次に問題となるのは、この教祖のお働きと天理王命、親神の働きとはどのようにつながり、また区別されるのかということである。
天理王命と教祖については、先に見たように理において一つであるが、このことは両者が全く同じ働きをしており、実質的な区別はないということではない。われわれは教祖を通して、親神によって救けられるのであるが、これはいかなる意味であろうか。
先に天理王命と「ぢば」の関係は、「かぐらづとめ」と「ぢば」の結びつきでもあり、教祖と「ぢば」が「さづけ」と「ぢば」の関係でもあることをみてきたが、もしこのような見方が許されるなら、親神と教祖のお働きの相違は、「つとめ」と「さづけ」の関係と区別に対応するものとして考えることができるであろう。
では「つとめ」と「さづけ」とはどのようにつながり、区別されるのであろうか。
・・・つとめとさづけとは、親神が、世界一れつに、陽気ぐらしをさせてやりたい、との切なる親心によって教えられた、たすけ一条の道・・・ (『教典』23~24頁)
であるが、「つとめ」は、
・ ・・人間個々の身上や事情に限らず、更に、豊かな稔りや平和の栄えなど、広く世界の上に、親神の恵みを及ぼす・・・
・ (『教典』22頁)
万人万事の救済であるのにたいして、「さづけ」は個人の身上救済であり、この点に相違があると説かれる。
しかしながら、両者の相違は単に万人と個人、万事と一事という量的な差異にすぎないのであろうか。
清水国雄氏は『未来に向かって対話する天理教』の中で、教祖九十年祭のときの『諭達』の一節、
・ ・・教祖は、さづけを渡しよふぼくを育てて、人々の成人を促しつつ、つとめの模様立てを進められた・・・を、
・ ・・おさづけの理というのは、おつとめの模様立てというか、おつとめが成就する、おつとめができるような態勢をつくりだす一つの順序である・・・(228頁)
と理解しているが、この見方をさらに深め、より理論化すると次のようになるのではないか。
「つとめ」とは、先にみたように単に太古の人間創造の奇しき守護をいただくものであるのみならず、この世、人間身の内における十全の守護を保証するものでもあり、「さづけ」の「個人の身上だすけの働き」にたいしてより「全体的、根源的な働き」であるといえる。しかしこのことは「さづけ」は「つとめ」より理が軽く、軽視できるものであるという意味ではない。
逆に「つとめ」による「全体的、根源的な働き」における歪み、あるいは欠如(身上)を正すことによって、全体の働きのバランスを回復させ、その働きをより活性化させるという積極的な意義を持つ、といえるのではないだろうか。
すなわち「さづけ」は単なる病気だすけではなく、それによって、われわれの身の内に働いている、ともすると忘れやすい、親神の十全の守護の一端を実感させ、病気だすけ以上に大きな、生かされている御守護、大恩に目覚めさせるところに真の意義があると考えることができるのなら、「さづけ」の徹底によって、親神の十全の守護をより大きく受け取れるようになる。
つまり「つとめ」がより成就され、「つとめ」の徹底によって、「さづけ」の部分的、個的な救済、すなわち守護がより活性化する関係にあると言えるのではないだろうか。
もし「つとめ」と「さづけ」の関係が以上のように理解されるなら、親神と教祖のお働きの相違は、その理においては一つであるが、「つとめ」によって表現されている親神の現在的な「不断の創造」、十全の守護の働きと、それを前提として、その守護をより完全たらしめるためのお働きとして、理解されるのではないだろうか。
つまり教祖は「存命の理」によって、「さづけ」による不思議だすけを通して、親神の十全の守護、生かされている大恩に目覚めさせ、「つとめ」の完成に心を向けさせることによって、真のたすけを実現すべく日々お働きになっている。この意味では、親神と教祖のお働きには、たすけ一条の一なる働きの二つの側面である、と悟ることができるのではないか。
以上のように見てくるとき「天理王命、教祖、ぢばは、その理一つ」とは、「つとめ」、「さづけ」、「ぢば」の理が一つということでもあり、「ぢば」を中心として、「つとめ」と「さづけ」によって世界だすけが推進されていくこととして理解される。
「天理王命、教祖、ぢばはその理一つ」の教えは、この意味で、本教の根幹をなす教義であり、これを認めずして本教の信仰は成立しないと言えるのである。 ( 完 )