明るく神恩報謝に尽くさせていただくことが、ひのきしんである」と現在では一般的に解釈されているのであるが、この解釈によると「これから」とは身上をたすけられ、壮健になってから、ということになる。

しかし、このお歌にはより深い意味が含まれているのではないか。
 よく身上になってはじめて健康の有り難さがわかると言われるが、もしそうなら身上は単に辛い、惨めなもので、ご守護のない姿、有り難くないものになってしまう。また健康の有り難さといっても、健康になるや否や、すぐに忘れられるものになってしまうであろう。

 そうではなく身上になってはじめて、それまで忘れていた、気が付かないでいた、生かされているという厳然たる事実(身上をたすけられたことや身上壮健であることと比較を絶する大きな第一義的な御守護「生かされている大恩[これについては別稿にて詳説]」に改めて目覚め、その有り難さが分かるということではないだろうか。
 したがって先のお歌は、病は確かに辛いものではあるが、それによって生かされている大恩に目覚め、それへの報恩の念が自ずと湧いてきて、ひのきしんをせずにおれなくなる、という意味であると思われる。

このことは次のおふでさきからも考えられるのではないか。
  にんけんにやまいとゆうてないけれど
  このよはじまりしりたものなし
            (九,10)
  このもとをくハしくしりた事ならば
  やまいのをこる事わないのに
           (三、93)
「このよはじまり」、「このもと」とは人間の生命の単なる歴史的な起源ではなく、歴史の根拠となる生命の根源、今、ここにわれわれの足元に厳然と実在する事実であるが、この事実の有り難さを忘れ、生命の根源から遊離して虚しい自己を絶対化するところに、よく、こうまんのほこりが生じ、それが病の原因となるのであるから、病とは結局それによって生かされているという厳然たる事実に目覚めさせることに、その存在意義があることを先の二つのお歌は教えていると思うのである。

 いんねんの教理に基づく「ふし」の見方において、元のいんねんに言及しなかったが、元のいんねんとは人間は陽気ぐらしをするべく創造され、たすけられる可能性があるというような「可能性としてのいんねん」(西山輝夫著『見て共に楽しむ』)を単に意味するのではなく、「この世・人間の生命を支える大きな流れ」(深谷善和著『お道の言葉』)とでもいえる現実的、実在的なものであり、いんねんと元のいんねんとは表層、深層の重層的な関係においてあると考えられるので、いんねんも結局のところ、元のいんねん、生かされている厳然たる事実、生命の根源に目覚めさせるところに、その存在意義があると思われる。

 以上のように考えることができのなら、「たんのう」における楽しみ、喜びとは、「ふし」が先に見たように、ほこりのそうじであり、間接的なたすけであることから生じるのみならず、より根源的には「ふし」によって、生かされている事実に目覚め、その有り難さを改めて感じるところに自ずと生まれてくるもので、それはまた生かされている大恩への報恩の念と同じものであると考えることができる。

 また「たんのうは前生いんねんのさんげ」の「さんげ」とは単に過去の心づかいの謝罪であるのみならず、将来に向かっての心定めでもあるが、その心定めは結局生かされている大恩への生涯末代の報恩の心定めでもあり、その実行(つとめとさづけを中心とする、たすけ一条の実践)が、まだ多く残っている心のほこりのそうじ、前生いんねんの納消を可能にし、結果として「ふしぎたすけ」、「めづらしたすけ」に浴せることになるのではないかと思われる。
 本教における「ふし」は、以上のような意味で、有り難い御守護とも言えるものであり、この点において他宗の「ふし」のとらえ方と根本的に異なると考えるのである。