今回から「元の理」を『教典』第三章「元の理」のテキストにもとづいて、部分的、断片的に味わい、また疑問点をだしてみたいと思う。
さて「元の理」は「この世の元初りは、どろ海であった」という、いわゆる泥海古記ではじまるのであるが、「元の理」はこの泥海古記とイコールではない。
我々はともすると「元の理」と泥海古記と同じとみなしやすいが、「元の理」は元初まりの理一般を意味し、天上、地上、泥海の三界(たとえば親神が天にては、月日、地上にては、火、水、泥海にては大竜、大蛇でもってお姿が示されているように)に分けて説き明かされており、泥海古記はその一部に他ならないのである。
しかし三界の中でも、泥海での話が一番詳しくされているので、まず泥海古記を吟味、検討することからはじめることにしよう。
「この世の元初りは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」
ここでまず疑問となるのは、そもそも泥海とは何か、という点であるが、これを文字通りに受け取ると、泥海は泥水のまじった海ということになるが、こんな浅薄な意味ではないことは言うまでもない。また泥海の中をみると、淡水、海水魚がいるので、泥海は真水か、海水のどちらであるかというような疑問もでるかもしれないが、これは無意味である。
なぜなら泥海古記をよく読むと、人間が「五尺になったとき、海山も天地も皆出来て」とあるように、真水、海水の区別が問題となるのは、人間がほとんど現在の大きさにまで成長するようになってからであり、元初りの泥海と、海山の海とは、全く質がことなるからである。
また泥海に関して「この世の初りは、どろ海」であるなら、そのとき親神はどこにいたのか、あるいは泥海と親神の関係はどうなるのか、という疑問もわいてくるが、この問いも、泥海を具体的なイメージでとらえたり、また親神を二人の人間の姿(大竜、大蛇であってもよい)のようなものとして考えるところからでてくると言えよう。
明治十六年本には「とろのうみに、月日りょにんいた」と記されているが、このことは月日の神体が、泥海の中に座を占めていたとか、泥海が月日の居場所であったという意味ではなく、泥海がそれ自体、親神のお現われ、お姿であったことを示しているのである。
月日が泥海中にいた、という誤解を生じやすい表現の真意は、親神の存在している様相が泥海であった、換言すると親神のお姿が泥海であった、ということである。
つまり泥海は親神と同一ではないが、かといって別のものでもなく、難しく表現すると親神の自己限定(無限者で形をもたない絶対者である親神が、自己の姿を現わし,現象すること)が泥海であった、ということになる。
おふでさき三号四〇、一三五に、
だん~~となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ
という本教独特の注目すべき自然観、神観が示されているが、この「神のからだ」に一脈通じるものが泥海であると言えよう。
ところで親神の泥海でのお姿は、大竜、大蛇として示されているが、このお姿も、そのまま受け取るのではなく、大竜は天に上昇することから、親神の超越性(「宇宙次元的の大原理性」諸井慶徳氏)が、また大蛇は地を這うところから、親神の内在性(「この世次元的の大原理性」)が、それぞれ象徴的に表現されていると悟ることができるであろう。
泥海とは「原初的有、絶対無の顕現としての有、有的展開の素地としての根元有」、「画然と分かたれざる全一的な有」(『諸井慶徳著作集』第六巻一〇八頁)であり、「有と取れば有、無と悟れば無」、「そこには高さも深さもなく、底も境もない透明とも不透明ともわからぬ大玄渾沌」(同一〇七頁)で、時間、空間を超えた存在ということになる。
荒川善廣氏は泥海が地球の原始のまだ冷めていない状態とすると、「親神の創造の仕事はこの地球上のことに限られ、宇宙開闢以来地球が誕生するまでの百数十億年もの間の出来事が不問に付されてしまう。その結果、親神の仕事はせいぜい地球上で無機物から生命体を創造したことであるときめつけられてしまう。」(『「元の理」の探求』一六〇、一六一頁)と述べている。
泥海とはそのように理解されるので、泥海はどこに存在するのか、いつから存在するのかという類の問いも無意味になる。泥海とは親神のお姿であるから、その問いは親神はどこにいて、いつから存在するのかを問うに等しいからである。いつ、どこにという問いはあくまで有限者についてのみ意味のある問いだからである。
ところで泥海とは現在においても存在すると言えるのではないだろうか。
最近の宇宙について次のように説明されている。
『銀河の中には、質量をもつが光らないという、いわゆる「ダークマター(暗黒物質)が大量に存在するのである。暗黒物質の質量は莫大であり、その強い重力によって銀河など宇宙の構造形成に重要な役割を果たしてきたと考えられる。』、「宇宙は73パーセントのダークエネルギー、23パーセントのダークマターで満たされており、光る星々の質量はわずかに4パーセントであることが明らかになった。ダークエネルギーの存在は、宇宙の膨張が加速されているという実験結果から予測される。加速の原因として、斥力を与えるようなエネルギーが必要である。これは空間そのものにそなわったエネルギーと解釈できるが、それが何であるかまったくわかっていない。」(『対象性から見た物質、素粒子、宇宙』広瀬立成著 講談社239,240頁)
次に「月日」について検討してみよう。
本教において教えられる月日とは、天上にある月、太陽それ自体を意味するのではないことは言うまでもない。もしそうなら太陰、太陽崇拝ということになり、例えばアポロの月面への探検は、神聖な場所をけがす許されざる行為になるというような荒唐無稽な議論も生じるかもしれないし、本教は原始宗教であるとの批判もうけるかもしれない。
月日とは、くにとこたちのみこと、をもたりのみことに御名でとなえられ、月、太陽を通して、その広大無辺の働きのほんの一端を現わすところの、根本的な働きそれ自体の理をいわれているのであるが、決して独立した二神ではない。
おふでさきにおいて常に月日という言葉で述べられているが、それは神の働きとして一体的であることを示すためである。ちょうど夫婦が二人でありながら、一体となることによって、新しき生命を誕生させ、新たに発展していくように、月日が二つの働きでありながら、統一されて、一つとなるところに、人間創造、森羅万象の生成発展が可能となるのである。
ところで月日というと、中国の儒教哲学の陰陽の理と同じように思われるが、決して同じではない。
陰陽哲学では、月は陰で、消極性、日は陽で積極性を示すが、本教の月日は、月が男神、日が女神として示されるように、全く反対で、男、女神は、単に積極、消極の二概念で以っては説明できない。
男、女神は一見陰陽のようであるが、陰陽よりもむしろ物理学上のプラス、マイナスの概念によってよりよく理解されると思われる。マイナスは必ずしも消極ではなく、積極性の面ももつように、日様は月様からの積極的な働きかけに対して、単に盲目的に服従するのではなく、むしろ逆に月様に働きかけ、そこに人間創造が始められることになるのである。
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