2012年6月2日土曜日

No.82 教理随想(33) 「元の理」と進化論(2)


進化論という非科学的な理論によって「元の理」を基礎付けようとすることは砂の上に楼閣を建てる愚に等しく、不可能ということになる。

 では「元の理」における「虫、鳥、畜類など」の「八千八度の生れ更り」とか「めぜるが一匹だけ残った。この胎に人間が宿り」というあまりにも進化論的な記述はどのように考えたらよいのか、それらはどのような意味をもつのか、この問題を考えてみよう。

 まず「めざる」について考えると、『教典』には「めざるが一匹」となっているが、『こふき本』においては和歌体十四年本、説話体十四年本、十六年本いづれも「さるが一人」となっている。「一人」という擬人的表現によって何が意味されているのか。

『教典』において「一人」が「一匹」とかえられてあるのは、「さるが一人」というのは「元の理」を読むものが理解に苦しむからと思うが、『こふき本』に「一人」となっているということは「さる」が動物の猿ではなく、別の意味をもっているからと思われる。

 「さる」、「めざる」とは何を意味するのだろうか。
 「さる」が猿でないことは「元の理」をよく読んでみると「めざる」が出現してから「どろ海の中に高低が出来」、陸と海との区別ができていることからすぐにわかるが、「めざる」とは何かはかなり難しく、議論百出するところである。

 説話体十四年本(手元本)には「さるがいちにんのこりいる。これなるはくにさづちのみことなり」とあり、「さる」が「くにさづちのみこと」の理であることが示されているが何を意味するのであろうか。

『元の理』(深谷忠政著)には他に、「滅せざる」の意、また猿と道祖神との関係から、「人間生活発展の母胎」、「人間の原型的存在」(72頁)等の解釈があげられているが、他に別の解釈がないのかと考えるとますますわからなくなる。

 「めざる」に限らずその他の象徴的な言葉は一律的な解釈のみをゆるすのではなく「成人しだいにみえてくる」と教えられるように成人に応じて異なった解釈がなされるものであるから「めざる」についても一律的な解釈を求めたり、ある解釈を断定することは間違っているのではないか。

 しかし少なくとも次のことだけは言えると思われる。
 つまり「めざる」は猿ではないから「めざる」から人間は、決して猿から人間への進化を意味しないということである。

 ところで進化論において一番問題となるのは、はたして人間はサルから進化したのか、という点で進化論者はそれに肯定的にこたえるのであるが、サルから人間への種から種への進化は本当か、本当ならどのようにしてか、また証明されるのか、との問いには進化論者は確固とした答えをもちあわせていないように思われる。

 そもそも実験したり、事実によって証明したりすることのできない進化を、ある論者のように「種は変わるべきときがくると一斉に進化する」との突然変異の理論によって説明することは、種から種への進化について何も説明しないのに等しいのではないか。それによってサルから人間への進化を説明することは、その進化を逆に疑問視させることになるのではないか。

 サルから人間への進化が疑問視されうるなら、「めざる」から人間をどのように考えればよいのか
 「元の理」には「親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて・・・これを人間のたねとされた」とあるが、この「たね」を種と考えるなら、人間の種は、サルの種から進化したものではなく、最初から人間の種として宿しこまれ、育てられたということになるであろう。したがって「めざる」から人間は、サルの種から人間の種への進化ではなく、人間の種のある発展段階から別の段階への移行と考えられるであろう。

では「虫、鳥、畜類など」の「八千八度の生れ更り」はどのように考えればいいのか。

 これについても「めざる」と同じく、生れ更りのあとに陸、海の区別ができるので、虫、鳥、畜類をそのまま受け取ることができず、それらへの生れ更りは、人間がある時期に実際にそのような姿になったのではなく、胎児の成長段階の姿をみても分かるように、人間の種がいろいろな発展段階を経ていることや、親神の人間の種を育てる上での働きが複雑化していくこととして理解されねばならないであろう。

生れ更りのあとに陸、海の区別ができるので、虫、鳥、畜類をそのまま受け取ることができず、それらへの生れ更りは、人間がある時期に実際にそのような姿になったのではなく、胎児の成長段階の姿をみても分かるように、人間の種がいろいろな発展段階を経ていることや、親神の人間の種を育てる上での働きが複雑化していくこととして理解されねばならないであろう。

 また「めざる」、虫、鳥、畜類という具体的なわかりやすい名前が使われているのは、決して進化論を教えるためではなく、親神の人間創造の秘業が展開していく過程を誰にでもよりわかりやすくするためであり、そこに親神の御苦心、親心がしのばれるように思われる。

 ところで「八千八度の生れ更り」が種から種への進化ではなく、あくまで人間の種の展開とするなら、人間以外の種についても進化は成立しないことになるのだろうか。

 これについては私見では、人間以外の種については人間の種の展開の副産物として生じるか、あるいは人間の種とは別に最初からつくられたかのどちらかで、人間以外の種から種への進化が成立するかは、これからの科学の発展をどれほど待っても、永遠のなぞとして残り、わからないのではないかと思う。
 
『正文遺韻抄』(諸井政一著)の次のような記述はどのように考えればよいのか。
 「いきものが出世して、人間とのぼりているものが沢山ある」(153頁)
生物は、みな人間に食べられて、おいしいなあといふて、喜んでもらふで、生れ変るたび毎に、人間の方へ近うなるのやで」(155頁)

 これも一見種から種への進化とうけとれるが、これも以前に述べたように、文字通り解することができず、人間と自然との有機的なつながりを示すものと考えられるから全く参考にならないと思われる。
 
『元の理」はあくまで人間の種の展開過程を示すと悟れるが、では一見進化論的に思える記述によって何が教えられているのか。
 「元の理」はふつう、
 月日よりたん~~心つくしきり
 そのゆへなるのにんげんである
            (六,88)
に教示されている親神の人間創造の御苦労、五尺の人間に成長させるまでの御苦心、つまり過去における親神の御丹精を説くものとして理解されている。

 しかし親神とは時間を超えた永遠の現在を生きる絶対者で、人間にとっての過去も親神にとっては現在であるから、親神の過去の働きといっても、すでにないものではなく、今現在においても及んでいると考えられる。

 ということは、
 それよりも神のしゆことゆうものわ
 なみたいていな事でないぞや
          (四、125)
 これからわ神のしゆごというものハ
 なみたいていな事でないぞや
          (六,40)
に明示される「なみたいていな事でない」神の守護は、単に五尺の人間に成長させるまでの御苦労だけではなく、いま現在我々人間を生かし育てる上での御苦労でもあると解されねばならないであろう。
 
「八千八度の生れ更り」は先述したように、人間の種を育てる過程における親神の自己限定、働きの複雑化を示すものであるが、「八千八度」という無数の親神の自己限定としての働きは、とっくに過ぎ去って今はもはや無きものではなく、今においてもそのまま実在していて、我々の身の内、自然の根源として働いており、そのことを「元の理」をとおして教えられているのではないだろうか。

 おふでさきには「このよはじまり」、「このもと」、「このしんじつ」というお言葉が数多く見出されるが、これらはすべて同じ意味をもち、人間の生命の単なる歴史的な起源だけではなく、同時に今現在における超歴史的な、歴史の根拠となる人間の生命の根源を示すものでもあり、この厳然たる事実に開眼させるために、教祖は五十年のひながたの道を通られ、晩年になって「元の理」を諄々と説かれたと悟れるのである。

 いままでも今がこのよのはじまりと
 ゆうてあれどもなんの事やら
          (七,35)
というお歌は、いろいろな解釈がなされ、理解に苦しむが、「元の理」における一見進化論的な記述は、このお歌を説明するために、当時の人々に理解させるためになされたのではないだろうか。
 「元の理」の現在的な理解(今現在の生命の根源としての)が我々に求められていると思われる。

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