2012年4月16日月曜日

No.78 教理随想(29) 天理王命、教祖、ぢば、は理一つ(4) (完)

 次に問題となるのは、この教祖のお働きと天理王命、親神の働きとはどのようにつながり、また区別されるのかということである。

 天理王命と教祖については、先に見たように理において一つであるが、このことは両者が全く同じ働きをしており、実質的な区別はないということではない。われわれは教祖を通して、親神によって救けられるのであるが、これはいかなる意味であろうか。

 先に天理王命と「ぢば」の関係は、「かぐらづとめ」と「ぢば」の結びつきでもあり、教祖と「ぢば」が「さづけ」と「ぢば」の関係でもあることをみてきたが、もしこのような見方が許されるなら、親神と教祖のお働きの相違は、「つとめ」と「さづけ」の関係と区別に対応するものとして考えることができるであろう。

 では「つとめ」と「さづけ」とはどのようにつながり、区別されるのであろうか。
・・・つとめとさづけとは、親神が、世界一れつに、陽気ぐらしをさせてやりたい、との切なる親心によって教えられた、たすけ一条の道・・・  (『教典』23~24頁)
であるが、「つとめ」は、
    ・・人間個々の身上や事情に限らず、更に、豊かな稔りや平和の栄えなど、広く世界の上に、親神の恵みを及ぼす・・・
            (『教典』22頁)
万人万事の救済であるのにたいして、「さづけ」は個人の身上救済であり、この点に相違があると説かれる。

 しかしながら、両者の相違は単に万人と個人、万事と一事という量的な差異にすぎないのであろうか。
 清水国雄氏は『未来に向かって対話する天理教』の中で、教祖九十年祭のときの『諭達』の一節、
    ・・教祖は、さづけを渡しよふぼくを育てて、人々の成人を促しつつ、つとめの模様立てを進められた・・・を、
    ・・おさづけの理というのは、おつとめの模様立てというか、おつとめが成就する、おつとめができるような態勢をつくりだす一つの順序である・・・(228頁)
と理解しているが、この見方をさらに深め、より理論化すると次のようになるのではないか。
 
「つとめ」とは、先にみたように単に太古の人間創造の奇しき守護をいただくものであるのみならず、この世、人間身の内における十全の守護を保証するものでもあり、「さづけ」の「個人の身上だすけの働き」にたいしてより「全体的、根源的な働き」であるといえる。しかしこのことは「さづけ」は「つとめ」より理が軽く、軽視できるものであるという意味ではない。

逆に「つとめ」による「全体的、根源的な働き」における歪み、あるいは欠如(身上)を正すことによって、全体の働きのバランスを回復させ、その働きをより活性化させるという積極的な意義を持つ、といえるのではないだろうか。

 すなわち「さづけ」は単なる病気だすけではなく、それによって、われわれの身の内に働いている、ともすると忘れやすい、親神の十全の守護の一端を実感させ、病気だすけ以上に大きな、生かされている御守護、大恩に目覚めさせるところに真の意義があると考えることができるのなら、「さづけ」の徹底によって、親神の十全の守護をより大きく受け取れるようになる。
つまり「つとめ」がより成就され、「つとめ」の徹底によって、「さづけ」の部分的、個的な救済、すなわち守護がより活性化する関係にあると言えるのではないだろうか。

 もし「つとめ」と「さづけ」の関係が以上のように理解されるなら、親神と教祖のお働きの相違は、その理においては一つであるが、「つとめ」によって表現されている親神の現在的な「不断の創造」、十全の守護の働きと、それを前提として、その守護をより完全たらしめるためのお働きとして、理解されるのではないだろうか。

 つまり教祖は「存命の理」によって、「さづけ」による不思議だすけを通して、親神の十全の守護、生かされている大恩に目覚めさせ、「つとめ」の完成に心を向けさせることによって、真のたすけを実現すべく日々お働きになっている。この意味では、親神と教祖のお働きには、たすけ一条の一なる働きの二つの側面である、と悟ることができるのではないか。

 以上のように見てくるとき「天理王命、教祖、ぢばは、その理一つ」とは、「つとめ」、「さづけ」、「ぢば」の理が一つということでもあり、「ぢば」を中心として、「つとめ」と「さづけ」によって世界だすけが推進されていくこととして理解される。

「天理王命、教祖、ぢばはその理一つ」の教えは、この意味で、本教の根幹をなす教義であり、これを認めずして本教の信仰は成立しないと言えるのである。 ( 完 )

2012年4月7日土曜日

No.77 教理随想(28) 天理王命、教祖、ぢば は理一つ(3)

 また救済についても、「ぢば」のこのような現在的理解に基づいて、はじめて正しく理解されるのではないだろうか。
 なるほど、
    ・・ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢばがありて、世界治まる・・・
                (M21,7,2
と教示されるように、「ぢば」の理によって、病、むほんの根は切れ、真の世界平和が将来に実現されるのである。しかしその前提として、「ぢば」の理によって、世界の人々が本質的に平等に守護され生かされているという事実がまずあり、その事実に目覚め、互いに救け合うことによって、その恩に報いるということがなければならない。

 もしそうでないと、「ぢば」は現世利益に浴することのできる、単なる「をがみきとふ」の対象になり下がってしまうであろう。
 このように見てくると、「ぢば」の理とは、まさに現在的なものであり、この現在的な働きが天理王命の十全の守護に基づいているのであり、これが「ぢば」に天理王命が鎮まり給うという意味であると思う。

 「ぢば」に天理王命が鎮まり給うとは、「ぢば」に霊験あらたかな神様が鎮座しているというような単純な意味ではなく、「ぢば」を働きの中心として、宇宙、この世、人間身の内のすみずみに、天理王命の「不断の創造」が永遠に現在的に行われているということであり、その「不断の創造」の様式が、「ぢば」においてつとめられる「かぐらづとめ」にほかならないのではないかと思われる。

 「かぐらづとめ」とは単に太古の人間創造の様式とか、それによって不思議、奇蹟を将来にもたらすような「をがみことふ」と同列のものでは決してなく、この世、人間身の内における、まさに現在的な「不断の創造」の様式であり、それゆえにその理は尊く、その完成がせきこまれるのである。
 このように見てくると、天理王命と「ぢば」との結びつきは、「かぐらづとめ」と「ぢば」との関係としても考えることができるであろう。

 最後に教祖と「ぢば」との結びつきについてみてみよう。
 教祖と「ぢば」はその理において一つである。しかし一般常識から考えると現身をもたれる教祖と場所的地点である「ぢば」が一つであることは、唐突な感をまぬがれず、理解しにくい点であろう。教祖と「ぢば」が一つとは、いかなる意味をもつのであろうか。

 なるほど「ぢば」は、親神が教祖をやしろとして、はじめてこの道が開示された場所であり、教祖がたすけ一条のお働きをされた中心の場所である限り、「ぢば」と教祖とは不離の関係にあると言えるが、厳密にいうと、これは外的なつながりを示す関係であり、内的結合すなわち「理において一つ」の関係を直接明らかにするものではない。

 われわれは教祖と「ぢば」が、その理において一つであることを理解するためには、現身をかくされてからの教祖と「ぢば」の関係を考えなければならない。つまり「存命の理」と「ぢば」の関係である。

 「存命の理」については次のように教えられている。
    ・・さあ~~これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てなせんで。日々の道を見て思やんしてくれねばならん。・・・     (M23,3,17
    ・・存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という。・・・    (M29,2,4

 これらのおさしづから明らかなように、「存命の理」とは、教祖が現身をかくされた後も、存命のまま元のやしきにとどまり、日々世界だすけの上にお働きになられていることであるが、この「存命の理」の理解は当時の人々にとってのみならず、今日のわれわれにとっても必ずしも容易ではない。

 なかには「たすけ一条の心定めをした人の心の中には、いつでも教祖は存命です」という人もあるが、これでは「存命の理」は単に主観的なものにすぎず、
・・・影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど、日々働いて居る。・・・・   (M40,5,17
に明示されている、教祖が今現に生きられていて、たすけ一条の先頭に立たれて、具体的な、現実として働いておられるという事実が無視、軽視されることになるであろう。

 また「教祖を信じるとは、教祖の教えを白紙でうけとめ、教祖によって示された道を、教えられるままに、『ひながた』どおり歩みぬき、どこまでもまだまだ、と深めてゆくことにより、教祖と一つになること(自己同一)を体験することである。『ひながた』の道あってはじめて、教祖存命は天理教者一人ひとりにとって現実のものになる」、

「教祖存命という信仰は、死んでも来世があるなどという幻想的な慰めごとを言っているのでは断じてない。『いのちの舞台』の永遠性、絶対性をいっているのである」というもある。
 この存命論では、親神の働きと教祖存命のお働きとの区別があいまいになったり、また教祖存命の具体的なお働きが一体何なのか、はっきりしないという問題がある。

 教祖は「存命の理」によって、世界だすけの上に昼夜の区別なく、お働きになられているのであるが、ではこの働きとは具体的に何なのか。

・・・子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。(中略)さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん~~に理が渡そう。・・・・   (M20,2,18

このおさしづは、教祖が現身をかくされた直後に、意気消沈する人々を勇ませるべく、本席を通して示されたものであり、「子供にやりたいもの」とは、いうまでもなく「さづけ」に他ならないから、教祖の具体的なお働きとは、「さづけ」を通しての不思議だすけであり、この不思議だすけこそ、「存命の理」の具体的な確証なのである。
 「さづけ」は「ぢば」の理に基づくものであるから、この意味においても教祖と「ぢば」とが一つであると言える。

2012年4月1日日曜日

No.76 教理随想(27) 天理王命、教祖、ぢば は理一つ(2)

以上簡単に教祖についてのいろいろな見方を検討し、いずれも不十分で妥当しないことをみてきたが、それらの見方の根底には、神と人間とを峻別する二元論的な思考があり、月日のやしろの理解を困難にしているのではないだろうか。

 その思考に基づくと、神と人とは絶対的に隔絶されていて、天保九年にはじめて、神と人が結びついたとか、究極的絶対的なものが相対、有限の場に現われた、永遠が時間、歴史のうちに自らを表わした、教祖における親神の現われは、まさに神秘的で非合理の出来事である等々と理解されるのであるが、このような神と人間との質的断絶という立場から考えるとき、われわれ人間は宙に浮いた根底のない存在となるのではないか。

 われわれはこのような思考を脱し、親神・教祖を「をや」とし、人間をその懐にいだかれる子供とみなす神人関係から月日のやしろを理解しなければならないと思う。

 このような神人関係からすると、教祖は、神と人との結びつきを可能とする媒介者ではなく、神と人とが原初から不可分に結びついているという根源的事実そのものを熟知し、それを人間にあらわに示す立場にたたれている、と理解されるのではないか。

 われわれにとって理解に苦しむのは、教祖が神にして人、人にして神という背理、神秘の御方であるというよりも、むしろわれわれが神とは、親と子という関係にあるという事実ではないか。
 しかしこのことはわれわれ人間と教祖が同質的に連続していて、人間は月日のやしろになることができるということでは決してない。教祖は姿、形は人間ではあっても、人間心は一切なく、親神の一列人間を救けたいという無私の親心を御心とされていて、心一つにおいて人間と教祖の間には、人間と神との違いという基本的な次元の違いがあることは言うまでもない。

 次に天理王命と「ぢば」の関係についてみてみよう。
 さて教祖は口、筆、「ひながた」によって、親神の思召を人間に理解させようと御苦労くださるとともに、
    ・・深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里ぢばに名附け・・・  (『教典』13頁)
られたのであるが、このことは一体いかなる意味をもつのであろうか。

 先にみたように教祖は月日のやしろとして、親神天理王命と理において一つであるから、教祖に天理王命の神名が授けられてもよいのに、そうされなかったのは、教祖に神名が授けられることによって、教祖と天理王命が無差別に同一視され、親神の思召が人間に正しく伝えられないためであったと思われる。

 教祖と天理王命が無差別に同一視されることによって、現身をもつ人間がそのまま神格化される、神と人間とが同列視されるという問題が生じたり、また教祖に天理王命の神名がつけられると、人間は天理王命の所在を教祖のみに見出し、天理王命の十全の守護や、
    ・・人間世界を造り、永遠にかわることなく、万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神、実の神・・・
            (『教典』36頁)
の側面を無視し、そのために従来のご利益信心から成人することができない、このような「深い思わく」から天理王命の神名が、末代かわらぬ「ぢば」に授けられたと思われる。

 ところで天理王命の神名が「ぢば」に授けられたことは、「ぢば」が天理王命の鎮まり給う場所であることを意味するが、このことと天理王命の「万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神、実の神」としての側面とはどのようにつながるのであろうか。
 
たん~~となに事にてもこのよふわ
 
 神のからだやしやんしてみよ
         (三、40、135)

から分かるように、親神の働きは世界のすみずみに満ちているのであるが、そうであるなら親神天理王命は世界のいたる所に鎮まり給うということになるのではないか。あえて「ぢば」に鎮まり給うと強調されるのはなぜか。

本教において「ぢば」は信仰の目標であり、「ぢば」なくして信仰は成立しないのであるが、「ぢば」の理の尊さは何に基づいているのか。また他宗の聖地、霊地とどのように異なるのか。

 さて世界には数多くの聖地、霊地があるが、その由来については、大別すると次の二つに分けられる。(『諸井慶徳著作集』第七巻130頁以下参照)
 まず第一は歴史的な由緒、沿革で神殿、寺院がそこに建てられることによって聖地とされた、第二は不思議な奇蹟が起こったことから、崇拝の対象とされるようになった、この二つであるが、「ぢば」は本質においては、そのいずれでもない。
 
「ぢば」とは「元の理」に明示されているように、人間宿し込みの元なる場所であるとともにその理によって、「人間を生みなおしとしてのたすけが与えられる場所」(前掲書137頁)でもあり、この本質に基づいて、神殿や不思議な奇蹟が結果としてあるのである。 
 
「ぢば」とは人間生命の根源、故郷、たすけの場所のゆえに、他に類をみない尊い場所であるが、われわれは「ぢば」の理を単に過去的、未来的にのみ理解してはならない。
 つまり過去的理解とは、人間が太古の昔に宿し込まれて、創造された、それゆえに「ぢば」は現在のわれわれにとっては直接の関係はない、との理解であり、また未来的理解とは、今はまだ実現していない救済が「ぢば」の理によって将来において成就される、との理解であるが、これらはいずれも一面的であり、誤解を招くことになると思われる。

 なぜなら人間の創造とは、太古の一回きりのものではなく、
・・・この持続すなわち一見保存に外ならぬかのごとく思われるものも、実は神の不断の創造により、連続的生産によって行われるものでこそなければならない。・・・・
  (『諸井慶徳著作集』第六巻94頁)

と述べられているように、今現在の瞬間においても続いているからである。
 われわれが今生かされているのは、太古における創造のみならず、「神の不断の創造」によってであり、この「不断の創造」が「ぢば」に理に基づいているのである。

 したがって「ぢば」は単に人間の故郷であるのみならず、われわれの現在の生命の直接の根拠でもあり、それゆえに尊いということになる。