今回は前回の泥海、月日について少し検討を深め、さらに「二つ一つ」について考えてみたい。
まず泥海については前回詳しくみたので、今回は「地天泰」の思想(『泥海古記について』蔵内数太著、三二頁)を吟味してみたい。
「地天泰」とは何か。これは易における逆説的な真理で、天地ではなく、地天と逆になるところに、交わりが起こり、ものが生まれることを示す思想である。
つまり天は上にあり、地は下にあり、天地では永久に交わらないのであるが、地天となると、上にある地は下に沈み、下にある天は上に昇ろうとして、そこに交わりが生じ、ものが生まれるのである。
ところで「地と天とをかたどりて、ふうふをこしらえ」にうかがえる思想は、まさに地天泰といえると思うが、地天とは「泥海古記」においては、泥海と月日ではない。
薮内氏は、泥海が地で、月日が天で、そこに地天泰が成立するとみているが、前回みたように、泥海とは月日にほかならないから、泥海と月日を地と天の二つに分けることはできず、泥海と月日には地天は成立しないと思われる。
「地と天とをかたどりて」の地と天とは、をもたりのみこと、くにとこたちのみことのお働きの一端と解しうるなら、地天とは月日それ自体において成立すると考えられる。
前回、月日の泥海の姿は、大竜、大蛇で、大竜は天に上昇する超越性(「積極的発動性」諸井慶徳氏)が、大蛇は地をはう内在性(「受動的展開性」同氏)が象徴されていると述べたが、この超越と内在の二原理が交わり、二つ一つになることによって、人間創造へと展開していくのであり、ここに月日それ自体においての地天が成立することになると思われる。
「泥海古記」において「地天泰」の思想が認められるのであるが、地天は泥海と月日の間ではなく、月日それ自体において成立するものとして理解されねばならない。
次に月日において示されている「二つ一つ」の働きについてみてみよう。
さておかきさげに「二つ一つが天の理」と教示されているが、これはいかなる意味であろうか。
おかきさげをもう少しみてみると「人を救ける心は真の誠」、「誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐ受け取る直ぐ返すが一つの理」と教示されている。
ここから考えると誠は天の理で、誠は人を救ける心であるから、「二つ一つ」は二つのものが互いに救けあって一つになることと悟れる。
もしそうなら「二つ一つ」の論理はマルクスによって主張された唯物弁証法、対立する二つの要素の一方が他方を闘争によって否定するか、服従させる論理と異なり、真に調和、平和をもたらす論理、対立抗争にあえいでいる現代にまさに求められている論理であるといえる。
また二つのものが救けあう以上、二つはあくまで主体性をもつものでなければならない。二つのものが主人と奴隷であれば、そこには二つはなく、したがって「二つ一つ」が成立せず、天理に反するものとなる。
また「二つ一つ」は最近みられるような女性解放、女権拡大の思想とも異なるものである。
一見するとこれまで卑下され、存在を軽視されてきた女性が、男性と同じ権利を主張することが、男女平等であるかのように思われるが、必ずしもそうであるとはいえない。いままで認められなかった主体性、自己主張、自由が認められることは進歩にちがいないが、男女の役割、立場等を無視して、単に形式的な平等をもとめることは
行き過ぎで、天理に反すると考えられる。役割、立場の相違がなくなれば、二つではなくなり、そこでは真の救け合いは不可能となるからである。
このようにみてくると、「二つ一つ」とは、二つのものが、お互いに相手の主体性、自由、個性を認めつつ、立場の相違を無視することなく、お互いに救け合い、調和するところに「直ぐと受け取」ってもらえ、ご守護をみせていただけることを示す、われわれにとって大切な教えであることがわかる。
次に親神についてみてみよう。
本教における神観の特徴、独自性は
このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする
(一,三)
と教示されるように親なる神が直々にこの世に現われて、第一人称で人間にかたりかけていることと、人間を創造し、長の年限丹精して育ててきた元の神、実の神である点に見られるのであるが、この親なる神という点から本教独自の人間観がうまれてくる。
言うまでもなく、親の基本的課題は子供を生み、育てることにある。親なる神も、子供である人間を創造し、丹精するのであるが、最初から人間を完成されたものとして創造していないので、人間に対して実に辛抱強く成人を待ち、気長に育て守護しているのである。人間は最初は未完成な、未熟な存在として創造されているところに従来の人間観と著しく異なっている。
今日までの世界宗教の人間観は、人間を最初から完成したものとして創造し、このような人間が過ちを犯したり、罪を重ねたりしたとき、神から厳しき罰や制裁が加えられる、と考えられている。ここには神人関係は主人と奴隷のような、排他的、非寛容で無情な関係しかうまれず、本教で理想とされる神人和楽は成立しえないと言えよう。
これに対して、本教の人間観では、人間が未熟で、未完成な存在とみなされていることは、過ちや罪が見逃されることを意味しないが、そこには先述の人間観においてのような、罪が厳しく裁かれ、過ちが罰せられるという非寛容で無情な考え方はなく、たとえ過ちを犯しても、罪人あつかいするのではなく、親の心のわからない、わがままないたずらっ子とみて、気長に親心がわかるように丹精する。そこには自分で自分の過ちに気づき、それを正していくのを待ったり、またどうしてもだめなら、もう一度生まれかわらせてやり直させるような、寛容な態度があり、このような人間観に立脚することによってのみ、神人和楽、親子団欒、真の平和も実現されるのである。
にんげんもこ共かわいであろをがな
それをふもてしやんしてくれ
(十四、三四)
のお歌にうかがえるように、世界の人間が親神を親とする子供で、お互いが未完成、未成人で、親の心に近づくよう日々努力していかねばならない存在であることを認め合い、自覚することが何より必要である。
それによってすべての対立抗争や戦争の危機をはじめて避けることができるのである。
キリスト教の、生まれながらにして罪を持ち、救われがたい宿命を背負った存在であるとの人間観(この世に対して否定的態度をとらせ、この世での積極的人生観をもたらさない)や科学至上主義、マルクス主義にみられるような人間観(神の座に人間を立てようとする傲慢な人間観で、そこでは科学、イデオロギーが神格化されている)は代表的な人間観であるが、そのような人間観に立つ限り、この世における真の幸福、平和は実現されず、人間は永久に対立抗争にあえぎ、苦悩に呻吟しなければならないであろう。
世界において今求められているのは、正に親なる神なのである。