私の曽祖父である村上孝三郎(泉東分教会初代会長)が、『教祖伝逸話篇』72「救かる身やもの」において示されているように、不治の病を教祖より直々おたすけいただき、ご恩返しとして、たすけ一条に邁進し、その結果教会名称のお許しを頂いたのは、明治25年5月であり、立教175年(平成24年)10月に創立120周年を迎える。
このような千載一遇の尊い三年千日の旬を迎えて、私は信仰の元一日にたいする思いを新たにし、たすけ一条へのなお一層の決起を誓うとともに、「白紙に戻り 一より始める」この旬に、自分なりに信仰の原点を教理的に問い返し、再確認したいと思って、テーマとして信仰者にとって永遠の指針である「ひながた」を浅学菲才をかえりみず、選ばせて頂いた。
さて「ひながた」には、われわれよふぼくが道を通る上での手本、雛形としていろいろの道すがらを、お残しくだされているのであるが、現代に生きるわれわれにとって「ひながた」を通るとは、具体的にどのようにすることなのか、となるといま一つはっきりしていないように思われる。
教祖の道すがらの外形、ご行為をそのまま真似ることなのか。あるいは道すがらに一貫する精神をとりだし、それをわれわれの行為の規範や日常生活の目標として通ることなのか。あるいはもっと別のことなのか、判然としない。
またそもそも教祖はなぜ、そのような道を通られたのか。われわれはなぜ「ひながた」の道を通らねばならないのか、等々の疑問が次々にわいてくるが、
・・・ひながたの道を通らねばひながた要らん。・・・ (M22,11,7)
とまで仰せられるからには、そこに深い意味があるにちがいないと、思われる。
そこで以下において「ひながた」を考えるにあたって一番理解することが難しく、実践するに際して、躓きとなり、誤解をうけやすい「貧におちきる」とは何か、それの現代的意義は何かを考えてみたい。
したがって「ひながた」五十年の道すがらの前半二十五年を「貧に落ちきられる」道すがらと理解し、それがどのような意味を持つのか、「つとめ」と「さづけ」を中心とする後半の二十五年の道すがらとどのように結びつくのか、また「貧におちきる」ことの考察から派生する問題について考えてみたいと思う。
ここで「貧におちきる」ことの意義について考えるのは、教祖が貧に落ちきられた道すがらの意義が、現代において軽視されたり、歪められていることが、教勢の低迷、布教意欲の低下、信仰のいずみ等の本教の将来の存亡、興亡にかかわる重大な問題の一つの遠因となっているのではないか、と危惧するからである。
さて「貧におちきる」ことについては、従来教内外において種々の解釈がなされているが、ここでは西山輝夫氏の解釈(『新教理随想』、『ひながたを身近に』)を主としてとりあげ、検討してみたい。
氏は「貧におちきる」ことについて、主観的、客観的の二つの解釈が成り立つと考えているが、先に客観的解釈とは何かみてみよう。
客観的解釈とは「教祖が貧におちきられた行為を永い時間の経過の中で観察し、検証し、その中から何が生じてきたかという姿を見定め、それによって改めて、貧におちきることの必然性を認識」することであるが、それによると「貧におちきる」ことは、「決してあるものをなくしていくというのではなく、実は万人たすけの道場を建設するための前段階として必要であった」(『ひながたを身近に』46頁)ということになる。
氏によると、この解釈の成立する根拠は、立教のときの「この屋敷にいんねんあり」というお言葉で、中山家の私有財産である家屋敷は、「やしきのいんねん」によって神のやしきとなる必然性があり、そのために教祖は邪魔になる一切のものを「程越し」されたとみなされる。
したがって教祖が嘉永六年に、人間の目からみると、中山家の没落を示す母屋とりこぼちのときに言われた「これから、世界のふしんに掛かる。祝うて下され」との常識をこえたお言葉の意味も理解されてくる。
つまり「世界のふしん」は約十年後の「つとめ場所のふしん」となって、具体化の第一歩がしるされ、さらに「ぢば定め」へとつながっていくのであるが、「つとめ場所」も「ぢば定め」もともに元の中山家の母屋のあった場所に相当し、母屋のとりこぼちは破壊ではなく、建設、ふしんであることが理解される。
「世界のふしん」は結局「中山家の母屋のとりこぼちなくして成立せず、母屋とりこぼちは教祖が家族もろ共、貧のどん底に落ちきられることなくしてあり得なかった」(『ひながたを身近に』47頁)
以上が客観的解釈であり、このような解釈は史実に基づき、形あるものによって証拠づけられているだけに、普遍妥当性をもつように思えるが、よく考えてみると、この解釈は形のうえの「貧におちきる」ことを単に手段として、それ自体積極的な意義をもたないものとしてみていることがわかる。
つまり「つとめ場所」、「世界のふしん」(目に見える形での)が主であって、形の上の「貧におちきる」ことは従の第二義的な、消極的な意義しかもたない、ということになる。
なるほど客観的解釈は、教祖の「貧におちきる」道中は、「つとめ場所」、「ぢば定め」が可能となるために、なくてはならぬものであり、お通りいただかざるを得なかった道中であり、その意味で必然的なものであった、と理解させるが、この解釈は「貧におちきる」ことを「つとめ場所」等が可能となるための単なる手段とみるかぎり、現代のわれわれにとっては積極的な意義をもたないことになるのではないか。
それは賃金を得ることを目的とする物や形にとらわれた苦役としての労働と同じようなものではないか。もしそうであるなら「貧におちきる」ことは「万人のひながた」(『教典』45頁)であるのではなく、教祖の、教祖による、教祖のための「ひながた」となり、「ひながたの道を通らねばひながた要らん」とのお言葉の意味がなくなり、教祖だからこそ、あのような道中が何の苦もなく通られたのであって、われわれはとても真似が出来ない、としりごみさせることになるのではないか。
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