2013年11月17日日曜日

No.96 教理随想(47) 三つの宝

   三つの宝
教祖は、ある時飯降伊蔵さんに、掌を広げさせ、籾を三粒お持ちになって、
『これは朝起き、これは正直、これは働きやで。』と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、 『この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。』と、仰せられた。」(『逸話篇』二九)
 
教祖は人間生活の指針、生活倫理として、「朝起き、正直、働き」を教示されています。「朝起き」と「働き」について考えてみましょう。
「朝起き千両」、「朝起きは七つの徳」という諺がありますが、教祖はこのような常識的功利的な意味だけではなく、心身にとってもっと大切なことを教えられていると悟れます。
 
最近の脳科学による眠りや生体時計の研究をみてみましょう。
人間の体には自律神経、体温、睡眠、覚醒を司る各種のホルモンなど、およそ一日の周期で変化する様々な生理現象があって、そのリズムはすべて脳にある生体時計からの命令で刻まれています。
人間の生体時計は両目の奥にある視床下部の視交又上核と呼ばれる部分にあります。この生体時計の一日は二十四時間より約三十分長くなっています。

従って睡眠覚醒のリズムは地球時間より毎日三十分づつ遅れていきますので、二十四日目になると、体の一日のリズムが昼夜が逆転し、昼に体がいちばん不活発な状態になるということも起こります。

しかしふだんこういうことがなく、地球時間と歩調をあわせて生活することができます。これは生体時計の周期を地球の周期にリセット(同調)させる因子があって、中でも朝の光による同調作用が効果的で、脳の視交又上核が毎朝光を認識することによって、生体のリズムを二十四時間になるようにリセットしています。
 
生命システムの動的協力性の解明を目指す、生物学者の清水博氏は次のように述べています。
 生命科学における「引き込み現象」とは異なるリズム同士が自発的にシンクロナイズする現象であり、同じリズム同士がそうなる共鳴現象と区別されている。」

「本質的には共鳴は同じ振動数をもつ振動系が同期する現象ですが、引き込みは二つの基本振動数が異なっていても、その振動数を互いに合わせるように変更して同期化してしまう現象です。動物のもつ体内時計のリズムが、日周期の変化に引き込まれて変化するのも一種の引き込みです。このように引き込みは我々の体内でも、いろいろな生命現象に関連して起きており、生理的にみても非常に意義ある現象として知られています。」(『モダンの脱構築』今田高俊著、中公新書93、94頁)

夜ふかしの生活では朝より夜に自然光でない光を浴びることになり、生体時計の周期を長くし、二十五、六時間になり、このズレが夜ふかしをつづけると拡大していき、修正できないようになります。

これが「内的脱同調」とよばれる慢性の時差ぼけ状態で自律神経失調症の一つである起立性調節生涯(起き上がると血圧が急に下る)、慢性疲労、抑うつ、活力消耗等の症状となっていきます。
 
又朝の光には心を穏やかにする神経伝達物質であるセロトニンの働きを高める作用もあります。この物質は脳内の神経活動の微妙なバランスを保ち、これが不足すると精神が不安定になり、人間関係がうまくいかなくなってくることがわかってきています。 

人間は当り前のこと思われるかもしれませんが、朝日を浴び、昼夜は働いたり、活動したりして、夜はゆっくり休むときに持てる能力を最大限に発揮できるように守護されているわけです。 

次に「働き」について考えてみましょう。「働く手は」で働く意味について述べましたので、今回はそれを補足して別の観点から考えてみます。
 
これまでの労働観において働くことは生きるための単なる手段、生活の糧を手に入れるためにやむをえずしなければならないことや義務とみなされ、働かざる者にマイナスの評価が与えられてきました。

これに対して教祖は「人間というものは働きにこの世に出てきたのや」と仰せられたと聞かして頂きますが、このお言葉は人間は働かずにおれない存在で、働くことは生きることと離れず結びついている人間の本性であることを教えられていると悟ることができます。

「働く手は」において「人間にとって他者から承認されることは、ほとんど本能的ともいえる根源的な欲求である」という仮説を紹介しましたが、その欲求とともに、人間には贈与に対してお返し、お礼をせずにおれないという本能的ともいえる欲求があるのではないでしょうか。
 
          人のものかりたるならばりかいるで 
          はやくへんさいれゑをゆうなり
             ( 三、28
 このお歌は他人に物を借りたなら利子をつけて御礼を言い、早く返済するようにという常識的な意味の奥に、人の物でも借りたなら利がいる、まして神からの借り物となると、どれだけの利がいるか思案してみよ、という意味があると考えられます。
 
人間の身体は親神からの借り物で、それは親神の見返りを求めない絶対的な無限の価値をもつ贈与であると悟りますと、感謝の気持ちが生じ、恩義に感じてお返しせずにおれなくなる、このことが「働き」、働くことの根本にあるのではないでしょうか。
 
昨今、世界金融危機、世界同時不況によって、労働環境が悪化し、働くことについての、ひいては生きることそのものについてのシニシズム(物事を正面から立ち向かおうとするのを冷笑する考え方)が人々のあいだにしのび寄ってきているように感じられます。

はたらくのは所詮金のためにすぎず、要領のいいやつが勝組となって得をする、正直者は馬鹿をみる社会になっている、つまり働くことが生きがいとならないと感じる若者が増加してきています。 

この根本原因として、借り物を自分の意のままに処分できる自分の所有物であり、働くことは生きるための単なる手段にすぎないとの考え方や社会における生産至上主義、能力主義、成果主義が考えられます。
 
本教では「身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。」(M2261)と教示されています。
 これは身体は親神からの借り物で、人間に所有権はなく、使用権しかないことと「我が理」として許されています心(自我を含む一切の精神現象)は借り物である身体、いのちに支えられて成立することを意味していると悟ることができます。

私のいのちは借り物の身体に宿りますが、それは又親のいのちによって授けられたものでもあります。又社会のいろいろな人のいのちや世界の国々の人々のいのちの営み・働きによっても支えられ、食物(動植物のいのち)をはじめとするいろいろなものによって維持されています。
 
それらのお金には換えることのできないいのちの営み・働きによって私が支えられている、また心を使うことができると悟りますと、心の使い方も自ずと制限され、それらのいのちの贈与に対するお礼の心づかい、働きとなってくるのではないでしょうか。
 
この報恩としての働きにおいては、職業に貴賎はなく、たとえ家事労働であっても、報恩の心でなされる限り、尊いということになります。
 
最後に働きに伴います与えについてのおさしづを紹介します。

「十分楽しませてある。不自由さしてない。この理しあんせにゃわかりやせん。」                                  (M35,3,14

「これまで年限相応の楽しみは皆つけてある。」(M32,2,2

「めん~~年々のあたゑ、薄きは天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという。」                     (M21918

「あたゑというは、どうしてくれこうしてくれと言わいでも、皆出来て来る。天よりの理で出来て来る。」                (M261128

「欲しいと言うてあたゑはあろうまい。心にたんのう持たねばなろうまい。」
                (M24520

「渡世商売という~~~、一時には良いように思う。(中略)数々商法中にせいでもよいものもある。よう聞き分け。せいでもあたゑ、ならん事すれば理を添えて後へ返える。」
               (M31629
 
格差社会といわれ、与えに関して不平等にみえる現実は確かにありますが、これについては「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け。」(M25113)とのお言葉を心に治めたいものです。


2013年9月18日水曜日

No.95 教理随想(46) 宮池の問題

「或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよ~~となると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、『短気を出すやない~~~』と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果せなかった」
(『稿本天理教教祖伝』31ページ)
 
これは、教祖が月日のやしろとなられてからごく最初のころの出来事で、晩年の御苦労とともに、教話などに多く引用され、聞く者の共感と涙を誘いましたが、これの解釈については、大別して次の二つが考えられます。
 
第一は教祖成人論、つまり、教祖は月日のやしろとなられたときは、まだ人間性、人間としての心を残していて、明治七年に赤衣を召されるようになって初めて親神様の御心と一つになられたという見方に立つものです。復元経典が出される以前においてよくみられたもので、『正文遺韻抄』に、次のように記されています。

「実に恐れ多い事ながら、御教祖様のけなげなる丈夫の御心でありてすら、遂に三度までも、井戸ばたへ御たちなされたのであります。三度溜池へはまらうとなされたのであります。こゝまで御決心を被遊、六度までも身を殺してと思召し立ちたまふその御心中の御せつなさ、いかがでござりませう」(38ページ)

 親神様の思召と周囲の者、とりわけ夫善兵衞様の思いの間に立って苦悩される教祖のお姿に限りない共感を寄せ、多くの人は涙するとともに、神の道を求める厳しさに心を引き締めたわけですが、この解釈は二代真柱様の教祖論からは成立しないもので、人間としての教祖の側面が強調され、本来の「月日のやしろ」としてのお姿が歪められることになります。

 これに対して第二の解釈は、教祖は立教以来一貫して神性をもたれ、人間性、人間心は一切ないという見方に基づくものです。しかしそれでは、常に親神様の御心で判断され、行動されたと考えられますので、ひながたとしての身投げ、私たちにとっての身投げの意味が分からなくなります。

 教祖は月日のやしろとして、親神様の思召を啓示された教えの親であられるとともに、人間救済の先頭にお立ちくだされ、私たちを導かれるひながたの親でもあられます。「人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された」(『稿本天理教教祖伝』30ページ)と教えられています。

しかし身投げはどのように考えても「苦難に処する道」の一つとして、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」というジレンマに立たされたときの、取るべき行動とは思われません。苦難からの単なる逃避になってしまいます。また、教祖が私たちのために演技、芝居をされたとはとても思えません。

 宮池の問題は、私たちにとってのひながたにならないのであれば、それをどのように考えればいいのでしょうか。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』一八五「どこい働きに」に、次のように記されています。
「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも必ず思うな」

 これは明治十九年三月、教祖が櫟本分署からお帰りになられて、しばらくしてから仰せられたお言葉ですが、ここにヒントがあるように思います。

「起きてるというと、その働きの邪魔になる」とは、教祖は現身のままで「存命の理」としてのお働き(御魂だけのお働き。『逸話篇』四四、八八参照)があられ、現身はそのお働きの妨げとなるもので、教祖はお寝みになられている時も「存命の理」としてのお働きをされていた、と考えられないでしょうか。

 荒川善廣氏の月日のやしろの解釈(『「元の理」の探究』)を見てみましょう。
氏は、魂とは心身現象の生起する場所、容器と考え、「やしろ」とは教祖の身体ではなく魂であり、身体は「やしろの扉」に相当すると考えています。

 従って、教祖は「やしろの扉」を開かれる、つまり現身をかくされることによって、「月日のやしろ」としてのお働きは身体的制約を脱して、完全な生動性を全宇宙的な広がりにおいて発揮される、とみなされます。

 このように考えますと、宮池の問題は、あくまで月日のやしろとしての立場で推測しますと、教祖は月日のやしろとなられてすぐに「存命の理」としてのお働きを持たれており、身投げによって、身体的制約を脱せられ、月日のやしろから、いきなり「存命の理」としての教祖におなりになろうとされ、それを親神様から「短気を出すやない」と引き止められたのではないでしょうか。

 もしその時、現身をかくされていますと、ひながたの親としての五十年の道中とともに「存命の理」としての教祖のお働きも、私たち人間に教えられることがないことになります。

 荒川氏は、ひながたの五十年について次のような見解を示しています。
「教祖が『ひながたの親』として通られた五十年間は、単に言葉を介して人々の記憶にとどめられているだけでなく、たとえ意識されずとも、客体的不滅性として、後続の人々がそこから新たな経験を生み出すための実在的基盤を成している」(前掲書111ページ)

 つまり、「たすけ一条の台」としてのひながた五十年と悟れますが、これも結局は宮池の問題を前提にして、初めて成立してくるのではないかと悟れます。


2013年7月5日金曜日

No.94 教理随想(45) 最後の御苦労(2)

教祖の最後の御苦労を打擲説を肯定して、イエスの十字架の磔刑と重ねて見る見方もありますが、言語道断というほかありません。
 
イエスの磔刑の様子については、『マタイ伝』二七章に詳細に記されていますが、イエスはユダヤ人の王として、ユダヤ教の正統派であるパリサイ派、サドカイ派の反感を買い、ローマ帝国の支配下にあったパレスチナの地に政治的危険をもたらす人物と映り、約二年間の伝道はローマの国法にふれるものとみなされ、政治犯としてエルサレム門外のゴルゴタの丘で処刑されたわけです。また直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお捨てになったのですか)と叫んだと言われています。

イエスを「神の子」であるとする信仰は、イエスが死後三日後に霊的に蘇り、それを信じた弟子たちの間にはじめて芽生え、弟子のパウロを中心にして、イエスはキリスト(救世主)であるとの信仰が確立されるようになります。イエスは自らをキリスト教の開祖であると決して認めていなかったわけであります。
 
ところで打擲説の認否にかかわらず、教祖は三十年来の寒さの中、お休みのときは「上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被り、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれ、分署から支給されるものは何一つ召し上がられず、梶本家からの鉄瓶に入れた白湯のみをお飲みになられておられたためか、分署から帰られてから連日お寝みになられていることが多かったようです。

また「耳は聞こえず、目はとんと見えず、という状態であった」(『根のある花、山田伊八郎』八一頁)と記されていますが、これをどのように受け取ればいいのでしょうか。
 
『教祖伝』に教祖の御苦労については「親神が連れて行くのや」、「皆、親神のする事や」、「とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや」(二九〇頁)と記されています。ということは教祖の御身が不自由になられたのも、親神のされることとなります。

『おふでさき講義』に「十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ」(三、73)は明治二十年に教祖が現身をかくされる御予言である、と説明されています。おふでさき第三号は明治七年一月より書かれたもので、この年十一月大和神社での祭神問答をきっかけにして、十二月に山村御殿への御苦労が始まります。
 
そして十二月二十六日に四名の者に身上だすけのさづけが渡されます。さづけは「存命の理」に基づくことを考えますと、教祖は現身をもたれたままで、身体的制約のため不十分ではありますが、「存命の理」としてのお働きを具体的な目に見える形で示され始めたと悟れるのではないでしょうか。
 
従って分署から帰られて十二日目の三月十二日のお言葉、「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな」(『逸話篇』一八五)の「その働き」とは「存命の理」としてのお働きで、現身をもたれていることによって、制約されない自由なお働きができないと考えることができます。

また分署からお帰りになられた三月一日は陰暦の正月二十六日で、それからちょうど一年後に教祖は「やしろの扉」を開かれ現身をかくされますが、その一年間につとめの急き込みとともに、「存命の理」の信仰を確立するための教祖のさらなる御苦労が続けられることになる、と悟らせて頂けるのではないでしょうか。
 
最後の御苦労を通して教えられますことは、「蝉の抜け殻」(『おふでさき注釈』170頁、教祖は小寒様の出直しに際して、「お前は何処へも行くのやない。せみの抜けがらも同じ事、魂はこの屋敷に留まっている。またこの屋敷に生まれ帰って来るのやで。」と、さながら生ける人に物言う如く微笑やかに仰せられたという。)同然の分署を訪れ、そこでの御苦労を涙ながらにしのび、たすけ一条の決意をするという皮相的なことではなく、私たち子供の成人の鈍さゆえに、教祖のその御苦労が百十五歳の定命を二十五年縮められ現身をかくされる遠因となったことへのおわびと、たすけ一条の根拠であります、ぢばを中心とする神一条の信仰、「存命の理」への信仰、「元の理」によって教えられます生命の根源への思慕、つとめ一条の信仰を改めて問い直すことで、それによって真のたすけ一条の心定めができるのではないかと思われます。








2013年6月11日火曜日

No.93 教理随想(44)  最後の御苦労(1)

     最後の御苦労 

「この冬は,三十年来の寒さであったというのに、八十九才の高齢の御身を以て、冷たい板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である。」(『教祖伝』二九一頁)

 教祖は明治十九年二月十八日から三月一日までの十二日間、櫟本分署にて最後の御苦労を下されます。

拘留の理由は心勇組(敷島の前身)の講中が門前の村田長平方の二階でてをどりをしたためと考えられていますが、それは契機でありまして直接的には『御守の中に入れたる文字記してある「キレ」出でしより、其品を証拠として教祖様及び真之亮を引致したり。桝井と仲田ハ屋敷に居りし故引致せらる。』(『ひとことはなし』二三三頁)からわかりますように、「御守り」の交付の責任の所在に関わるものです。

明治十七年八月十八日から十二日間の御苦労の拘引理由と同じで、「違警罪第一条第九項」の違反であります。「神官、僧侶ニアラズシテ他人ノ為メニ加持祈祷ヲナシ、又ハ守礼ノ類ヲ配授シタル者」に当たるとみなされたわけです。

また次のような見方もあります。
『教祖に対する告発は不敬罪でもなく、また菊の紋を使ったことに対するものでもなく、違警罪第四二七条の十二、すなわち「妄ニ吉凶禍福ヲ説き、または祈祷符咒ヲ為シ人ヲ惑ハシテ利ヲ図ル者」に対する処罰で、これを犯したときは「一日以上三日以下ノ拘留ニ処シ又ハ二十銭以上二円二十五銭以下ノ科料ニ処」されるのが普通であるのに、教祖の場合はこの規定をはるかに越える十二日間という拘留を課している。それは旧刑法の再犯加重ないし併合罪を適応したからである。いずれにしても適応した刑は違警罪であり、決して不敬罪でも重罪でもない。』(『お道の弁証』飯田照明著533~534頁)

違警罪とは明治刑法(明治十五年施行)では重罪、軽罪の下の一番軽いもの、拘留、科料に処せられるもので、教祖の場合は政治犯では決してありません。

従って明治十九年頃は、軍国主義が大いに宣伝されていたので、その時代に世界一列兄弟、たすけ合いなどと説く人間は、政治犯とみなされたり、重罪人とみなされるというようなことは、考えられません。

大日本帝国憲法制定は一八八九年(明治22年)で、ここではじめて天皇が神聖にして不可侵という国家神道における立場が明確にされることになりますが、それまでは明治政府の宗教政策は二転三転していて、各宗教は自主的な教化活動を行うことが認められていたようです。(『国家・個人・宗教』稲垣久和著 講談社現代新書31頁)

本教への本格的な弾圧がはじまりますのは、明治二九年教祖十年祭が執行されました翌月の内務省秘密訓令甲第12号が発布されて以降のことであります。

重罪人ということは「不敬罪」つまり天皇を尊敬しない罪で、教祖にとっては一列兄弟で、天皇も普通の人間も親神の子として平等ですから、この教えから直ぐに、天皇を無視している、軽視している、だから「不敬罪」である、というのはあまりにも短絡視した浅はかな見方ということになります。

「神聖にして不可侵」という天皇の立場は、明治二十二年に制定される帝国憲法以降のことで、それまでは時の政府も「不敬罪」を振り回すことはできなかったので、明治十九年の時点で「不敬罪」を当てはめることは論外ということになります。

伊藤之雄氏は「明治天皇については、第一次大戦を経て、国民に不安感が広がった1920年代、英雄を求める機運もあったことから神格化されている。」(『明治天皇』ミネルヴァ書房)と述べています。

明治四十三年(教祖が現身をかくされてから二十三年、教祖が現身をもたれていますと百十三才の年)に大逆事件がおこります。これは社会主義者の幸徳秋水をはじめとする十二名が天皇暗殺未遂の疑いをかけられ、天皇の名で処刑される事件です。このときは「大逆罪」が適用されます。

この事件は後に検事の手による冤罪であることが証明されますが、この時には、社会主義のイデオロギーを少し主張するだけで、不敬と見なされ、逮捕されたり、処刑されるというようなことが起こっていましたが、明治十九年の時点では、このようなことは全く考えられません。
 
しかし問題は違警罪の教祖が官憲から拷問をうけたか否かで、肯定否定の見方があります。辻忠作さんは次のように記しています。
「其時さし入にゆき居るに巡査が教祖様を無暗に打ちょふちゃくすること甚だ敷く誠に見るも涙の種思ふもかしこきこと事にぞある後三月中ごろから中田儀三郎煩ひとなり五月末に死去なりました」(『復元』第三一号、四十頁)

仲田儀三郎さん(当時五六歳)の死去が、改宗をせまる折檻によるものかどうかはわかりません。
しかし教祖への打擲については事実かどうかは疑わしく、忠作さんが差し入れ(これも不確実)にいって、そのような現場を見ることなど考えられません。分署に入ることすら自由にできず、分署の中の様子は、教祖に昼夜の別なくお側に仕えられた、ひさ様に差し入れられた弁当箱のタブレットを通してしか知ることができなかったようです。

またひさ様の書き残されたものの中には、忠作さんの名前は全く見当たりません。一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています。
 
ひさ様は教祖が井戸水を浴びせられたという風説を聞くたびに、『「老母様には一寸だって水なんかかけさせなかった」とさながら自分が咎められているかの様に、力説いたされました』(『ひとことはなし』二四六頁)とも記されています。
 
教祖にはひさ様が付き添われますが、付き添いをゆるされ、夜具類は何一つ与えられない中、座布団を二枚持ち込められたのも、「其真の心(ひさ様の)ニ署長初ぢゅんさもみな~~かんじて、おひさ様のゆふ事ハみな~~ゆるしてくれたる事であり升」(『静かなる炎の人』一二二頁)と記されていますように、警察側に教祖の御健康を気遣い、配慮があったためと考えられます。
 

2013年4月10日水曜日

No.92  教理随想(43)  自由自在について


 今回は本教における自由、自由自在について検討してみよう。
 さて自由の問題は、古くて新しい問題で、様々な人々によって種々の立場から論じられているのであるが、一般的には次のように理解されている。

 自由とは「広義には存在物が、外的あるいは内的な力の強制や拘束や妨害なしに、その本性あるいはその意志にしたがって働きうること。物体の自由落下から人間の自由意志まで含めていう。より狭義には、行動の自由と意思決定の自由に分けられる」(『現代哲学事典』講談社)と考えられ、行動の自由はさらに細かく、身体の自由や衝動や狂気に支配されず、良心にかなった行動をする倫理的自由(カントに代表される自由で、自由とはミズカラニ由ル、つまり自律で、各自に内在する道徳法則に従うことと考えられている)。また結社集会、思想表現、信仰の自由等に分けられ、原則としてこれらの自由の実現がよりよきものとして目指されている。

 これについては自由実現の手段、実現の程度の差などが問題にされるにすぎず、常識的に理解しうるといえよう。
 しかし意志決定の自由となると、複雑でいろいろ論議をよぶことになる。
 
なぜなら選択における人間の意思決定、例えば結婚相手を誰にするかはあくまで自由で、何にも依存しない、否因縁によって、自分が決定する前にすでに決定している、選ぶのではなく、選ばされる、とも考えることができるからである。また何にも拘束されず自由に振舞っていると思っていても、単に目に見えない運命のようなものに操られているにすぎないとも考えうるからである。

 このように考えると、意思決定の自由はあるのか否か、極めて難しい問題になってくる。

 最近の脳科学の研究によると、次のような
興味深い研究結果が報告されている。
 例えば水を飲もうと思って、コップのほうに手をだそうとすると、そう思う0.5秒前に、水を飲む行動に対して、脳はすでに動きだしている。「水を飲もう」という意識は、「無意識である」脳機能の後追いなのである。(養老孟司著『無思想の発見』ちくま新書)

これが本当だとすると、人間の自由、意志とは何か、はたして存在するのか、改めて考えさせられる。

 哲学者ヘーゲルは意志の自由について次のように述べている。
 意志の自由とは単なる恣意、つまり偶然性の形式のうちにある自由、他から強制されないで自ら進んで選ぶという選択の自由にほかならない。自分が選択の自由によって選んだのだから、自由で最も主体性を発揮しているように見えても、それを選択したその根拠になるものは多かれ少なかれ外部の事情に基づいている。したがって本来の内容のある自由ではなく、たんなる形式的な自由にすぎない。

 これについては教理から考えると、心の自由は許されているので、選択は何にも依存しないように思われるが、心のほこり、いんねん、つまり過去の心使い、通り方によって拘束されている、従って自由ではないということになる。

 結婚相手を例にして考えると、誰を選ぶか、その選択肢はすでに決まっているが、その中から誰を選ぶかの選択の自由は残されている。しかし結婚の旬がきているときは、その余地はなく、選ばされることになるのではないだろうか。

 原典において自由、自由自在はどのように教示されているのであろうか。

 おふでさきには「ぢゆよ」、「ぢゆよじざい」が数多く散見されるが、これらはあくまでも神の立場からのものであるので、ここでは触れないでおくことにする。

 人間の立場からの自由、自由自在についてみてみよう。
 『正文遺韻抄』(諸井政一著)に次のように記されている。

「めいめいのおもふやうに、ばかりはいかんといふが、これが一ツのふそくである。そのふそくをないやふに、おもい通り、おもわくどほりかなへてやったら、それで十分やろ。このたびは、ここの一ツをおしへる道である」(一九一頁)ここから「おもひ通り、おもわくどほり」に成ってくることが、「ぢうよじざい」であると思われやすいのであるが、はたしてそうであろうか。

 松本滋氏は、そのように「ぢうよじざい」を解して、それを「身上の自由」と「思いの自由」(自分の思い通りになってくること)に分けて考察している。(『これからの人間の生き方』一八五頁)

 「身上の自由」については問題はないが、「思いの自由」については少し議論の余地があるのではないだろうか。

 『論語』において孔子は「七十にして心の欲する所に従いて矩(規範)をこえず」と述べているが、これと「思いの自由」とは同じように考えることはできないと思われる。「思いの自由」においては「矩」は対立するものではありえず、それを超越しているからである。

 では「思いの自由」はどのように考えられるのか。
 なるほど親神は人間に「病まず死なず弱らん」の「百十五才定命」という「めづらしたすけ」を約束されているので、それが実現すると「思いの自由」がかなうかもしれないが、そこにおいてはもはや欲、高慢に代表されるほこりは一切ないのであるから、「思い」も親神の「思い」から離れたものではありえない。

したがって自由自在といっても、思うことがそのまま何でも実現するというようなものではなく、また神の「思い」があくまで先行するのであるから、「思いの自由」とはむしろ「成ってくる理」を喜び、楽しむ自由であり、それが「ぢうよじざい」になるのではないだろうか。
「自由自在は、何処にあると思うな。めんめんの心、常々に誠あるのが、自由自在という」
         (M21,12,7
「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」(おかきさげ)

 これらのお言葉から「誠」の心に自由、自由自在があり、「誠」の心の持主が「成程の人」であることがわかるが、この「成程の人」とは、「思いの自由」を実現する人というよりも、「成ってくる理」を楽しめる人であると思われる。

 なぜならば「たんのうが誠。心に誠さい定めば、自由自在と言うて置こう」(補遺M21,5
からわかるように「誠」は、「たんのう」で「成ってくる理」を楽しむことであるからである。

 次に「誠」がなぜ「自由自在」となるのか、を考えてみよう。
 まず教祖のひながたにおける「自由自在」の具体例をみてみよう。

 教祖は明治七年から十九年の間に警察、獄舎へ何度も御苦労下されていますが、常に平静であられるのみならず、高山へのにをいがけの機会として勇んで出かけられています。また獄舎においても、我が家で孫と遊んでおられる気分で、退屈そうな巡査にお菓子を与えようとされたり等、環境の影響を全く受けられず、自由の世界におられますが、このようなことはなぜ可能であろうか。

 ある人は、教祖は生き神様であられたので、できたのであって、我々凡人には到底まねはできず、不可能であるというかもしれない。

 しかしもしそうなら、あの御足跡は教祖のみのもので、我々にとってのひながたにはならないことになってしまう。
 教祖が「ひながたの道を通らねばひながた要らん」といわれるからには、それは我々にとっても可能であるはずである。ではどうすれば可能になるのか。

「これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん~~事情の理に治め」(おかきさげ)

 このお言葉は「運び尽し」は、人のためではなく、自分のためにしていると思え、と解されている。しかしこれは単に「運び尽し」に対してのみならず、すべてのことにも妥当するのではないか。

 教祖は世界だすけのために、貧のどん底におちきられ、人から笑われ、そしられながら、やむにやまれん御心で御苦労下されたのも、教祖は人類の母親であられ、世界だすけを我が身、我が家のことと思われたからこそであり、それゆえに先述のような自由自在の境地が可能となったのではないだろうか。

 このように考えるとき、我々が自由自在になれないのは、すべての御用、「成ってくる理」を我が事として受け取れないからということになる。

「運び尽し」が教会、会長のため、人救けが他人のため、とみなされるから、御礼を言ってもらえない、思うようにご守護をいただけない、見返りがない等の不足がでてくるのであって、「運び尽し」は自分のため、人救けは、自分の子、兄弟、身内のたすけで、なんとかせずにおれない、放っておけないと思えるとき、そのような不足はなくなるのではないだろうか。

このように考えるとき、「誠」が自由自在であるのは、「誠」が親心にほかならず、そこには自分と他人という対立はなく、親子、兄弟、身内のような関係しかないからである。

自由自在とは、自分の思い通りになってくるというよりも、「自分に由って、自分に在る」(随処に主となれば立処皆真なり『臨済録』)
という意味で、全てのことを「内々事情の理、めん~~事情の理に治め」ること、つまり「誠」によって成立するのであり、この「誠」に少しでも近づくことが今我々に焦眉の課題として求められているのである。

 したがってこの自由自在は、我々にとっての成人の目標でもある、ということができる。

2013年2月22日金曜日

No.91  教理随想(42)  「にほん」と「から」(2)


先に産みおろしの順序について、最初、次を「にほん」、「から」に当てはめることはわれわれにとって余り意味がない、と述べたが、このことは産みおろしの順序、区別に意味がないということでは決してない。

 ではその意味とは何か。
松本滋氏は、その意味を長子、末子と解して、日本人長子論を説いているが、そのように理解するとき、どうしても民族主義的になってしまい、親神の思いに反するようになってしまう。

 なるほど七十五日かかった産みおろしの時間的順序は、長子、末子をすぐに連想させるが、産みおろしの時点においては、まだ泥海で日月、天地の区別すらないのであるから、現代のような時間は成立していなかったのではないか。もしそうなら七十五日というのは、実数ではなく、何かを意味する象徴ということになり、したがって長子、末子の関係は成立しないのではないか。

 しかし産みおろしの区別は依然として残り、その区別の意味が問題になる。
 ではその意味とは何か。

私見によると、その区別は長子、末子のような時系列のたての区別ではなく、たとえば会社における役割部門、部署のような横の区別であり、産みおろしの区別によって、役割の区別が示されているのではないかと思う。
 
『おふでさき注釈』には、「にほんのもの」は「最初に親神様に生み下ろされた者」、「この教を先ず聞かして頂く者」、「とふじん」は「つづいて生み下ろされ」、「次に教を聞かして頂く者」(28頁)と解され、産みおろしの順序、区別が「にほん」と「から」の区別として受け取られているが、産みおろしの区別を役割の区別として考えるとき、そのような解釈は成立しないのではないか。

 産みおろしの区別を「にほん」と「から」の区別とみるとき、先に産みおろされた者は、後の者より成人し、魂が神に近い、したがって「この教を先ず聞かして頂く」ということになるが、これでは宿し込みの時点で、魂に優劣の差があることになり、一列平等の教えに矛盾することになる。

 しかし産みおろしの区別を役割の区別とみるとき、産みおろしの順序には価値的な相違はなく、単に役割の相違しかないということになる。

 親神は神人和楽の陽気ぐらし世界建設を目的にして、人間を創造したのであるが、産みおろしの時点において、陽気ぐらし世界建設のための役割分担をされ、それが産みおろしの区別となったのではないか。

 そしてその役割を自覚的であれ、無自覚的であれ、全うしている者が「にほんのもの」で、その反対の者が「とふじん」ということになるのではないか。

 また「にほんのもの」、「とうじん」も固定的なものではなく、
にち~~にからとにほんをわけるみち
神のせきこみこれが一ぢよ
          (四、58)
に明示されるように「にほん」と「から」と同じく、日々の通り方によって変動するものではないか。つまり「にほんのもの」もたすけを忘れ、自己中心的、利己的に生きるとき、すぐに「とふじん」に転落してしまうようなものではないだろうか。

 このように考えられるなら、「にほん」と日本の関係は、次のようになるであろう。
 松本滋氏は『にほんとは人知、学問よりもっと深い次元の「ね」の働きに基づいた人間のあり方を指していると同時に、現実にある日本という国やそこに住む日本人の本来的なあり方を示唆している』(前掲書、194頁)と述べ、「にほん」と日本を直結しようとしているが、「にほん」を先述したように、親神から課せられた役割を全うしている者や集団、国と考えるとき、「にほん」は、日本のみならず世界の国々の本来的なあり方をも同時に示すもの、と言わなくてはならない。

 したがって日本が「にほん」になることは言うまでもないが、同時に世界も「にほん」になることが必要なのであり、日本の「にほん」化は、世界の「にほん」化と同時に成立すべきものであると思われる。

 ところでこのように言うと、本教はまだ歴史が浅く、民族宗教の域をでていないのであるから、松本氏の言うように「日本の治まりの理によって、世界が治まっていく」のが順序であり、日本と世界の「にほん」化は同時に成立しないのではないか、との反論が予想されるが、先述したように、世界の治まりのないときに、日本の本当の治まりなど考えられないし、また日本、世界の区別は「にほん」、「から」の成人の差ではなく、会社における人事部と経理部、営業部等の区別のようなものにすぎないから、日本がまず治まって、それを模範にして世界が治まっていくという順序は認めがたい。
 
また親神から課せられた役割も、他宗教によっても(他宗教も親神によって成人に応じて教えられたものであるから)間接的に自覚されうるのではないか。
 
したがって世界の「にほん」化も、無自覚的には、ある程度実現しているといえるのではないか。

 最後に「にほん」と「から」に関連する「ね(ねへ、ねゑ)」と「ゑだ(た)」について考えてみよう。

をなじきのねへとゑだとの事ならば
ゑだハをれくるねハさかいでる

いまゝでわからハえらいとゆうたれど
これからさきハをれるばかりや

にほんみよちいさいよふにをもたれど
ねがあらハればをそれいるぞや
        (三,88~90)

 これらの一連のお歌から、「にほん」と「ね」、「から」と「えだ」が結びつくことがわかるが、この「ね」と「えだ」も「にほん」と「から」と同じように、日本と外国というように単純に割り切ることはできない。
 
井上昭夫氏は『世界宗教への道』の中で、科学を至上視する西洋文明が崩壊し、東洋の特に日本の文化が再評価されつつある現実を、種々の具体例をあげて説明し、「欧米の近代化の超克は、欧米自身の日本化への構造的変革をおいてはない」(369頁)と断定しているが、はたして日本文化が「ね」で、西洋文明が「えだ」であると即断できるであろうか。

 氏は西から東への文明の逆流は「ね」が現われるという神意の具現であり、それゆえ日本文化礼賛を考えているようであるが、神意は世界の日本化ではなく、世界の「にほん」化であり、世界の文明、文化の否定ではなく、それらを真に生かすことにあるのではないか。

 神意に反するのは、「えだ」であるからではなく、「えだ」であるのに「ね」の働きを忘れて自立しようとしたり、自らの空しい絶対性を主張する点にあるのである。
 
世界の文明、文化、歴史、伝統等は、土地所に咲く花のようなもので、それらの豪華絢爛たる百花繚乱の姿に陽気ぐらしがあるのであって、日本の花々を世界に植え、咲かせようとしても、根付かず、空しく枯れてしまうだけであろう。

 問題は世界の花が日本の花でない点にあるのではなく、世界の花が、根からはなれて、生け花のように成っている点にあるのである。 

 根からはなれた花は、いかにその美を世界に誇示しても、所詮生け花に過ぎず、早晩枯れ行く運命にある、と言わなければならない。日本の花と言えども同様である。

2013年1月18日金曜日

No.90 教理随想(41) 「にほん」と「から」 (1)


今回は「ぢば」にまつわる「にほん」と「から」の問題について検討を加えてみたい。
 まず「元の理」にみられる「にほん」と「から」についてみてみよう。

 『教典』の「元の理」には「にほん」、「から」の表現はみられないが、
十四年本説話体の「こふき話」には、「にんげんハ五尺ニなるまた(で)みずのなかのすまい。三尺より五尺ニなるまでじきもつをだんだんとくいまハり、からてんじくまでもまハりいくなり」(『こふきの研究』83頁)
 
また十六年本の「神の古記」には、
「人かす九億九万九千九百九十九人のうち、やまとのくにゑうみおろしたる人げんわにほんの地に上り、外ゆくにゑうみおろしたる人間わじきもつをくいまわり、から、てんじくの地あかりゆきたるものなり」(同書138~139頁)との記述がみられる。「にほん」、「から」とは一体いかなる意味をもつのだろうか。

 ここには「てんじく」の表現もみられるが、これは「から」と同義とみなして考え、引用文を文字通りうけとると、「にほん」、「から」は地理的な意味での日本、唐、外国という場所、空間を示すものと理解される。

「にほんの地」、「から、てんじくの地」とは、それをまさに示しているが、果してこの場所は、そのまま現実の日本、外国として理解しうるであろうか。

 なるほど戦争中、戦前においては、そのまま日本、外国として、教内外において受け取られ、当時の八紘一宇の民族主義に迎合、妥協するかたちで、都合のいいように解釈されてきたが、この解釈は少し考えると妥当しないことがすぐに分かる。

 なぜなら、
これからハからとにほんのはなしする
なにをゆうともハかりあるまい
          (二、31)
のお歌によって、「にほん」、「から」を日本、外国として考える常識が成立しないことが示されているからである。

 またこのことは「元の理」をよく吟味しても、すぐに分かることである。
 なぜなら「神の古記」において、七十五日かかって大和、山城、伊賀等に産みおろされたと記されているが、よく考えてみると、「五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった」(『教典』29頁)のであるから、産みおろしの場所を文字通り受け取ることはできないからである。

 それでは「にほん」、「から」をどのように理解すればよいのか。
とふじんとにほんのものとハけるのハ
火と水とをいれてハけるで
          (二、47)

 このお歌の注釈をみてみよう。
「未だ親神の教を知らない者と、親神の真意を悟った者とを分けるのは、親神の絶大な力を現してする事である。 
註 にほんとは、創造期に親神様がこの世をお創めになったぢばのある所、従ってこの度先ずこの教をお説き下さるところ、世界たすけの親里のあるところを言い、からとは、創造期に人間が渡って行ったところ、従って、この度この教の次に普及さるべきところを言う。従って、にほんのものとは、最初に親神様に生み下ろされたる者、従って、この度この教を先ず聞かして頂く者、親神様の真意を悟った者を言い、とふじんとは、つづいて生み下ろされた者、従って、この度次にこの教を説き聞かして頂く者、未だ親神様の教を知らぬ者をいう。」(『おふでさき注釈』28頁)

 この注釈では「にほん」、「から」は日本と外国としてスレトートに理解されていないが、その意味はもう一つはっきりしないように思われる。

 ということは「にほん」、「から」とは場所というような目に見える固定的なものを示すのではなく、精神的な内容のみならず、さらに深い意味をもつのではないだろうか。

 注釈には「にほんのもの」は「最初に親神様に生み下ろされた者」、「この教を先ず聞かして頂く者、親神様の真意を悟った者」、「とふじん」は「つづいて生み下ろされ」、「次に教を説き聞かして頂く」、「親神様の教を知らぬ者」として、それぞれの内容が示されているので、これに基づいて検討してみよう。

 まず「にほんのもの」。「とふじん」が、親神に最初に、次に生みおろされた者であるとしても、その最初、次という区別は何によって生じるのだろうか。そもそも七十五日かかった時間的順序のある生みおろしの意味は何か。同時に宿しこまれた子数には、宿し込みの時点においてすでに区別があったのか、等などの問題については、全くわからないのであるから、最初、次を「にほん」、「から」に当てはめることはわれわれにとってあまり意味がないのではないか。

 最初、次を固定化すると、どうしてもそれに優劣の価値判断が加えられたりしやすく、「にほんのもの」は「とふじん」より優れ、神に近い魂をもっているので、他の民族を指導、救助すべく運命付けられている、というような民族主義的な思想を復活させることになりかねないと思われる。

 松本滋氏は『陽気ぐらしへの道』の中の「にほんの理について」において、「にほん」の者は、親神にとって、長子、総領という意味をもつのであるから、「日本の者は、世界の人々に先がけて親神、教祖の教えを聞き分け、その思いを一番早くから悟りとり、それを最初に実現してゆかねばならない使命、義務を本来的に帯びている」(171頁)、「日本の治まりの理によって世界が治まっていく。これが親の願いなのであります。」(173頁)等と述べ、日本人に向かって、自覚、反省を促そうとしているが、このような考え方は、氏の否定している民族主義的な発想なのではないだろうか。

なるほど『日本の文化や歴史や現実を十二分にわきまえた上で、しかもその日本に、日本人としての教祖をとおして、この「だめの教え」が創められたという事実の根底にある意味』(156頁)を深く考えての提言であり、それなりの説得力はあるが、次の点で受け入れられない。

氏は「日本の治まりの理によって世界が治まっていく」という順序を示しているが、「人をたすけて我が身たすかる」を拡大解釈して、「世界たすけて日本たすかる」ということが言えるのなら、日本と世界の治まり、たすかりは同時に成立すべきものなのではないか。

世界の治まりのないときに、長子としての日本の治まりなど考えられるのか。このように考えると、日本人長子論は成立しないのではないかと思う。

「にほん」と「から」とは、場所的に、固定的に理解しないで、『おふでさき注釈』にある「親神様の真意を悟った者」で、それを行動に、つまりたすけに現している者の集まりと、悟っていない、実行していない者の集まり、として流動的に理解できないであろうか。

だん~~とよろづたすけをみなをしへ からとにほんをわけるばかりや
にち~~にからとにほんをわけるみち 神のせきこみこれが一ぢよ
       (四、57,58)
 
このお歌から「にほん」、「から」は
親神のたすけ一条に関連するものであることが分かるので、「にほん」とはたすけを促進し、「から」はたすけを阻止、妨害することとして解することができるのではないか。

したがって、
とふじんとにほんのものとハけるのハ     火と水とをいれてハけるで
         (二、47)
この「火と水とをいれて」を火水風のバランスを乱すこと、つまり節を通して、親神のたすけの思いに沿う「にほんのもの」とたすけの思いに反し、邪魔をする「とふじん」に分けて、たすけを推進していく、と受け取れるのではないか。

また、
とふぢんがにほんのぢいゝ入こんで
まゝにするのが神のりいふく
         (二、32)

この「にほんのぢい」は日本の領土とかではなく、たすけの行われている空間や「にほんのもの」の集まりで、「とふじん」がたすけの妨害をすることが「神のりいふく」と解せるのではないか。

もしこのように理解できると、「にほん」は日本に限定されず、外国においても成立し、逆に日本、教内にも「から」がはびこっている、と考えられるのではないか。

それゆえに親神が今われわれに求められていることは、松本氏のような「長子としての日本人よ、世界の範たれ」というようなものではなく、親神の教えを聞き分けた世界の者(他宗教の者を含む)、用木、教祖の道具衆が、立場をこえて、世界たすけに日々奮起することではないか。
 
おふでさきには、
こらほどに月日の心せきこめど
そばの心わなんでいづむど
         (七、48)
 こらほどに月日の心しんばいを
 そばなるものハなにもしらずに
         (十二,37)

等の「そばなるもの」の成人の鈍さをいましめるお歌がでてくるが、この「そばなもの」は、松本氏のように、現代の日本人として理解するのではなく、親神の教えを聞いている者と受け取らねばならないのではないかと思われる。
 
親神の教えを聞いている者が、親の思い通りに働いてくれない、この点に親の残念があるのであって、長子としての日本人が長子としてふさわしくない点に、残念があるのではないと思う。
 
松本氏は、日本人が天の理に基づいて暮らし、それによって日本の国がしっかり治まると、世界の人々はその姿に感心して、親元を慕ってやってくるようになる、そうすると武力、軍事力や経済力によってではなく、精神の次元で、世界の手本雛形、模範になってゆける、そうなってこそ、
いままでハにほんがからにしたごふて
ままにしられた神のざんねん
         (四、128)
という親の残念がはれると述べている。
 
しかしこれでは日本が今までに外国に踏みにじられてきたことが神の残念であると誤解され、今尚根強い民族主義を復活させることになるのではないか。
 
しかしこのように考えるからといって、氏の否定する現実の日本という足元をわすれた観念的な宙に浮いた世界だすけを主張するつもりは毛頭ない。ただ世界だすけ、世界の治まりは、まず日本が治まり、たすかって、それからはじまるという順序に少し異議をさしはさみたいだけである。

ぜんしよのいんねんよせてしうごふする これハまつだいしかとをさまる
          (一、74)

このお歌を国、民族について当てはめると、いんねんの違いが、民族性、歴史、伝統、文化、思想などの相違となっているが、それらには価値的な差異は一切なく、互いにそれらを尊重しつつ、親神の教えを聞き分けた者(他宗の者を含む)が世界だすけに挺身していき、それによって日本、世界が同時にたすかり、治まっていく、このことを親神はわれわれに強く求められているのではないかと思うのである。

 世界の政治経済等の動向が、直接的、間接的に日本に影響を与えつつある最近の状況は、われわれに日本の治まりは、世界の治まりをはなれてはありえないことを教えているのではないか。