さてこの句が理解しにくいのは、今、現在が「このよのはじまり」、「元初まり」という過去の事実を明示する言葉と結びつき、現在と過去が同一視されているところにあるが、この矛盾を理解するためには、まず時間とは何かを知らねばならない。非常に難解なので、森本和夫氏の解説によってみてみよう。
さて時間とは一般に無限の過去より流れてきて、無限の未来へと一直線上を流れるもの、一瞬の過去にも戻ることの出来ない永遠の流れ、連続した直線のようなものとみなされ、現在は過去と未来を結びつける中間点のようなものと考えられるのであるが、このような直線的な時間像は「自然科学をモデルとして採用した」もので、「きわめて特殊な偏ったものであり、特定の歴史的制約をおびたもの」(『ムック』5号79頁)なのである。
では真実の時間像とは何か、さらに説明してもらおう。
従来の時間像においては、
「ある」のは「現在」だけであって、「過去」とか「未来」というようなものは「ない」のだという視点が欠けているのだ。
「現在」だけがあるということは、「過去」と「未来」との中間点とみなされる相対的な「現在」だけがあるということを意味しないのはいうまでもない。・・・そんな「現在」ではなくて、絶対的な「現在」があるのである。すなわち「現れて在るもの」、「姿を現しているもの」すべてが「現在」なのだ。あるいは「見えるもの」の全体といってもよいであろう。そんなわけで、かりに「過去」なり「未来」なりといったものを考えるとすれば、それは「見えないもの」であるほかはあるまい。
(同書、79~80頁)
ところでこのような「絶対的な『現在』」の時間像に基づくとき、「現われて在るもの」が過去から現われるということはできず、何の意味ももたないことになる。
いかほどにみえたる事をゆうたとて
もとをしらねばハかるめハなし
(四、81)
「もと」はしたがって過去ではなく、一切のものがそこから生じ、そこに帰ってゆくところの根拠、根源であり、
「現在」そのものが、そのまま「根源」から現われて出ているのであり、「根源」によって支えられ、生かされているのである。
「もと」は時間的な以前ではなく、むしろ「時間」の根拠であり、根源であるものとして理解されなければならない。
(同書81頁)
のである。
創造とは、存在の単なる起源の問題ではなく、むしろ、その根源の問題である。
(『諸井慶徳著作集』第六巻103頁)
この持続すなわち一見保存に外ならぬかのごとく思われるものも、実は神の不断の創造により、連続的生産によって行われるものでこそなければならない。
(同書、94頁)
の意味も「絶対的な現在」の時間像に立脚してはじめて理解できると思われる。
つまり「今がこのよのはじまり」とは、現在ある全てのものは「元初まり」という時間、歴史をこえた根源によってあるということ、人間についていうと、今、ここに生かされているということは、人間創造にも等しき「珍しい働き」(『教典』6頁)、ご守護によってである、ということである。
「元の理」はふつう、
月日よりたん~~心つくしきり
そのゆへなるのにんけんである
(六,88)
に示されている親神の人間創造の御苦労、人間に成長させるまでのご苦心、つまり過去における親神の御丹精を説くものとして理解されている。
しかし親神とは永遠の現在、今を生きる絶対者で、人間にとって過ぎ去った過去の事実も、親神にとっては現在であるから、親神の過去(人間にとっての)の働きは、すでになきものではなく、われわれにとっての現在においても、目に見えない形で浸透していると考えられる。
ということは、
これからわ神のしゆごとゆうものハ
なみたいていな事でないそや
(六,40)
に明示される「なみたいていな事でない」神の守護は、単に五尺の人間に成長させるまでの御苦労であるのみならず、同時に今現在われわれ人間を生かし育てる上での御苦労ということになる。
したがって九億九万年の「水中の住居」も、今、ここでのわれわれの生命の根源における神の御苦労として考えることができる。
また「八千八度の生まれかわり」とは現代において完膚なきまでに論駁されているダーウインの『進化論』(ジュレミー・リフキン著「エントロピーの法則Ⅱ」参照)を支持するようなものではなく、「人間のたね」(『教典』27頁)を育てる過程における親神の自己限定としての働きの複雑化を示すものと思うのであるが、その働きはすでに過ぎ去って、今はなきものではなく、今においても実在していて、われわれの身体、生命、自然の根源の中にいりこんでいる、このことを「元の理」によって教えられていると思うのである。
おふでさきには「このよはじまり」、「このもと」、「このしんじつ」というお言葉が多く見出されるが、これらはすべて同じ意味をもち、人間の生命の単なる歴史的な起源ではなく、今現在における、歴史の根拠となる人間の生命の根源を示すものであり、この厳然たる事実に開眼させるために、教祖は「ひながた」の五十年の長きにわたる御苦労の道中を通られ、「つとめとさづけ」を教え、晩年になって「元の理」を諄々と説かれたと思うのである。
いままでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら
(七、35)
とはしたがって、今われわれがここに、こうして生かされているということは、実に「なみたいていな事でない」親神の御苦労によってであり、何ものにもかえがたい尊いものである、ということを今まで説いているが、なかなか分かってもらえないということ、本居宣長の「九十九両のめぐみ」が今、ここに歴然と与えられているのに、それが分からず、一両、否一分、一朱足りないことに目をうばわれたり、逆に一朱にも満たないものを巨億の富としてうぬぼれている、ということであり、そこには親神のそのことを何とか分かってもらいたい、との切なる願いが込められているように思われる。
では「つとめ」をどう考えればいいのだろうか。
「つとめ」によって人間創造のときの「珍しい働き」が、再びこの世にもたらされ、人類が更正され、陽気ぐらしの世界に立て換わる、と教えられるのであるが、しかしその前提として「つとめ」をするしないにかかわらず、すでに今、ここに親神の「珍しい働き」(「九十九両のめぐみ」として)が厳然として実在していると考えなければならない。
したがって「つとめ」によってはじめて「珍しい働き」をうけるというよりも、すでにある「珍しい働き」における「十全の守護」のバランスの乱れ(これが身上、事情等のいわゆる「ふし」の原因である「ほこり」)を「つとめ」によって正し、一両の不足を補っていただき「百両のめぐみ」を結果として御守護いただく、と考えられねばならない。
このように見てくると、われわれが生かされているということは「なみたいていな事でない」親神の御苦労によってであり、それはまさに「根源的たすけ」(『諸井慶徳著作集』第六巻168頁)、第一義的な最高の御守護であり、われわれにとっては大恩なのである。
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