2014年4月2日水曜日

No.101 教理随想(52) 家族の絆(3)

清水 うちは上の子には小さいころからぜんぜんお小遣いもあげずに、買い与えたりもしませんでした。何か物を買うときも親の思いを通してたので、もう結婚してるのですが、いまだに買い物に行っても悩んで迷ってなかなか買えないって、この前一番上の娘に愚痴られたんですよ。

 でも衝動買いとかはしないので、かわいそうな反面安心感はあります。けっこうリサイクルショップとか利用したり、お友達同士で回したりして上手にやりくりしているみたいで。
 下の子が、新しく出たゲームをほしがっていたんですけれど、ありがたいことに即完売で、どこにも売ってなかったんです。そうこうしているときにうちの子が池中先生の子供さんに鼓笛で会ったときに「どうせすぐに飽きるよ、またすぐに新しいのが出るで」ってアドバイスをもらったんです。そしたら「私もそう思うわ」ってコロッと変わっていて、ゲームを買うことをあきらめてくれたんです。

池中 私も子供のときは何も買ってもらえなかったのですけれど、それでよかったなあ、親が徳積みしてくれていたんだなあと思えます。当時もらったスカートをずっと同じものをはいていたのですが、あんまり嫌やから自分ではさみでスカートを切ったんです。
 そして「お母さんこのスカート破れたからもう着られへんわ」と言ったら、次の日ちゃんと縫われていました。お母さんのほうが一枚上手だったんです。でもそれだけのことを今自分の子供になかなかできないんですね。やっぱり甘いなあと思いますね。

司会 結論として、お道を信仰している私たちができること、私たちがしなければいけないことは何でしょうか。

池中 よく会社などで「ほうれんそう」という言葉が使われていますが、報告、連絡、相談という意味で「ほうれんそう」をしっかりすることが大切と聞きますが、家庭の中でも「ほうれんそう」をしっかりしなければいけないと思います。

子供がまだ小さいうちは目の届く範囲にいるので何をやっているのかすぐに分かりますが、大きくなるにつれてそれぞれの行動範囲も広くなって、帰ってくる時間もばらばらだし、どこで何をやっているのか把握できなくなってくると思うので、いちいち聞くと嫌がるかもしれませんが、「今日どうやった?」「何時に帰ってくるの?」「これはどう思う?」など、家庭の中でもコミュニケーションをしっかり取ることで家族の絆も深まるのではないでしょうか。

清水 奈良の放火殺人の事件を聞いたときに、放火した子がかわいそうに思えたんですね、あの子は居場所がなかったんだってすごく感じたんです。それぞれどの子にも居場所が必要なんだ。学校でも、家でも、またそれ以外でもどこかに居場所があれば生きていけると聞いたことがあるんですが、あの事件を起こした子にはどこにも居場所がなかったんじゃないかってすごく思いました。

うちの子が学校でトラブルがあったときには、鼓笛隊という居場所があって仲間に支えてもらえたから乗り越えられたんだと思うんです。今は兄弟の少ない子も多いので、子供の友達とか遊びにきたときには鼓笛隊に誘っているんです。そうやってよその子供さんにもなるべくたくさん居場所をつくってあげられればいいと思います。

村上 おふでさきに、
                    せんしょうのいんねんよせてしゅごする
                    これはまつだいしかとおさまる
                              (1、74)と教示されています。
このおふでさきは一般的に結婚に関するおふでさきと解釈されていますが、すべての人間関係に関するものだと私は思います。夫婦、親子というのは同じいんねんではないと思うんです。
           おふでさきにも、
              おやこでもふう~~のなかもきよたいも 
              みなめへ~~に心ちがうで
                 (5,8)
とあるようにみな微妙に違っているんですが、それぞれのいんねんを納消するのにいちばんいい組み合わせになっていると思うんです。

 お互いが神様が選ばれたベストの組み合わせなんだということ。今の親子関係は親分子分みたいになっているように思えます。それは本当の親子関係ではない。子供というのは神様からお預かりしているものである、そういうふうな思いで子供を丹精させてもらう。その中に自分が親として成人させてもらえるのではないでしょうか。


司会 みなさん本日はありがとうございました。

No.100 教理随想(51) 家族の絆(2)

司会 ずいぶん古いデータですが、職場での事故の原因の90%は家庭の不和だという調査結果があるんです。このことからも家庭の治まりというものは本当に大事だと分かると思いますが、子供の前で夫婦げんかをしたり、子供さんに自分の弱いところは見せますか。また子育てで気をつけていることなど教えてください。

村上 最近は本当に離婚している家庭が多いですね。父性は規律を教える。母性は優しく抱きかかえる。たとえ夫婦が揃っていても両方が父性の厳しさだけを子供に教えるとそれは親心になっていないと思う。女性だからといって父性がないわけではない。だから母子家庭でも父性と母性をもって育てれば母親1人でも子供は育つ、反対に両親が揃っていても父性と母性の役割分担ができていなければ子供はちゃんと育たないと思います。

池中 うちは夫婦げんかというものはほとんどしませんね。自分が子供のころに親がけんかしているのを見たときにいちばん寂しい気持ちになったので、子供の前では特にしません。特に繕ってるわけでもない。うちの場合は先ほど村上先生がおっしゃてたように父性も母性も会長さんがやってくれるので(笑)、私は何もしていません。

 それから、なかなか自分の子供を褒めてやるというのができないんですよね。しかってばっかりで。押さえつけていたかなと思う。人の子には良く頑張ったねって言ってあげられるのになんで自分の子にはそれが言えないのかなって。 それと陰口はいけないなと思います。子供は聞いているんですよね。「おかあさん、あんなこと言ってたで」とかぽろっと言われるとドキッとしますね。本当に子供って親の言っていることをしっかり聞いてますね、顔色もよく見ていますしね。

清水 子供が大きくなってきて、子育ての方針がこんなに違うんだというのが出てきました。 上2人の子供にはとにかく厳しくしないといけないと思っていたのですが、やっぱり反発があって、子供の意見も聞いてあげないといけないということに気がつきました。ですから子供の様子や学校であったことなどを聞くようにしています。
以前下の子のクラスが学級崩壊のようになったことがあってうちの子にも影響があったときにも早く気がつけたのでなんとか乗り切ることができたことがありました。

子供が全部私たち親に話してくれたのでよかったのです。学校にいる時にストレスをためていたので、家では励ましてあげていて、今はいいクラスに恵まれているようで、今ではそういう悩みを抱えている友達に自分の経験からアドバイスしてあげたりしているみたいです。身近でやっぱりそういうことがあるんですね。聞いていたら今の小学生は忙しいんですね。おけいこ事とかでストレスがたまってそれが人に攻撃的になる原因なのかな。

司会 よその子を叱れますか?

池中 なかなかできないですね。そこまで親身になれてないのですかね。

清水 普段から知っている子ならまだいいのですがどういう子かまったく分からない子にはやっぱり言えないですね。以前に上の子が中学生のときにちょっと学校が荒れてて、学校の外で中学生が悪いことしてても注意しなくていいですと先生から言われて、でも目に余ったら警察に電話してくださいと言われたことがあって、それが心に残ってて、もし注意して危害を加えられたらどうしようとかいう心配もあってなかなか言えないですね。

村上 昔は先生というものはとても怖い存在だったんです。だから親も子供が悪いことをしたら親も怒るけれども、先生に怒ってもらっていたんですね。今は親が怒れないんですね、もし子供が目に余るようなことで他人が注意したらその子の親は普通なら感謝しなければならないところが逆に注意してくれた人に怒ってしまうわけです。

司会 この前にいわゆる大阪のおばちゃんに出会って、ものすごく感動した話を聞いたんです。
 それは自分の子供が小さいときの話で、誕生日に手帳を買ってあげたんですって、するとその手帳を近所の子供がすごく気に入って、黙って持って帰ってしまったんです。それに気がついたその子供の親が謝罪の電話してきたそうです。「うちの子が手帳を持って帰ってきてしまった申し訳ないです」と。
 
それに対しておばちゃんは何て言ったかというと、「今すぐ子供を連れて謝りにきてくれ」と言ったそうです。そしてすぐに手帳を持って子供を連れて謝りにきたそうです。そのおばちゃんを見るやいなや玄関先で土下座して謝ったそうです。
そこでおばちゃんは子供に何て言ったか「あんたは自分のお母さんにこんな姿をさせて平気でいられるのか。あんたのしたことでお母さんはこんなに恥をさらしているんだ。二度としたらあかんで」と懇々と言い聞かせて、そして三人手をとって泣いたっていうんですね。
 
池中 すばらしいですね。子供が万引きして親が謝りにいって逆にお店の人に「お金払ったらいいんやろ!」と居直ったりすることがよく見受けられるけど、そうじゃなくてこの場合自分の子もそうだし人の子も同じような思いで間違ったことをその場で正す、自分の子も人の子も同じ感覚でしておられることがすごいことだなと思いますね。
それが今なくなってきて人は人、自分は自分と希薄な人間関係が問題になっていますよね。私たちはよふぼくなのですからこのおばちゃんに負けないように頑張らないといけませんね。

村上 子供もそうですけれど、まず親がなってないから、その親を何とかしなければいけないと思いますね。しつけはいくらでもつけられると思うんです。
私たち家族が教会を出て泉北ニュータウンへ移ったころ、子供たちは五歳、三歳、一歳だったのですが、子供たちにまず物の不自由さに耐えさせようと思い、朝食は端パンにしました。子供に物を与えるときに必ず理由付けするんです。端パンというものは食パンの端で栄養がここに集中しているんだよ、と。そして絶えず「もったいない、もったいない」と言い続けました。
すると子供たちも学校やよそでも、もったいないと自然と言うようになりました。しかし、不自由もやりすぎるといけないんですね。私たちが子供のときと同じようにやってしまうと、ついてこれなくなりますからね。そして子供には親の思いを押し付けたりせずに、しっかりと意見も聞いてあげることが大切ですね。


No.99 教理随想(50) 家族の絆(1)

『躍動の泉』平成18年12月号 座談会 テーマ「家族の絆」を考える
メンバー 
村上道昭(56歳、二男一女の父) 
清水みどり(46歳、一男三女の母) 
池中揚子(43歳、三男二女の母) 
司会:和田幸晴(45歳、三女の父)

リード文
今日現在、家族の絆が薄れてきているように思います。そのなかでいろんな悲惨な事件、痛ましい事件が、身近なところでも起こっています。そういう世の中を見て、多くの方が不安な気持ちを抱いているのではないでしょうか。そこでわたしたちお道の者として、この世相をどう見るか、いかにして陽気ぐらしに近づけていけるのかを考えてみたいと思います。

司会 まずはじめに、幸せな家庭とはどんな家庭でしょうか。そして今なぜ多くの家庭で治まりをみないのか。家庭というのは子供にとってどういうものなのかを考えてみたいと思います。

池中 家庭というのは子供にとって安心していられる場所であるべきだと思います。私が子供のころは家に帰ってきたらすごくほっとしたんです。だから自分の子供が学校など外から帰ってきたら、ほっとする、安心できる場所であるように心がけています。

清水 それぞれの家庭でいろいろ事情があるから一概には言えないと思いますが、私はやっぱり両親が揃っているということが子供にとっていちばん幸せだと思います。
私は子供のころによく教会に行ってたんですが、何人かの住み込みの方がいて、お父さんがいない人がいたんです。ある人に「あんたは幸せよ。お父さんがいるんだから」と言われたことがあって、そのときは分からなかったのですが、あとになって本当にそうだなと思いました。

親の愛情というのは底知れないものがあるじゃないですか。いつも子供のことを思っているんですよね。その愛情というのは本当の親子じゃないとなかなか子供にも伝わらないと思うのです。
 私が子供のときも両親とも働いているから、あまりかまってくれないんです。でも愛情というのはどっかに自分の中にあったんですね。

司会 最近では奈良の田原本で起きた放火殺人事件が記憶に新しいかと思うのですが、家庭内の殺人事件が最近よく起こっています。なぜ子供は親を殺すのでしょうか。どうすればそれを未然に防げるのでしょうか。またどこにその問題があると考えますか。

村上 子供が親を殺す原因は根が深く、特定するのは難しいですが、背景として最近の子供は自然と接する機会が少なく、ゲームの世界と現実との区別がつかず、命の重みが感じられないことがあるように思います。
 
また、教育の問題もあると思います。昭和40年以降「道徳」にかわって「にんげん」、「人権」が教えられるようになりました。責任をともなわない自由、義務を忘れた権利のみが主張され、子供を甘やかす家庭が増えてきたことも、このような事件の背景としてあるように想います。
 
奈良の田原本町で放火殺人を犯した高校一年生は、事件後「もう一度人生をやりなおしたかった」といって自分の犯した事の重大性を感じていません。親の高学歴イコール幸せな人生という価値観を一方的に押し付けられ、ストレスがたまり、とりかえしのつかない事件を起こしたわけですが、なぜ放火殺人なのか、家出とか他の方法もあったのではないか、と考えますと理解に苦しみます。

 親と子供のどちらが悪い、社会が悪いという次元では捉えることのできない問題だと思います。
 教理的にいいますと、おさしづに、
  ……小人々々は十五才までは親の心通りの守護と聞かし、十五才以上は皆めん/\の心通りや。……
(明治21830日)
また、
  「小人の処、前生一人一人持ち越しという理がある。」
(明治22年1月11日)
とはっきりと前生持ち越しということを教えられています。殺人をするというのは根が深いと思うのです。
ただ単に環境だけではなく、信仰的に考えますと前生持越しとかまたいんねんとかそういう問題になってくる、だから同じような環境、同じような人間関係であっても殺人事件など起こらない場合と、殺人事件に発展する場合とがありますね。
 
だから殺人を犯す原因というものは、前生のいんねんとかそこまで掘り下げないと、殺人を犯した子供の動機とか、心理的な原因とか、また社会的な背景とか、そういう次元では解決できない、原因は分からないと思います。

 昔と今の子を比べたときに信仰を抜きにしても、たとえば昔は手伝いをするのが当たり前でしたが、今は便利になって家事とか炊事の手伝いをするのが当たり前でなくなってきている、昔は手伝いは当然子供がしなければならないことだった。いわれなくても自然とできることだった。
今は子供が家庭でしなければならないことといえば勉強とかになっている。親も手伝いをしてくれるよりも勉強をしてほしいとおもっていますね。

 社会の問題として考えると親子の間で価値観が違ってきている。昔は物の不自由なときは物質的に恵まれることが目標で経済力を付けるために学歴を身に付けた。高学歴→高収入→物質的に恵まれるイコールそれが幸せの方程式だった。
それが今の30歳以下の若い世代は生まれたときから物に恵まれていて、そういうようなことは目標でなくなってきている。親は物の豊かさを求めたが、今の子は心の豊かさを求めている。そこに親と子で求めている根本的な価値観にずれがあります。ストレスがたまって、そこに奈良の田原本の事件の背景みたいなものがある。今の子供は何が幸せなのか模索している状態に見えますね。