2012年3月7日水曜日

No.73 教理随想(24)  「ひながた」の一考察(8)

次に恩について少し考えてみよう。
恩は封建時代の残滓にすぎず、もはや現代的な意義をもたないものだろうか。恩はおふでさきに、
たん~~とをんかかさなりそのゆへハ
 
きゆばとみえるみちがあるから
             (八,54)

と一ヶ所、おさしづに十ヶ所しかでてこないので、本教においてあまり意味はないのだろうか。
 また報恩の信仰は単にお道の飛躍的発展がみられた明治、大正時代に通用した、あるいは現在においても身上、事情をお救けいただいた人にのみ通用するに過ぎないもので、親神、教祖の望まれるたすけ一条の信仰と根本的に異なるものであろうか。決してそうではないと思う。
 
恩という言葉が原典に少ないのは、それは「言わん言えんの理」で、親の立場からは言えないものであるからと思うが、原典を眼光紙背に徹して読むとき、随所に報恩の信仰が求められていることがよく分かるはずである。
 人のものかりたるならばりかいるで
  
はやくへんさいれゑをゆうなり
           (三、28)

これは単に常識的な倫理、道徳を教えるのではなく、人ものでも借りたら利がいる、まして神からの「かりもの」となると、どれだけの利がいるか、ということ、つまり報恩を間接的に教えられていると考えなければならない。
 また、
    ・・神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う。・・・    (M31,5,9

これも単に人間のたすけられたことへの忘恩をいうよりも、救けられることにのみ心をうばわれ、生かされていることへの報恩の心になれない、という神の嘆息と読むことが出来るのではないか。
 また報恩と「たすけ」についても、そもそも報恩の心のない「たすけ」など世間のエゴにとらわれた自己満足の奉仕活動や形の上のご利益を期待しての「たすけ」、あるいは自力のみをたのむ傲慢な「たすけ」として成立しえても本教では考えられず、また何らかの「たすけ」を自然と伴わない報恩の心も、短なる感謝にとどまり、本教では考えられないのではないか。
 
ということは真の報恩は必ず「たすけ」をともない、「たすけ」の根底には報恩の心がありその「たすけ」の実践内容が対物的には物への報恩として物を生かしたり、無駄にしたりしない、対人的には理の親、肉親の親への孝行、報恩行為となり、また理の子、信者、社会の悩める人等をたすけ、喜ばし、勇ませる等の行為となると言えるのではないか。
 また、
  ひとことはなしハひのきしん
  
にほひばかりをかけておく
         (七下り目、一つ)

も、にをいがけ、おたすけもひのきしんの精神、つまり報恩の心でなされねばならない、という意味であるとするなら、「にほひ」つまり報恩の心を伝えることが「たすけ」にほかならないということになり、結局報恩と「たすけ」とは単に内、外の区別があるだけで同じものになると思われる。
 
したがって報恩の信仰こそ、たすけ一条の根幹にすえ、復活させねばならないと思うのであるが、問題は一体何に対する報恩か、という点である。
 次に、
・・・大恩忘れて小恩送るような事ではならんで。・・・・    (M34,2,4
の意味を考えてみよう。
 ふつうこのお言葉は、物、人等への小恩のみならず、神への大恩を忘れてはいけない、と解されているが、それにとどまらず神への大恩にも大、小の恩があり、不思議だすけに浴した小恩にのみとらわれて、たすけられること以上に大きな、生かされている大恩を忘れてはいけないことを意味していると思われる。

 われわれはともすると「ふしぎだすけ」に浴して入信したとき、それを元一日(人間創造の元一日、立教の元一日、教祖年祭の元一日があるが、それらは人間にとっては時間的に区別されても、親神にとっては同時である)の大恩とみなし、その恩を子々孫々に至るまで伝え、その報恩の道を通ることが本教の信仰のように思いやすい。

がしかしこの元一日の大恩とは、たすけられたという過去の事実であるのみならず、たすけられることを通して教えられる、たすけられること以上に大きな御恩(つまり病気がたすかって有難いのはいうまでもないが、たすけられることを通して改めて目覚める、今まで忘れていた、あるいは気づかないでいた生かされているということが、もっと有難いということ)、つまり生かされている大恩に外ならないから、この生かされている大恩に目覚め、それを子々孫々に伝え、それへの御恩を、理の親、肉親の親、物、人等を通して「たすけ」として報じていくことが本教の信仰であると考えられねばならないのではないか。
  
たん~~と神の心とゆうものわ
  
ふしぎあらハしたすけせきこむ
          (三、104)

このおふでさきから「ふしぎだすけ」は真のたすけ(「めづらしたすけ」、「やますしなすによわらん」、「百十五才じよみよ」であるが、あくまで結果として自ずと与えていただくもの)にいたる一過程、手段にすぎず、真のたすけが「ふしぎだすけ」をこえてさらに目指されねばならないことが分かるが、
この真のたすけは生かされているということが何ものにもかえがたい、尊いものであるという、生かされている大恩に目覚め、その報恩に人間として生かされ続ける限り、いそしむところに自ずとその完成に近づいていくと思われる。
 
つまり親神は人間を「ふしぎだすけ」によって救け、その恩に報いる道を通らせるというより、「ふしぎだすけ」を通して、それ以上に大きな生かされている大恩、「九十九両のめぐみ」に目覚めさせ、強要されなくても自ら進んで、報恩の道をたすけ一条の道として通るようになってくれることを、親神の唯一の願いである「こどものしゆせ」として切に待ち望んでいると思うのである。

 結局恩とは生かされている大恩を基本として考えられねばならないということになるが、この生かされているという、人間が存在する限り永遠に現在的な大恩を基礎にすることによって、たすけられた恩、理の親、肉親の親、人や物等の恩が、小恩として、生かされている大恩の契機として正当に位置づけられ、生きたものになるように思われる。

 また生かされている大恩を「九十九両のめぐみ」として、より大きく感じれば感じるほど、それに比例して、それらの小恩がより大きく感じられ、それらへの報恩の道を通らねばならないのではなく、通らずにおれないようになってくると思われる。
 恩は単に過去的なものとして受け取られるとき、そのような恩の強調は、押し付け、強制となり、封建的な倫理思想、孝、忠と同じものに転化してしまう。これが系統問題の一つの原因となっているのであろう。
 (この系統問題については、西山輝夫著『新教理随想』に詳しく述べられている。)

0 件のコメント:

コメントを投稿