2012年6月22日金曜日

No.84  教理随想(35)  二つ一つ


 今回は前回の泥海、月日について少し検討を深め、さらに「二つ一つ」について考えてみたい。
 まず泥海については前回詳しくみたので、今回は「地天泰」の思想(『泥海古記について』蔵内数太著、三二頁)を吟味してみたい。
 
「地天泰」とは何か。これは易における逆説的な真理で、天地ではなく、地天と逆になるところに、交わりが起こり、ものが生まれることを示す思想である。

 つまり天は上にあり、地は下にあり、天地では永久に交わらないのであるが、地天となると、上にある地は下に沈み、下にある天は上に昇ろうとして、そこに交わりが生じ、ものが生まれるのである。

 ところで「地と天とをかたどりて、ふうふをこしらえ」にうかがえる思想は、まさに地天泰といえると思うが、地天とは「泥海古記」においては、泥海と月日ではない。

 薮内氏は、泥海が地で、月日が天で、そこに地天泰が成立するとみているが、前回みたように、泥海とは月日にほかならないから、泥海と月日を地と天の二つに分けることはできず、泥海と月日には地天は成立しないと思われる。

 「地と天とをかたどりて」の地と天とは、をもたりのみこと、くにとこたちのみことのお働きの一端と解しうるなら、地天とは月日それ自体において成立すると考えられる。

 前回、月日の泥海の姿は、大竜、大蛇で、大竜は天に上昇する超越性(「積極的発動性」諸井慶徳氏)が、大蛇は地をはう内在性(「受動的展開性」同氏)が象徴されていると述べたが、この超越と内在の二原理が交わり、二つ一つになることによって、人間創造へと展開していくのであり、ここに月日それ自体においての地天が成立することになると思われる。
 
「泥海古記」において「地天泰」の思想が認められるのであるが、地天は泥海と月日の間ではなく、月日それ自体において成立するものとして理解されねばならない。
 
次に月日において示されている「二つ一つ」の働きについてみてみよう。
 さておかきさげに「二つ一つが天の理」と教示されているが、これはいかなる意味であろうか。

 おかきさげをもう少しみてみると「人を救ける心は真の誠」、「誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐ受け取る直ぐ返すが一つの理」と教示されている。

 ここから考えると誠は天の理で、誠は人を救ける心であるから、「二つ一つ」は二つのものが互いに救けあって一つになることと悟れる。

 もしそうなら「二つ一つ」の論理はマルクスによって主張された唯物弁証法、対立する二つの要素の一方が他方を闘争によって否定するか、服従させる論理と異なり、真に調和、平和をもたらす論理、対立抗争にあえいでいる現代にまさに求められている論理であるといえる。

 また二つのものが救けあう以上、二つはあくまで主体性をもつものでなければならない。二つのものが主人と奴隷であれば、そこには二つはなく、したがって「二つ一つ」が成立せず、天理に反するものとなる。

 また「二つ一つ」は最近みられるような女性解放、女権拡大の思想とも異なるものである。
 一見するとこれまで卑下され、存在を軽視されてきた女性が、男性と同じ権利を主張することが、男女平等であるかのように思われるが、必ずしもそうであるとはいえない。いままで認められなかった主体性、自己主張、自由が認められることは進歩にちがいないが、男女の役割、立場等を無視して、単に形式的な平等をもとめることは
行き過ぎで、天理に反すると考えられる。役割、立場の相違がなくなれば、二つではなくなり、そこでは真の救け合いは不可能となるからである。

このようにみてくると、「二つ一つ」とは、二つのものが、お互いに相手の主体性、自由、個性を認めつつ、立場の相違を無視することなく、お互いに救け合い、調和するところに「直ぐと受け取」ってもらえ、ご守護をみせていただけることを示す、われわれにとって大切な教えであることがわかる。

 次に親神についてみてみよう。
 本教における神観の特徴、独自性は
         
         このたびハ神がをもていあらハれて
         
         なにかいさいをといてきかする
                          (一,三)
と教示されるように親なる神が直々にこの世に現われて、第一人称で人間にかたりかけていることと、人間を創造し、長の年限丹精して育ててきた元の神、実の神である点に見られるのであるが、この親なる神という点から本教独自の人間観がうまれてくる。

 言うまでもなく、親の基本的課題は子供を生み、育てることにある。親なる神も、子供である人間を創造し、丹精するのであるが、最初から人間を完成されたものとして創造していないので、人間に対して実に辛抱強く成人を待ち、気長に育て守護しているのである。人間は最初は未完成な、未熟な存在として創造されているところに従来の人間観と著しく異なっている。

 今日までの世界宗教の人間観は、人間を最初から完成したものとして創造し、このような人間が過ちを犯したり、罪を重ねたりしたとき、神から厳しき罰や制裁が加えられる、と考えられている。ここには神人関係は主人と奴隷のような、排他的、非寛容で無情な関係しかうまれず、本教で理想とされる神人和楽は成立しえないと言えよう。

 これに対して、本教の人間観では、人間が未熟で、未完成な存在とみなされていることは、過ちや罪が見逃されることを意味しないが、そこには先述の人間観においてのような、罪が厳しく裁かれ、過ちが罰せられるという非寛容で無情な考え方はなく、たとえ過ちを犯しても、罪人あつかいするのではなく、親の心のわからない、わがままないたずらっ子とみて、気長に親心がわかるように丹精する。そこには自分で自分の過ちに気づき、それを正していくのを待ったり、またどうしてもだめなら、もう一度生まれかわらせてやり直させるような、寛容な態度があり、このような人間観に立脚することによってのみ、神人和楽、親子団欒、真の平和も実現されるのである。

          にんげんもこ共かわいであろをがな
 
          それをふもてしやんしてくれ
                         (十四、三四)
のお歌にうかがえるように、世界の人間が親神を親とする子供で、お互いが未完成、未成人で、親の心に近づくよう日々努力していかねばならない存在であることを認め合い、自覚することが何より必要である。
  それによってすべての対立抗争や戦争の危機をはじめて避けることができるのである。

 キリスト教の、生まれながらにして罪を持ち、救われがたい宿命を背負った存在であるとの人間観(この世に対して否定的態度をとらせ、この世での積極的人生観をもたらさない)や科学至上主義、マルクス主義にみられるような人間観(神の座に人間を立てようとする傲慢な人間観で、そこでは科学、イデオロギーが神格化されている)は代表的な人間観であるが、そのような人間観に立つ限り、この世における真の幸福、平和は実現されず、人間は永久に対立抗争にあえぎ、苦悩に呻吟しなければならないであろう。

 世界において今求められているのは、正に親なる神なのである。

2012年6月11日月曜日

No.83 教理随想(35) 泥海と月日


 今回から「元の理」を『教典』第三章「元の理」のテキストにもとづいて、部分的、断片的に味わい、また疑問点をだしてみたいと思う。
 さて「元の理」は「この世の元初りは、どろ海であった」という、いわゆる泥海古記ではじまるのであるが、「元の理」はこの泥海古記とイコールではない。

 我々はともすると「元の理」と泥海古記と同じとみなしやすいが、「元の理」は元初まりの理一般を意味し、天上、地上、泥海の三界(たとえば親神が天にては、月日、地上にては、火、水、泥海にては大竜、大蛇でもってお姿が示されているように)に分けて説き明かされており、泥海古記はその一部に他ならないのである。

 しかし三界の中でも、泥海での話が一番詳しくされているので、まず泥海古記を吟味、検討することからはじめることにしよう。
 「この世の元初りは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」

 ここでまず疑問となるのは、そもそも泥海とは何か、という点であるが、これを文字通りに受け取ると、泥海は泥水のまじった海ということになるが、こんな浅薄な意味ではないことは言うまでもない。また泥海の中をみると、淡水、海水魚がいるので、泥海は真水か、海水のどちらであるかというような疑問もでるかもしれないが、これは無意味である。

 なぜなら泥海古記をよく読むと、人間が「五尺になったとき、海山も天地も皆出来て」とあるように、真水、海水の区別が問題となるのは、人間がほとんど現在の大きさにまで成長するようになってからであり、元初りの泥海と、海山の海とは、全く質がことなるからである。

また泥海に関して「この世の初りは、どろ海」であるなら、そのとき親神はどこにいたのか、あるいは泥海と親神の関係はどうなるのか、という疑問もわいてくるが、この問いも、泥海を具体的なイメージでとらえたり、また親神を二人の人間の姿(大竜、大蛇であってもよい)のようなものとして考えるところからでてくると言えよう。

 明治十六年本には「とろのうみに、月日りょにんいたと記されているが、このこは月日の神体が、泥海の中に座を占めていたとか、泥海が月日の居場所であったという意味ではなく泥海がそれ自体親神のお現われ、お姿であったことを示しているのである。

 月日が泥海中にいた、という誤解を生じやすい表現の真意は、親神の存在している様相が泥海であった、換言すると親神のお姿が泥海であった、ということである。

 つまり泥海は親神と同一ではないが、かといって別のものでもなく、難しく表現すると親神の自己限定(無限者で形をもたない絶対者である親神が、自己の姿を現わし,現象すること)が泥海であった、ということになる。

 おふでさき三号四〇、一三五に、
             だん~~となに事にてもこのよふわ
 
             神のからだやしやんしてみよ

という本教独特の注目すべき自然観、神観が示されているが、この「神のからだ」に一脈通じるものが泥海であると言えよう。
 
ところで親神の泥海でのお姿は、大竜、大蛇として示されているが、このお姿も、そのまま受け取るのではなく、大竜は天に上昇することから、親神の超越性(「宇宙次元的の大原理性」諸井慶徳氏)が、また大蛇は地を這うところから、親神の内在性(「この世次元的の大原理性」)が、それぞれ象徴的に表現されていると悟ることができるであろう。
 
泥海とは「原初的有、絶対無の顕現としての有、有的展開の素地としての根元有」、「画然と分かたれざる全一的な有」(『諸井慶徳著作集』第六巻一〇八頁)であり、「有と取れば有、無と悟れば無」、「そこには高さも深さもなく、底も境もない透明とも不透明ともわからぬ大玄渾沌」(同一〇七頁)で、時間、空間を超えた存在ということになる。

 荒川善廣氏は泥海が地球の原始のまだ冷めていない状態とすると、「親神の創造の仕事はこの地球上のことに限られ、宇宙開闢以来地球が誕生するまでの百数十億年もの間の出来事が不問に付されてしまう。その結果、親神の仕事はせいぜい地球上で無機物から生命体を創造したことであるときめつけられてしまう。」(『「元の理」の探求』一六〇、一六一頁)と述べている。

 泥海とはそのように理解されるので、泥海はどこに存在するのか、いつから存在するのかという類の問いも無意味になる。泥海とは親神のお姿であるから、その問いは親神はどこにいて、いつから存在するのかを問うに等しいからである。いつ、どこにという問いはあくまで有限者についてのみ意味のある問いだからである。

 ところで泥海とは現在においても存在すると言えるのではないだろうか。
 最近の宇宙について次のように説明されている。

『銀河の中には、質量をもつが光らないという、いわゆる「ダークマター(暗黒物質)が大量に存在するのである。暗黒物質の質量は莫大であり、その強い重力によって銀河など宇宙の構造形成に重要な役割を果たしてきたと考えられる。』、「宇宙は73パーセントのダークエネルギー、23パーセントのダークマターで満たされており、光る星々の質量はわずかに4パーセントであることが明らかになった。ダークエネルギーの存在は、宇宙の膨張が加速されているという実験結果から予測される。加速の原因として、斥力を与えるようなエネルギーが必要である。これは空間そのものにそなわったエネルギーと解釈できるが、それが何であるかまったくわかっていない。」(『対象性から見た物質、素粒子、宇宙』広瀬立成著 講談社239,240頁)

 次に「月日」について検討してみよう。
本教において教えられる月日とは、天上にある月、太陽それ自体を意味するのではないことは言うまでもない。もしそうなら太陰、太陽崇拝ということになり、例えばアポロの月面への探検は、神聖な場所をけがす許されざる行為になるというような荒唐無稽な議論も生じるかもしれないし、本教は原始宗教であるとの批判もうけるかもしれない。

 月日とは、くにとこたちのみこと、をもたりのみことに御名でとなえられ、月、太陽を通して、その広大無辺の働きのほんの一端を現わすところの、根本的な働きそれ自体の理をいわれているのであるが、決して独立した二神ではない。

 おふでさきにおいて常に月日という言葉で述べられているが、それは神の働きとして一体的であることを示すためである。ちょうど夫婦が二人でありながら、一体となることによって、新しき生命を誕生させ、新たに発展していくように、月日が二つの働きでありながら、統一されて、一つとなるところに、人間創造、森羅万象の生成発展が可能となるのである。

 ところで月日というと、中国の儒教哲学の陰陽の理と同じように思われるが、決して同じではない。
 陰陽哲学では、月は陰で、消極性、日は陽で積極性を示すが、本教の月日は、月が男神、日が女神として示されるように、全く反対で、男、女神は、単に積極、消極の二概念で以っては説明できない。

 男、女神は一見陰陽のようであるが、陰陽よりもむしろ物理学上のプラス、マイナスの概念によってよりよく理解されると思われる。マイナスは必ずしも消極ではなく、積極性の面ももつように、日様は月様からの積極的な働きかけに対して、単に盲目的に服従するのではなく、むしろ逆に月様に働きかけ、そこに人間創造が始められることになるのである。

2012年6月2日土曜日

No.82 教理随想(33) 「元の理」と進化論(2)


進化論という非科学的な理論によって「元の理」を基礎付けようとすることは砂の上に楼閣を建てる愚に等しく、不可能ということになる。

 では「元の理」における「虫、鳥、畜類など」の「八千八度の生れ更り」とか「めぜるが一匹だけ残った。この胎に人間が宿り」というあまりにも進化論的な記述はどのように考えたらよいのか、それらはどのような意味をもつのか、この問題を考えてみよう。

 まず「めざる」について考えると、『教典』には「めざるが一匹」となっているが、『こふき本』においては和歌体十四年本、説話体十四年本、十六年本いづれも「さるが一人」となっている。「一人」という擬人的表現によって何が意味されているのか。

『教典』において「一人」が「一匹」とかえられてあるのは、「さるが一人」というのは「元の理」を読むものが理解に苦しむからと思うが、『こふき本』に「一人」となっているということは「さる」が動物の猿ではなく、別の意味をもっているからと思われる。

 「さる」、「めざる」とは何を意味するのだろうか。
 「さる」が猿でないことは「元の理」をよく読んでみると「めざる」が出現してから「どろ海の中に高低が出来」、陸と海との区別ができていることからすぐにわかるが、「めざる」とは何かはかなり難しく、議論百出するところである。

 説話体十四年本(手元本)には「さるがいちにんのこりいる。これなるはくにさづちのみことなり」とあり、「さる」が「くにさづちのみこと」の理であることが示されているが何を意味するのであろうか。

『元の理』(深谷忠政著)には他に、「滅せざる」の意、また猿と道祖神との関係から、「人間生活発展の母胎」、「人間の原型的存在」(72頁)等の解釈があげられているが、他に別の解釈がないのかと考えるとますますわからなくなる。

 「めざる」に限らずその他の象徴的な言葉は一律的な解釈のみをゆるすのではなく「成人しだいにみえてくる」と教えられるように成人に応じて異なった解釈がなされるものであるから「めざる」についても一律的な解釈を求めたり、ある解釈を断定することは間違っているのではないか。

 しかし少なくとも次のことだけは言えると思われる。
 つまり「めざる」は猿ではないから「めざる」から人間は、決して猿から人間への進化を意味しないということである。

 ところで進化論において一番問題となるのは、はたして人間はサルから進化したのか、という点で進化論者はそれに肯定的にこたえるのであるが、サルから人間への種から種への進化は本当か、本当ならどのようにしてか、また証明されるのか、との問いには進化論者は確固とした答えをもちあわせていないように思われる。

 そもそも実験したり、事実によって証明したりすることのできない進化を、ある論者のように「種は変わるべきときがくると一斉に進化する」との突然変異の理論によって説明することは、種から種への進化について何も説明しないのに等しいのではないか。それによってサルから人間への進化を説明することは、その進化を逆に疑問視させることになるのではないか。

 サルから人間への進化が疑問視されうるなら、「めざる」から人間をどのように考えればよいのか
 「元の理」には「親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて・・・これを人間のたねとされた」とあるが、この「たね」を種と考えるなら、人間の種は、サルの種から進化したものではなく、最初から人間の種として宿しこまれ、育てられたということになるであろう。したがって「めざる」から人間は、サルの種から人間の種への進化ではなく、人間の種のある発展段階から別の段階への移行と考えられるであろう。

では「虫、鳥、畜類など」の「八千八度の生れ更り」はどのように考えればいいのか。

 これについても「めざる」と同じく、生れ更りのあとに陸、海の区別ができるので、虫、鳥、畜類をそのまま受け取ることができず、それらへの生れ更りは、人間がある時期に実際にそのような姿になったのではなく、胎児の成長段階の姿をみても分かるように、人間の種がいろいろな発展段階を経ていることや、親神の人間の種を育てる上での働きが複雑化していくこととして理解されねばならないであろう。

生れ更りのあとに陸、海の区別ができるので、虫、鳥、畜類をそのまま受け取ることができず、それらへの生れ更りは、人間がある時期に実際にそのような姿になったのではなく、胎児の成長段階の姿をみても分かるように、人間の種がいろいろな発展段階を経ていることや、親神の人間の種を育てる上での働きが複雑化していくこととして理解されねばならないであろう。

 また「めざる」、虫、鳥、畜類という具体的なわかりやすい名前が使われているのは、決して進化論を教えるためではなく、親神の人間創造の秘業が展開していく過程を誰にでもよりわかりやすくするためであり、そこに親神の御苦心、親心がしのばれるように思われる。

 ところで「八千八度の生れ更り」が種から種への進化ではなく、あくまで人間の種の展開とするなら、人間以外の種についても進化は成立しないことになるのだろうか。

 これについては私見では、人間以外の種については人間の種の展開の副産物として生じるか、あるいは人間の種とは別に最初からつくられたかのどちらかで、人間以外の種から種への進化が成立するかは、これからの科学の発展をどれほど待っても、永遠のなぞとして残り、わからないのではないかと思う。
 
『正文遺韻抄』(諸井政一著)の次のような記述はどのように考えればよいのか。
 「いきものが出世して、人間とのぼりているものが沢山ある」(153頁)
生物は、みな人間に食べられて、おいしいなあといふて、喜んでもらふで、生れ変るたび毎に、人間の方へ近うなるのやで」(155頁)

 これも一見種から種への進化とうけとれるが、これも以前に述べたように、文字通り解することができず、人間と自然との有機的なつながりを示すものと考えられるから全く参考にならないと思われる。
 
『元の理」はあくまで人間の種の展開過程を示すと悟れるが、では一見進化論的に思える記述によって何が教えられているのか。
 「元の理」はふつう、
 月日よりたん~~心つくしきり
 そのゆへなるのにんげんである
            (六,88)
に教示されている親神の人間創造の御苦労、五尺の人間に成長させるまでの御苦心、つまり過去における親神の御丹精を説くものとして理解されている。

 しかし親神とは時間を超えた永遠の現在を生きる絶対者で、人間にとっての過去も親神にとっては現在であるから、親神の過去の働きといっても、すでにないものではなく、今現在においても及んでいると考えられる。

 ということは、
 それよりも神のしゆことゆうものわ
 なみたいていな事でないぞや
          (四、125)
 これからわ神のしゆごというものハ
 なみたいていな事でないぞや
          (六,40)
に明示される「なみたいていな事でない」神の守護は、単に五尺の人間に成長させるまでの御苦労だけではなく、いま現在我々人間を生かし育てる上での御苦労でもあると解されねばならないであろう。
 
「八千八度の生れ更り」は先述したように、人間の種を育てる過程における親神の自己限定、働きの複雑化を示すものであるが、「八千八度」という無数の親神の自己限定としての働きは、とっくに過ぎ去って今はもはや無きものではなく、今においてもそのまま実在していて、我々の身の内、自然の根源として働いており、そのことを「元の理」をとおして教えられているのではないだろうか。

 おふでさきには「このよはじまり」、「このもと」、「このしんじつ」というお言葉が数多く見出されるが、これらはすべて同じ意味をもち、人間の生命の単なる歴史的な起源だけではなく、同時に今現在における超歴史的な、歴史の根拠となる人間の生命の根源を示すものでもあり、この厳然たる事実に開眼させるために、教祖は五十年のひながたの道を通られ、晩年になって「元の理」を諄々と説かれたと悟れるのである。

 いままでも今がこのよのはじまりと
 ゆうてあれどもなんの事やら
          (七,35)
というお歌は、いろいろな解釈がなされ、理解に苦しむが、「元の理」における一見進化論的な記述は、このお歌を説明するために、当時の人々に理解させるためになされたのではないだろうか。
 「元の理」の現在的な理解(今現在の生命の根源としての)が我々に求められていると思われる。