2012年4月7日土曜日

No.77 教理随想(28) 天理王命、教祖、ぢば は理一つ(3)

 また救済についても、「ぢば」のこのような現在的理解に基づいて、はじめて正しく理解されるのではないだろうか。
 なるほど、
    ・・ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢばがありて、世界治まる・・・
                (M21,7,2
と教示されるように、「ぢば」の理によって、病、むほんの根は切れ、真の世界平和が将来に実現されるのである。しかしその前提として、「ぢば」の理によって、世界の人々が本質的に平等に守護され生かされているという事実がまずあり、その事実に目覚め、互いに救け合うことによって、その恩に報いるということがなければならない。

 もしそうでないと、「ぢば」は現世利益に浴することのできる、単なる「をがみきとふ」の対象になり下がってしまうであろう。
 このように見てくると、「ぢば」の理とは、まさに現在的なものであり、この現在的な働きが天理王命の十全の守護に基づいているのであり、これが「ぢば」に天理王命が鎮まり給うという意味であると思う。

 「ぢば」に天理王命が鎮まり給うとは、「ぢば」に霊験あらたかな神様が鎮座しているというような単純な意味ではなく、「ぢば」を働きの中心として、宇宙、この世、人間身の内のすみずみに、天理王命の「不断の創造」が永遠に現在的に行われているということであり、その「不断の創造」の様式が、「ぢば」においてつとめられる「かぐらづとめ」にほかならないのではないかと思われる。

 「かぐらづとめ」とは単に太古の人間創造の様式とか、それによって不思議、奇蹟を将来にもたらすような「をがみことふ」と同列のものでは決してなく、この世、人間身の内における、まさに現在的な「不断の創造」の様式であり、それゆえにその理は尊く、その完成がせきこまれるのである。
 このように見てくると、天理王命と「ぢば」との結びつきは、「かぐらづとめ」と「ぢば」との関係としても考えることができるであろう。

 最後に教祖と「ぢば」との結びつきについてみてみよう。
 教祖と「ぢば」はその理において一つである。しかし一般常識から考えると現身をもたれる教祖と場所的地点である「ぢば」が一つであることは、唐突な感をまぬがれず、理解しにくい点であろう。教祖と「ぢば」が一つとは、いかなる意味をもつのであろうか。

 なるほど「ぢば」は、親神が教祖をやしろとして、はじめてこの道が開示された場所であり、教祖がたすけ一条のお働きをされた中心の場所である限り、「ぢば」と教祖とは不離の関係にあると言えるが、厳密にいうと、これは外的なつながりを示す関係であり、内的結合すなわち「理において一つ」の関係を直接明らかにするものではない。

 われわれは教祖と「ぢば」が、その理において一つであることを理解するためには、現身をかくされてからの教祖と「ぢば」の関係を考えなければならない。つまり「存命の理」と「ぢば」の関係である。

 「存命の理」については次のように教えられている。
    ・・さあ~~これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てなせんで。日々の道を見て思やんしてくれねばならん。・・・     (M23,3,17
    ・・存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という。・・・    (M29,2,4

 これらのおさしづから明らかなように、「存命の理」とは、教祖が現身をかくされた後も、存命のまま元のやしきにとどまり、日々世界だすけの上にお働きになられていることであるが、この「存命の理」の理解は当時の人々にとってのみならず、今日のわれわれにとっても必ずしも容易ではない。

 なかには「たすけ一条の心定めをした人の心の中には、いつでも教祖は存命です」という人もあるが、これでは「存命の理」は単に主観的なものにすぎず、
・・・影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど、日々働いて居る。・・・・   (M40,5,17
に明示されている、教祖が今現に生きられていて、たすけ一条の先頭に立たれて、具体的な、現実として働いておられるという事実が無視、軽視されることになるであろう。

 また「教祖を信じるとは、教祖の教えを白紙でうけとめ、教祖によって示された道を、教えられるままに、『ひながた』どおり歩みぬき、どこまでもまだまだ、と深めてゆくことにより、教祖と一つになること(自己同一)を体験することである。『ひながた』の道あってはじめて、教祖存命は天理教者一人ひとりにとって現実のものになる」、

「教祖存命という信仰は、死んでも来世があるなどという幻想的な慰めごとを言っているのでは断じてない。『いのちの舞台』の永遠性、絶対性をいっているのである」というもある。
 この存命論では、親神の働きと教祖存命のお働きとの区別があいまいになったり、また教祖存命の具体的なお働きが一体何なのか、はっきりしないという問題がある。

 教祖は「存命の理」によって、世界だすけの上に昼夜の区別なく、お働きになられているのであるが、ではこの働きとは具体的に何なのか。

・・・子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。(中略)さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん~~に理が渡そう。・・・・   (M20,2,18

このおさしづは、教祖が現身をかくされた直後に、意気消沈する人々を勇ませるべく、本席を通して示されたものであり、「子供にやりたいもの」とは、いうまでもなく「さづけ」に他ならないから、教祖の具体的なお働きとは、「さづけ」を通しての不思議だすけであり、この不思議だすけこそ、「存命の理」の具体的な確証なのである。
 「さづけ」は「ぢば」の理に基づくものであるから、この意味においても教祖と「ぢば」とが一つであると言える。

0 件のコメント:

コメントを投稿