最後に「たんのう」が、
・ ・・たんのう理諭そ。よう聞き分け。人間かりもの持って日々という。・・・
・ (M30,8,31)
と教示されるように、かりものと結びついている意味を、次のみかぐらうたを手がかりにして考えてみよう。
やむほどつらいことハない
わしもこれからひのきしん
(三下り、八つ)
このおうたは「病気で苦しまねばならぬ事ほど、辛い事はない。このことを思えば、身上壮健で働かせていただけることは、どれほど有り難いことかわからない。この感謝の心から、日々明るく神恩報謝に尽くさせていただくことが、ひのきしんである」と現在では一般的に解釈されているのであるが、この解釈によると「これから」とは身上をたすけられ、壮健になってから、ということになる。
しかし、このお歌にはより深い意味が含まれているのではないか。
よく身上になってはじめて健康の有り難さがわかると言われるが、もしそうなら身上は単に辛い、惨めなもので、ご守護のない姿、有り難くないものになってしまう。また健康の有り難さといっても、健康になるや否や、すぐに忘れられるものになってしまうであろう。
そうではなく身上になってはじめて、それまで忘れていた、気が付かないでいた、生かされているという厳然たる事実(身上をたすけられたことや身上壮健であることと比較を絶する大きな第一義的な御守護「生かされている大恩[これについては別稿にて詳説]」に改めて目覚め、その有り難さが分かるということではないだろうか。
したがって先のお歌は、病は確かに辛いものではあるが、それによって生かされている大恩に目覚め、それへの報恩の念が自ずと湧いてきて、ひのきしんをせずにおれなくなる、という意味であると思われる。
このことは次のおふでさきからも考えられるのではないか。
にんけんにやまいとゆうてないけれど
このよはじまりしりたものなし
(九,10)
このもとをくハしくしりた事ならば
やまいのをこる事わないのに
(三、93)
「このよはじまり」、「このもと」とは人間の生命の単なる歴史的な起源ではなく、歴史の根拠となる生命の根源、今、ここにわれわれの足元に厳然と実在する事実であるが、この事実の有り難さを忘れ、生命の根源から遊離して虚しい自己を絶対化するところに、よく、こうまんのほこりが生じ、それが病の原因となるのであるから、病とは結局それによって生かされているという厳然たる事実に目覚めさせることに、その存在意義があることを先の二つのお歌は教えていると思うのである。
いんねんの教理に基づく「ふし」の見方において、元のいんねんに言及しなかったが、元のいんねんとは人間は陽気ぐらしをするべく創造され、たすけられる可能性があるというような「可能性としてのいんねん」(西山輝夫著『見て共に楽しむ』)を単に意味するのではなく、「この世・人間の生命を支える大きな流れ」(深谷善和著『お道の言葉』)とでもいえる現実的、実在的なものであり、いんねんと元のいんねんとは表層、深層の重層的な関係においてあると考えられるので、いんねんも結局のところ、元のいんねん、生かされている厳然たる事実、生命の根源に目覚めさせるところに、その存在意義があると思われる。
以上のように考えることができのなら、「たんのう」における楽しみ、喜びとは、「ふし」が先に見たように、ほこりのそうじであり、間接的なたすけであることから生じるのみならず、より根源的には「ふし」によって、生かされている事実に目覚め、その有り難さを改めて感じるところに自ずと生まれてくるもので、それはまた生かされている大恩への報恩の念と同じものであると考えることができる。
また「たんのうは前生いんねんのさんげ」の「さんげ」とは単に過去の心づかいの謝罪であるのみならず、将来に向かっての心定めでもあるが、その心定めは結局生かされている大恩への生涯末代の報恩の心定めでもあり、その実行(つとめとさづけを中心とする、たすけ一条の実践)が、まだ多く残っている心のほこりのそうじ、前生いんねんの納消を可能にし、結果として「ふしぎたすけ」、「めづらしたすけ」に浴せることになるのではないかと思われる。
本教における「ふし」は、以上のような意味で、有り難い御守護とも言えるものであり、この点において他宗の「ふし」のとらえ方と根本的に異なると考えるのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿