天理教とは、親神が教祖を月日のやしろとして、この世に直々に現われ、教祖の口、筆、行いを通して、世界だすけの思召を伝えられた事実に基づく宗教であり、その実質が、ぢばへの信仰として展開されている。このことは教義的には、
・・・天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであって、陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、この理をうけて、初めて成就される・・・
(『教典』43頁)
と説明されるのであるが、天理王命、教祖、ぢばの理が一つであるとはいかなる意味をもつのであろうか。
この「天理王命、教祖、ぢばは、その理一つ」との教義は、本教の教えの根幹をなすもので、これを誤解したり、ここから逸脱すると、異説、異端に走り、我流信仰におちこむ危険が生じるのであるが、この教義を合理的に理解することは必ずしも容易ではない。
そこで三つを便宜上、天理王命と教祖、天理王命とぢば、教祖とぢばに分けて、それぞれを順に検討し、、「天理王命、教祖、ぢばは、その理一つ」について考えてみたい。
まず、天理王命と教祖については、教祖の月日のやしろとしてのお立場は一体どういう意味をもつか、親神と教祖はどのような関係にあるかが問題になる。宗教学的観点から、その可能性を類型化すると次のような見方が成立しうる。(『諸井慶徳著作集』第五巻67頁以下参照)
すなわち、
一、 人間としての悟りによって親神に到達した、或いは特殊な能力があって親神の霊感を受けた。
二、 神のお言葉が下がるときは親神の代理で、その他の場合は人間と同じ水準の生活をされた。
三、 親神が人間の姿をとって仮にこの世に現われたのが教祖である。
四、 教祖は神的人間であるが、天保九年以降一貫してではなく、次第に月日のやしろに相応しい姿になられた。
等の見方であるが、これらについて検討してみよう。
まず第一の見方においては教祖は人間の立場にとどまり、親神の顕現者、地上の月日ではないことになり妥当しない。
また第二の見方も本席には当てはまっても、天保九年以降一貫して親神の心を心とされた教祖の立場とはいえない。
では第三の見方についてはどうか。この見方については、もし成立しうるなら、教祖は親神の単なるロボットにすぎず、教祖独自の存在はないことになるが、原典から考えると成立しない。
なぜなら教祖は「元の理」に示されているように、人間創造のときの母親、いざなみのみことの御魂をもたれた御方で、月日といざなみのみことの間には「承知をさせて貰い受けられた」(『教典』26頁)から分かるように、単なる同一ではない関係があり、この関係が親神と教祖の間にも成立するからである。
「親神と教祖の関係はAⅢBで示される『全等』ではないが、AⅡBで示される『等しい』のである。」(深谷忠政著『天理教教義学序説』242頁)との説明は、その辺の消息を示すものと思われる。
したがってわれわれは親神と教祖とを全等として同一視したり、教祖は親神の仮のお姿と考えることはできないということになる。
では一体どの点において相違があるのだろうか。
ぢきもつをたれにあたへる事ならば
このよはじめたをやにわたする
(九,61)
月日にハこれをハたしてをいたなら
あとハをやより心したいに
(九、64)
このお歌の「をや」は親神ではなく、教祖のことであり、
・ ・・親神は教祖の心に、「天の与え」を分配することに関しては自由に裁量するすることをお許しになっている。・・・
(芹沢茂著『おふでさき通訳』363頁)
と解釈するとき、われわれは親神と教祖のお働きにおいて、はっきり区別をみることができる。
われわれは親神によって救けられることはいうまでもないが、教祖の御手にすがることによって、つまり親神の働きを前提として、教祖を通して救けていただくことができると思われる。(このことについては後にもう一度検討する)
次に第四の見方、いわゆる「教祖成人論」を検討してみよう。
この見方は教祖の神格面が天保九年以降次第に発展していって、明治七年に赤衣を召されたときに神と一体となられた、それ故それまでの教祖には神的側面と人間的側面が混在していたとみなし、その具体例として、宮池事件(教祖が宮池に身を投げようとされたとき「短気を出すやない~~」『教祖伝』31頁との親神の御声が内に聞こえて、どうしても果たせなかった)をあげるのである。
そしてこの説は二代真柱様が中心となって進められた「復元」によって、「月日のやしろ」としての教祖の立場が明確にされるまで、教内の一部において支持されてきた見方であるが、少し検討を加えてみよう。
宮池事件は、神と人間との間に立って苦しまれる人間的なお悩みであって、それ故に涙なしに語ることができない、と考えられやすいのであるが、しかしながら教祖が月日のやしろの立場であられる以上そのような見方は成立しない。
なぜなら月日のやしろとなられてからの教祖のお悩みは、一個人の悩みと次元を異にし、親神を知らず、その御心に従うことのできない周囲の人々を教え導く上での、お悩みであり、教祖が人間の立場から神に近づこうと努力される、その途上の悩みとは本質的に区別されるからである。
したがって赤衣によって神の理を厳然と示されるようになったのも、神格が次第に発展したからではなく、子供の成人に応じて、神の理を明確にされるようになった、と考えなければならないと思われる。