2012年4月1日日曜日

No.76 教理随想(27) 天理王命、教祖、ぢば は理一つ(2)

以上簡単に教祖についてのいろいろな見方を検討し、いずれも不十分で妥当しないことをみてきたが、それらの見方の根底には、神と人間とを峻別する二元論的な思考があり、月日のやしろの理解を困難にしているのではないだろうか。

 その思考に基づくと、神と人とは絶対的に隔絶されていて、天保九年にはじめて、神と人が結びついたとか、究極的絶対的なものが相対、有限の場に現われた、永遠が時間、歴史のうちに自らを表わした、教祖における親神の現われは、まさに神秘的で非合理の出来事である等々と理解されるのであるが、このような神と人間との質的断絶という立場から考えるとき、われわれ人間は宙に浮いた根底のない存在となるのではないか。

 われわれはこのような思考を脱し、親神・教祖を「をや」とし、人間をその懐にいだかれる子供とみなす神人関係から月日のやしろを理解しなければならないと思う。

 このような神人関係からすると、教祖は、神と人との結びつきを可能とする媒介者ではなく、神と人とが原初から不可分に結びついているという根源的事実そのものを熟知し、それを人間にあらわに示す立場にたたれている、と理解されるのではないか。

 われわれにとって理解に苦しむのは、教祖が神にして人、人にして神という背理、神秘の御方であるというよりも、むしろわれわれが神とは、親と子という関係にあるという事実ではないか。
 しかしこのことはわれわれ人間と教祖が同質的に連続していて、人間は月日のやしろになることができるということでは決してない。教祖は姿、形は人間ではあっても、人間心は一切なく、親神の一列人間を救けたいという無私の親心を御心とされていて、心一つにおいて人間と教祖の間には、人間と神との違いという基本的な次元の違いがあることは言うまでもない。

 次に天理王命と「ぢば」の関係についてみてみよう。
 さて教祖は口、筆、「ひながた」によって、親神の思召を人間に理解させようと御苦労くださるとともに、
    ・・深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里ぢばに名附け・・・  (『教典』13頁)
られたのであるが、このことは一体いかなる意味をもつのであろうか。

 先にみたように教祖は月日のやしろとして、親神天理王命と理において一つであるから、教祖に天理王命の神名が授けられてもよいのに、そうされなかったのは、教祖に神名が授けられることによって、教祖と天理王命が無差別に同一視され、親神の思召が人間に正しく伝えられないためであったと思われる。

 教祖と天理王命が無差別に同一視されることによって、現身をもつ人間がそのまま神格化される、神と人間とが同列視されるという問題が生じたり、また教祖に天理王命の神名がつけられると、人間は天理王命の所在を教祖のみに見出し、天理王命の十全の守護や、
    ・・人間世界を造り、永遠にかわることなく、万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神、実の神・・・
            (『教典』36頁)
の側面を無視し、そのために従来のご利益信心から成人することができない、このような「深い思わく」から天理王命の神名が、末代かわらぬ「ぢば」に授けられたと思われる。

 ところで天理王命の神名が「ぢば」に授けられたことは、「ぢば」が天理王命の鎮まり給う場所であることを意味するが、このことと天理王命の「万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神、実の神」としての側面とはどのようにつながるのであろうか。
 
たん~~となに事にてもこのよふわ
 
 神のからだやしやんしてみよ
         (三、40、135)

から分かるように、親神の働きは世界のすみずみに満ちているのであるが、そうであるなら親神天理王命は世界のいたる所に鎮まり給うということになるのではないか。あえて「ぢば」に鎮まり給うと強調されるのはなぜか。

本教において「ぢば」は信仰の目標であり、「ぢば」なくして信仰は成立しないのであるが、「ぢば」の理の尊さは何に基づいているのか。また他宗の聖地、霊地とどのように異なるのか。

 さて世界には数多くの聖地、霊地があるが、その由来については、大別すると次の二つに分けられる。(『諸井慶徳著作集』第七巻130頁以下参照)
 まず第一は歴史的な由緒、沿革で神殿、寺院がそこに建てられることによって聖地とされた、第二は不思議な奇蹟が起こったことから、崇拝の対象とされるようになった、この二つであるが、「ぢば」は本質においては、そのいずれでもない。
 
「ぢば」とは「元の理」に明示されているように、人間宿し込みの元なる場所であるとともにその理によって、「人間を生みなおしとしてのたすけが与えられる場所」(前掲書137頁)でもあり、この本質に基づいて、神殿や不思議な奇蹟が結果としてあるのである。 
 
「ぢば」とは人間生命の根源、故郷、たすけの場所のゆえに、他に類をみない尊い場所であるが、われわれは「ぢば」の理を単に過去的、未来的にのみ理解してはならない。
 つまり過去的理解とは、人間が太古の昔に宿し込まれて、創造された、それゆえに「ぢば」は現在のわれわれにとっては直接の関係はない、との理解であり、また未来的理解とは、今はまだ実現していない救済が「ぢば」の理によって将来において成就される、との理解であるが、これらはいずれも一面的であり、誤解を招くことになると思われる。

 なぜなら人間の創造とは、太古の一回きりのものではなく、
・・・この持続すなわち一見保存に外ならぬかのごとく思われるものも、実は神の不断の創造により、連続的生産によって行われるものでこそなければならない。・・・・
  (『諸井慶徳著作集』第六巻94頁)

と述べられているように、今現在の瞬間においても続いているからである。
 われわれが今生かされているのは、太古における創造のみならず、「神の不断の創造」によってであり、この「不断の創造」が「ぢば」に理に基づいているのである。

 したがって「ぢば」は単に人間の故郷であるのみならず、われわれの現在の生命の直接の根拠でもあり、それゆえに尊いということになる。

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