2014年7月27日日曜日

No.106 教理随想(57) 生まれ更わり(4)

 さて輪廻の原義は流れること、生あるものが、さまざまの形態の生をくりかえすことを古代インドにおいては意味し、それが仏教に入って具体的に五趣(天上、人間、畜生、餓鬼、地獄)あるいは六道(人間と畜生の間に阿修羅が加わる)として転生する世界が明示され、これが業の思想と結びつくようになります。 

そして善き行ないには来世での善き結果、よりすぐれた人間や天人への生まれかわり、悪しき行ないには、下等な人間、動物への生まれかわり等々と説かれ、人間に道徳的行為をすすめる勧善懲悪の積極的な役割とともに、宿命論という、そこから絶対に抜け出すことのできない消極的な役割をもはたすようになります。

このような業思想は、後世に至るまで多大の影響を人々におよぼすようになりますが、この輪廻においては、輪廻の輪からの脱出、つまり解脱が人間にとって目指されるべき究極の理想であり、それが救済の成就と説かれます。

仏教においては、生まれかわる世界が人間界より上等の天上界であっても、それが輪廻の一部である限り、決して永遠に平安な世界ではない(また人間界に落ちたりしますので)、と考えられていますので、もはや生まれかわらないこと、つまり解脱とは具体的に何を意味するのか分かりません。
生まれかわらなくなった人間は仏陀とよばれますが、それがどのような人間なのか、また生まれかわらなくなった人間は、どこにいて、どのように存在しているのか、については何も具体的に示されていません。

それゆえに生死即涅槃(この世における涅槃)、あるいは即身成仏(この世での成仏)というような考え方がでてくると思われますが、苦からの解放とは何か、救済の完成とは何か、具体的に示されていません。

しかし本教においてはこの世に人間が何度も生まれかわり出かわりしつつ、救済の目標である、この世での具体的な陽気ぐらしが示され、それに向かって成人していくことが求められています。

本教においては人間創造の目的は、この世における、神人和楽の陽気ぐらしの実現でありますから、生まれかわらないことが救済の成就である、と考えることは絶対にできません。
 
 次に輪廻においては人間から動物(畜生)への転生が説かれますが、本教においては、この問題はどのように、考えられているのでしょうか。
 
 諸井政一著『正文遺韻抄』に掲載されています「人間の数について」を少し長いですが引用して検討してみましょう。
「元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、生き物が出世して人間とのぼりているものが沢山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、ああうらやましいものや、人間になりたいと思ふ一念より、うまれ変わり出変わりして、だんだんこうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらうたものが、沢山にあるで」(153頁)
 
 ここには動物から人間への進歩(?)とともに人間から動物への退歩(?)が「牛馬におちて居る者」、「人間にうまれてくる」という言葉によって示されていて、人間の数が元の子数より増えている訳が教えられているように思えますが、人間が牛馬におちること、牛馬が人間に転生することを、文字通りに受け取ることが果たしてできるでしょうか。
 言うまでもなく引用しました一節は、教祖の御言葉に基づくもので、後世の人の作り話であるとは、まず考えられませんから、問題はそれをそのまま受け取るか、あるいはたとえ話として、当時の人の成人に応じた子供向けの話として、受け取るかで、どちらであるかは「牛馬におちて居る者」の解釈いかんによると考えられます。

       いままでハぎうばとゆうハままあれど 
       あとさきしれた事ハあるまい
                   (五、1)
       このたびハさきなる事を此のよから 
       しらしてをくでみにさハりみよ
            (五、2)
 この二つのおふでさきの意味は『おふでさき注釈』によりますと、
「これまでから牛馬におちる、牛馬におちると説く者もあるが、如何なる者が牛馬におちるか、又如何にして牛馬の道から救われるか、今日まで明らかに説き諭した事はないから、だれも知らないであろう」、
「この度は、身に障りをつけて、来世の事をこの世から知らしておくから、現れている我が姿を見てよく反省せよ」
と解され、牛馬は文字通り牛馬とみなされています。

また「来世の事をこの世から知らしておく」とは、今世見せられている病気によって、来世牛馬に生まれるかどうかを知らせる、という意味として解されています。
 ところが、
       だんだんとをんがかさなりそのゆえハ 
       きゆばとみえるみちがあるから
          (八、54)
のお歌の場合、『おふでさき注釈』によりますと「人間は、親神の深い意図によって造られ、神恩によって生かされているのであるが、この神恩の偉大な事を知らず、従って、報恩感謝の道に進まずして、なおも気随気儘の道を歩み、恩に恩を重ねたならば、最後には牛馬に等しい道に堕ちるの外はないから、それが気の毒である。」と解され、牛馬は、牛馬に等しいもの、つまり牛馬そのものではなく、牛馬とみえる、牛馬のようなものとして受け取られていますので、この場合は人間は牛馬に落ちない、転生しないということになります。
 
 先のお歌の「ぎうば」と、今のお歌の「きゆば」の「う」と「ゆ」の文字の違いが、そのような解釈の違いをもたらしているとは、とても思えませんが、『おふでさき注釈』による限りでは、二つの解釈が成立するということになります。
しかし後のお歌の「牛馬とみへるみち」を牛馬のような道と解さず、来世には牛馬になることがみえている道と受け取りますと、牛馬とはあくまで牛馬である、との先のお歌と同一の解釈とみなすことができます。
 
 では一体どちらが正しいのでしょうか。



2014年7月2日水曜日

No.105 教理随想(56) 生まれ更わり(3)

  では矢島氏によると前生いんねんも否定されることになるのか。
 
  氏はその問いに対してとまどいを示しながら、「過去の積み上げでもってこの体はできているのですし、また過去の積み上げでもって意識の世界、無意識の世界、心の世界までできているのです。それで今までの経験でもってものの考え方もある程度決まっているのです。」(『ほんあずま』九八号)と一応過去の影響をみとめながらも、「前世、前々世のこと、先祖のことなどは、今の幸、不幸を支配するほど強くは意識の世界にはのぼってこないのです」[この意味はよくわからないが、前世、前々世のことは、幸、不幸にほんのわずかしか影響がない、と理解する]とのべて、前世いんねんを何とか否定しょうとしている。
 
  氏にとって大切なのは、「現在の心づかいというものは、陽気ぐらしに生きようと思い、助け合いをすれば幸せになれるし反対に殺し合いに借りものを使ったら、途端に不幸せになってしまうほど、幸せ、不幸せを決定的に決める重要な要素なのです」からわかるように現在の心遣いなのであるが、このような議論はよく考えてみると、過去から将来に目を転じさせ、前生いんねんという合理的思考のつまづきとなる問題を巧妙にさけ、常識的な理解へとわれわれを導くだけにすぎないように思われる。いかに現在の心づかいを強調しても、過去を前提としてなってくる現実(特にわれわれにとって不都合な)をいかにうけとめるかの問題の解決は全くできないからである。

       ・・・後々誰の生まれ更わり言えば世界大変。一つ事情よう聞き分け~~・誰がど
   う、彼がどう、とは言わん。想像これ一つどうもなろまい。・・・・(M31,4,29

 は決して生まれ更わりを否定しているのではなく、誰の生まれ更わりの詮索を制止しているところに、かえって生まれ更わりの真実性が間接的に教えられ、前生が直接的に分からず不透明であることは、親神の慈悲であることが同時に教えられているように思われる。
 
  したがって氏のような生まれ更わり論は、単に目先の生起する現実にのみとらわれ、なってくる現実の深みにまで入り込まない近視眼的で浅薄なもの、楽天的なものにすぎず、教祖の教えに基づいた見方であるとはおよそ言いがたいと思う。

  次に「出直」は生まれ更わりで、仏教の輪廻と同じように見られやすいが、それと同じものか、違うとすればどの点か、について考えてみたい。
 
  仏教の輪廻について考える前に、まず八島氏の輪廻観についてみてみよう。
 
  さて輪廻の教えとは氏によると、
「前生よいことをした人間が、よい身分に生まれ、前生悪いことをした人間が悪い身分に生まれて、裁かれた結果できている正しい社会なのだから、上の者はあぐらをかいてのうのうと食っていろ、下の者は食べられないで苦しんでも物を捧げ命を捧げて今生を通りなさい、そうすれば来世よくなるよ、こういうふうに言ったのがこの輪廻の教理であるわけです」(『ほんあずま』)と解され、この考え方はインドのバラモン教に由来するとみなされている。
 
  バラモン教では人間はスードラ(奴隷)、バイシャ(市民)、クシャトリア(王、政治家、武士)、バラモン(僧侶)の四階級に分かれ、今生たくさんの罪を犯した者は低い身分のところに、ときには動物に生まれ更わり、バラモンに仕えると身分の高いところに生まれかわると説かれている。この教えが仏教に入って輪廻となったと氏は考えるが、氏によるとこのような輪廻の教えは、実在するものでは決してなく、抑圧者が説く差別があっても当然であるという神学に基づく架空のものとみなされている。
 
  氏にとって輪廻の教えとは、今から約四千年前にインドを占領した白人系の支配者が、自分たちの地位を守るために、社会を乱されれぬように人為的に捏造した教えにほかならないのである。
 
  氏はさらに日本の仏教にも言及して「日本の天皇制確立に役立たせようということで外国の思想家を呼んだのが坊さんで、彼らは、身分の差別というようなことを言っていたら本当の幸せは得られないというお経を読みながら、自分たちを雇った人(天皇)からは、身分の違いをはっきり説けと命令され」、その結果、「本来、輪廻からの解脱を説き、差別社会否定の教理を教えるべき坊さんが、輪廻を教え、差別思想を説いてしまった」という極めて歪められた見方をしている。
 
  なぜなら仏教においては輪廻からの解脱が確かに説かれるが、このことは輪廻が克服されるべきものではあっても、決して実在しないようなものではないことを示すのに、氏は「輪廻というようなことを信じていると、むごい心になってしまう」、「やったら、されるのだ、されたら、仕返しをするのだ、こんな根性の人は、輪廻の通り返しを本気で信ずるわけです」等とものべ、その実在を全く認めようとせず、それを差別思想と考えるからである。
 
  氏にとって大切なことは輪廻の克服ではなく、輪廻を全く認めないことであり、それゆえ、「因縁話にしても、教祖の教えの中には、通り返しの話、したことがかえってくるとか、前世の何代前の因縁が今でてきて、こんな苦しみをつくっているのだよというようなことは別段説いていないのです。それらの話というものは、四千年も前から説かれていたいわゆる差別社会を守るための高山の説教であったわけです。」という歪んだ見方が平然となされるのである。
 
  ところで氏のこのような輪廻の教えイコール高山の説教との暴論の根底には、輪廻イコール差別思想の見方があり、輪廻はなるほど差別という価値判断と結びつきやすいものであるが、輪廻そのものは無色の価値中立的なもので、輪廻イコール差別思想との短絡視はできないのではないか。ゆえに輪廻は単なる高山の説教としてむげに否定できないのではないか。
 
   筆者は

    ・・・生まれ更わり聞き分けば、どんな理も治まる。・・・・( 補遺 M27.5.19

と教示されているので、輪廻(生まれ更わり)に実在を信じる立場に立ち、それを否定すると教祖の教えが成立しえないのではないかと考える。とすれば問題となるのは、輪廻と本教の「出直」、生まれ更わりの相違点である。どこに違いがあるのだろうか。


2014年6月13日金曜日

No.104 教理随想(55) 生まれ更わり(2)

   前置きはこのくらいにして、「出直」の教理がわれわれに何を教えるのか考えてみよう。
  先に引用したように「出直」とは、「古い着物を脱いで、新しい着物と着替えるようなもの」で、人間は死んでもまたこの世に生まれ更わってくるのであるが、この「着物」は人間が自由に着たり、脱いだりできるものではなく、心にふさわしく貸し与えられるものである。
  
  つまり「出直」はまずかしもの・かりものの教理を教えるのである。人間の身体は親神からのかりもので、借りている間は生命を持つが、「出直」によってかりものを返し、また新たなかりものを借りて、新しい生を始めるわけである。
 従って「出直」は、われわれに生命の尊さ、かけがえのなさを間接的に教えてくれるように思われる。
 
  古来多くの人は、死の問題を論ずるに際して身体と魂を分離し、身体は死によって解体して無に帰すものであるのに対して、魂は不滅で、死によって身体から自由になり、精神的な永遠の生に入る、と考えられてきたのであるが、このような思想はともすると、身体に対する精神の優位を説くあまり、身体を副次的な、それ自身価値をもたないものとして、軽視する危険性をもつであろう。
 
  これに対して「出直」によって教えられることは、魂は不滅であっても、この世を離れたところに永遠の生を認めず、あくまでこの世に生まれ更わりし、この世における身体的生命が問題とされる、ということであるから、そのような思想とは逆に、われわれに生命の重さ、かけがえのなさを間接的に教示するように思われる。
 
  本教において「着物」は精神と比べて価値の低いものではなく、親神の十全の守護が入り込んで働いている有り難く尊い存在である。
・・・人間にわみな神かいりこみ、なにのしゆうごもするゆゑに、人間にまされた神かないことなり。・・・(『神の古記』明治十六年本)と明示されるように、「着物」は人間の精神の足かせとなるようなものではなく、逆に神聖なものであり、「着物」を着せられていることは、「もはや奇跡としか言いようのない出来事である」(池田士郎氏『身体と信仰』)

 「出直」によって教えられることの第二点は、これまたかしもの・かりものの教理から派生してくる「心一つが我がのもの」という主体性である。次にこの点について考えてみよう。
 
  さて人間の生死のパターンについては、死によってすべてが終わるという人生一回説、死後極楽や地獄というこの世からかけはなれた場所での生を認める二回説、死後何度も生まれかわってくるという無限回説の三つに大別することができる。
 
  人生一回説は無信仰者の常識的な見方で、二回説は多くの宗教においてみられる死生観であるが、ともにこの世を無前提に考える点において不十分な見方である。
  一回説においては、この世における不平等、不運はすべて不条理とみなされ、ニヒリズムにおちいったり、あるいは刹那的な快楽主義に走ったりして、この世の生を全うできなかったり、二回説においては、この世からの逃避の場所があの世や霊界において空しく求められるだけで、これまたこの世の生を充実させることがむつかしくなる。
 なぜなら両方ともこの世を前世を前提にして考えるのではなく、この世をいわば根無し草のごとく考えるからである。
 
  これに対して「出直」は無限回説の立場に立ち、前生、今生、来生の時間相において人間を見ることを教えるが、この「出直」によってはじめて人間の主体性が真に成立することになる。主体性とは単に「心一つ我がのもの」としての自由な心遣いを意味するだけではなく、
           なんぎするのもこころから
        
           わがみうらみであるほどに(十下り七つ)

   ・  ・・たった一つの心より、どんな理も日々出る・・・(M22.2.14

  と教示されるように、成ってくる現実を自分の現実として真正面からうけとめることも意味するが、人生一回説、二回説においては、この世の生が前生なしに考えられるので、この世の不運の原因が自分以外のものに転嫁されることになりやすく、そこには真の主体は成立しないからである。
 
  前生において親神は前々生の心づかいと通り方に相応しい境遇を与え、「出直」に際して、一代の清算をされ、その結果がそのまま今生にもちこされて今生の生がはじまり、人生が展開されるのであり、それを認めることによって、この世における不条理に光があてられ、この世における救済が可能になるのである。
 
  このように「出直」よって真の主体が成り立つと言えるが、ここで注意しなければならないことは、出直して生まれかわってくる主体は、前生、今生、来生を通じて同一の主体であるということである。姿、形は当然かわるが、心の持ち主は同じでありつづけるということである。この点がはっきりしないと次のようなおかしな議論になってしまう。
 
  八島英雄氏の生まれかわり論をみてみよう。
 「教祖の生まれかわりの考え方は、ちょっと違うのです。つまり次を生んで、また次を生んでというように教えてくださったので、自分から子供、子供から孫、孫から曾孫というように、だんだんに成長し立派になっていくことを教えられ、そういうふうに生き続けて八千八たびを繰り返したということをおっしゃっているのです」(『ほんあずま』)
 
  矢島氏は「元の理」の八千八度の生まれかわりをこのように理解し、死後の霊については「教祖のお話はない」、「死んだ人間については何も語られていない」とのべて、その存在を否定している。したがって霊魂不滅を信じないで、親、子、孫へと生命が連綿と続いていくことを、生まれかわりとして解している。
  このような見方は、輪廻を遺伝子の相続と考え、親、子、孫へと遺伝子が受け継がれていくことを輪廻とみなす解釈(花山勝友氏『輪廻と解脱』講談社現代新書参照)においても見られるが、こうなると厳密には生まれかわりとはいえないことになる。

 
  なぜなら一つの生存が終わり、それを縁として他の生存が始まったというだけでは、前者が後者に生まれかわったとはいえず、生まれかわりとはあくまで同じ主体が、死後再び姿を変えてこの世に現れること、つまり転生を意味するからである。

2014年5月24日土曜日

No.103 教理随想(54) 生まれ更わり(1)

「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」(『教祖伝』一五二頁)
 
 これは秀司さんが明治十四年、六十一才で出直されたときに、教祖が秀司さんに代わられて仰せられたお言葉です。私たちにとって一番気になりながらも、一番理解することの難しい死、出直し、生まれ更わりについて(『あらきとうりょう』163、164号「出直」について、を加筆、転載)勉強させていただきます。

 哲学者ハイデッガーは、人間を「死への存在」と規定した。これは単に死に向かって進んでいる存在という常識的な意味だけではなく、死とは人事ではない自己の不可避の存在可能性であり、死の自覚によって、それまでの世間に埋没した自己とは根本的に異なった本来的自己にめざめるということ、また常に死を意識し、死の危険が迫っていなくても、自分の死について思いをめぐらし、不安や恐怖にかられる存在である、という意味である。
 
 人間にとって死は避けることのできない必然的な宿命であるが、死すべきものであるがゆえに必ずしも苦しむわけではなく、死の意味が分からず、不安、恐怖にかられる「死への存在」であるが故に悩むのである。それ故に古来宗教や哲学は「死とは何か」に種々の解答を与え、死を避けることなく、死を人生に積極的に位置づけることによって、死の苦悩から人間を解放しようとつとめてきたが、未だに十全なる解答を提示しえていないようである。
 
 このことはわれわれを死から守り、死の恐怖をやわらげるために貢献してきたと思われている近代現代医学についても同様である。
 なるほど今まで不治の病が医学の発達により予防されたり、治療法が見出されて助かるようになったり、平均寿命が延びてきたことは周知の通りである。しかしこのことはもろ手を挙げて喜べることとは必ずしも言えないと思われる。

 最近話題になっている脳死や臓器移植の問題は、死の時期の観点からすると、前者は死を手前にずらし、後者が死を先へ伸ばすことにほかならず、人間の死が医学によって、矛盾した形で操作されるという不気味な事態であるとらえるとき、「われわれを死から守ってくれると思っていた近代医学が、われわれの死を促進するのではないかという、新たな恐怖を与えるように」(河合隼雄氏『宗教と科学の接点』岩波書店 七七頁)なってきており、死への恐怖が医学の発達によって、逆に強められつつあるのではないか、とも考えられるからである。
 
  では本教において死はどのように考えられているのであろうか。
      『教典』とおさしづに、
 ・・・・身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもの・・・(七十頁)
     ・・古着脱ぎ捨てて新たまるだけ・・・
                              M26.6.12
と明示されるように、本教では死は肉体の単なる終わりではなく、この世で再び肉体を借りるために再出発すること、「出直」と教えられる。
 
 ところでこの「出直」は一般には直接に死と結びつかず、最初から改めてやり直すこと[この意味は「こころえちがいはでなおしや」(六下り八ツ)に含まれると思われるが、ここでは省いて考える]を意味するので、本教の用例は他に例をみないのであるが、「出直」が教語として死を意味するようになったのは、みかぐらうた、おさしづ(ここには「出直」は数例しかなく、生まれ更わりが圧倒的に多い)に「出直」の語があるにもかかわらず、決して古いことではない。おふでさきでは「出直」はなく、そのかわりに「しりぞく」、「むかいとり」、「てばなれ」、「かやし」等が使われ、またこふき本にも「はてる」、「クレル(崩れる)」、「しぼす(死亡)」等しか見られない。一体いつから「出直」が死の意味で使われるようになったのか。
 
 これについては教内において定説がなく、その詮索はあまり意味がないと思う。われわれにとって重要なことは「出直」をどのようにうけとめ、日々の生き方に映していくかであろう。では「出直」の教理はわれわれに何を教えるのか、またそれにまつわる問題は何か、を以下において考えてみたい。

 さて「出直」とは、
     ・・人間というは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・(M39.3.28

に示される生まれ更わりと同義であるが、この生まれ更わりの事実は、神の存在と同じく経験をこえた形而上的なものであるから、理論的には肯定も否定もできない。従って科学的に証明できず、信じるよりほかないものである。

 なるほど岡部金治郎氏のような科学者による推理科学的(氏によると自然科学の成果を重視しながら、自然科学の水準からある程度飛躍した仮定をおいて考えること)な次のような証明も考えられるかもしれない。
 
 『人間死ねば、肉体は、もちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう。・・・魂の核は生き通しのものだから、いつまでも熟睡が続けられるものではなく、いつかは、肉体に宿って、熟睡から醒め、活性状態になろう。つまり、いわゆる「生まれかわり」の可能性があることになろう。』(『人間は死んだらこうなるだろう』第三文明社 五七~五八頁)
 
 しかしこの説も魂の不滅、生まれ更わりの可能性を示唆する程度で、証明といえるもの
ではないと思われる。
 
 またトランスパーソナル(超個)心理学において、キューブラ・ロス等によって死後の生が単なる信、神話の対象としてではなく、科学知の対象として強調されたり、レイモンド・ムーディによって瀕死体験や医学的に死と判定された人の奇跡的な蘇生の具体的な事例がうんざりするくらいに多く紹介(『かいまみた死後の世界』レイモンド・A・ムーディ・Jr著 中山善之訳 評論社 参照)されたりしているが、これも人間は死によって無に帰すのではなく、死後の世界があることを暗示する程度で、生まれ更わりの事実を積極的に論証するようなものではない。

 「出直」、「生まれ更わり」とは結局信じるより他ないものであるが、このことは「出直」が非現実的で、事実に基づかないもの、不確かなもの、信憑性のないものであるということではない。
 
 河合隼雄氏の「科学者はアイ・ノウ(I know)といっていたけれども、それはそれほど確かなことではなく実はアイ・ビリーブ(I believe)なのではないかと考えられます。自然科学というのは絶対性を誇ってきたけれども、そうではなくて、一種のパラダイム、いわゆる自然科学的パラダイムによって世界を見ているというわけです。パラダイムが換われば、違うことがみえるということがある。
 
 つまりいままでアイ・ノウと思っていた人たちも、実際はビリーブにかなり規則付けられているのであり、アイ・ビリーブといっていた人も、実はまだまだアイ・ノウといえることがたくさんあるわけです。」(『G—TEN』天理教やまと文化会議編 第9号48頁)との指摘をまつまでもなく、信は相対的に過ぎない科学知と同じ地位、否むしろそれを基礎付ける地位にあって、積極的な価値をもつのである。

 科学哲学者のカール・ポパーは、科学の定義とは反証可能性、つまり常に反証ができることと考えましたが、これは科学による決定的な証明は永遠にできないこと、科学的真理とは所詮仮説に過ぎないこと意味します。(『99.9%は仮説』竹内薫著 光文社新書参照)

 従って、科学的に証明されないから価値がない、根拠がなく間違っているということは決して言えないのである。

2014年5月1日木曜日

No.102 教理随想(53) 陽気ぐらし(1)

 今回は「月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」(『教典』25ページ)という意味深長な文章を味わってみたいと思う。
 
まず「混沌たる様を味気なく思召し」人間を創造した、という箇所であるが、これは如何なる意味をもつのであろうか。
 一見すると「味気な」い、つまらない、面白くない、という偶然的な気まぐれから、人間が造られたように受け取れるが、決してそうではない。絶対者である親神が、泥海ばかりではつまらないから、という余りにも人間的な動機で、人間を創造するはずがないからである。
 
 そこで明治16年本の「神の古記」(中山正善著『こふきの研究』)をみてみると、「月日りよにんばかりでわ、神とゆうてうやまうものなし、なにのたのしみもなく、人げんをこんしらえ そのうえせかいをこしらえ、しゆごふさせば、にんげんわちよほ(重宝)なるもので、よふきゆさんを見て、そのたなにごともみられること」とあり、ここでは「神とゆうてうやまうもの」がないから、人間を創造した、と述べられている。
 
 つまり「味気ない」ということは「神とゆうてうやまうもの」がないこと、神を敬うことのできる主体者、自由をもった存在がないことを意味しているのである。
 したがってこの世の元初まりは泥海で、混沌としていて、そこには秩序もなく、物も何もないから味気ないというよりも、もっと端的に自由なる主体としての存在者がいないことが、味気ないことの理由であると理解されねばならない。
 
 ここでいよいよ人間創造となるのであるが、この創造は決して偶然的なものではない。「ともに楽しもうと思いつかれた」は、一見ある時偶然に思いついたように思えるが、そうではない。
 
 諸井慶徳氏が「神はただ即自的存在者たる限りにおいては、如何にその全一性を有し、根源性を保ち得ても、ついに神たるべき能動性を全うし得ない」(著作集第六巻114ページ)、「神は神たる存在に止まらず、神たるべき存在にならなければならない。神は神としての立場に安んぜず、神とされる立場に移らざるを得ない」(同書、115ページ)(極めて難解な表現であるが、神はいかに全知全能であっても、神だけでは全能性を全うできず、神とは独立の主体を必要とし、神とされる必要があるということ)と述べているように、あくまで必然的な展開なのである。
 
 ヘーゲルは、その弁証法論理において、即自から対自、さらに即自且対自への必然的移行を説いているが、ここでは神による人間創造であり、その展開は必然的なのである。
 次に「その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」の部分を検討してみよう。
 
 まず陽気ぐらしという人間創造の目的であるが、従来の宗教における創造説話においては、本教のように、はっきりとした人間創造の目的をもつものはない。
 『ムック天理』第二号「人間創造」には、世界各地の民族神話における人間、世界の創造が十七種類と、キリスト教の創世記が紹介されているが、そのいずれにも、何のために人間が創造されたのかという目的は示されていない。
 
 中国の神話には、女神が「さびしさ」から人間を造った、またミクロネシアの神話には同じように「一人でいることが空しい」からと記されているが、いずれも人間創造の単なる動機に他ならず「陽気ぐらし」というような積極的な目的は見当たらない。
 
 キリスト教においても「われわれのかたちに、われわれにかたどって人間を造り、これに海の魚とそらの鳥と、地のすべての獣と、家畜と、地のすべてのはうものを治めさせよう」(「創世記」)とあるだけで、何のために、は全く示されていない。
 
 本教においては「陽気ぐらし」という人間創造の目的は、
       月日にわにんげんはじめかけたのわ 
       よふきゆさんがみたいゆへから
               (十四,25)
にもみられるように、はっきりと示されているのであるが、このことは極めて画期的なことであり、この意味は深いといえる。
 
 なぜなら古来人間は、一体何のために生まれ、存在するのかという第一義的な疑問をたえず投げかけ、現代においても悩み続けているのであるが、この疑問、難問に人間の親なる神がはっきりと解答を出されたからである。
 
 仏教においては、生老病死一切皆苦と説かれ、生きていることそのことが苦痛とされ、この世からの逃避が強調され、またキリスト教においても、この世を苦の世界とみなし、あの世、彼岸をむなしく志向させるだけで、いずれも人間にこの世における生命を真に全うさせることができない。
 
 しかし本教では人間創造の目的が示され、この世で陽気ぐらしができることを教えられ、悩み、抗争にあえぐ世界の人々に、生きる希望を与えることになる。
 
 次に「陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」の箇所を見てみよう。
 ここで見落としてはならないことは、陽気ぐらしを「させる」ではなく、「する」のを見てとなっている点である。「させる」であれば、それは使役で、人間に自由がなく、ちょうど操り人形を扱うようにして、陽気ぐらしを実現するのであるが、それでは人間を造った意味がない。そうであればいかに人間と世界を造ったとしても、そこには親神しかなく、神は依然として「即自的存在者」に他ならず、また「味気なく思召す」ことになるからである。
 
 ところでよく、もし神がいるのなら、なぜこの世に諸悪がはびこり、抗争や戦争などの不幸が存在するのか、という一見もっともと思える疑問がだされるが、この問いは、自由という人間にとって貴重なもの、人間存在の根拠でもあるものをわすれる点で成立しない。
 
 なぜならもし人間に自由がなく、悪(といっても普通の意味ではなく、親神の思いに反する心)への傾向がないならば、人間は善のみを行なう自動機械のようなものになってしまい、そこには親神の意志しかないことになり、楽しみはないからである。
 
 真の楽しみは、他の自由なる主体がいてはじめて成立するからである。親神が自由をもたない人間を造り、それを操って陽気ぐらしを実現しても何の楽しみがあろうか。そのような問いを発するひとは、自分から自由をとってもらい、神の操り人形になることを望むようなものである。
 
 このように考えるとき、「させる」ではなく「する」となっていることが、いかにありがたいことかわかるのではないだろうか。
 親神はいつまでも気長く、子供であるわれわれが親の心を悟り、自発的に「陽気ぐらし」をするのを見て、ともに楽しむ、つまり神人和楽の世界を待ち望んでいるのである。


2014年4月2日水曜日

No.101 教理随想(52) 家族の絆(3)

清水 うちは上の子には小さいころからぜんぜんお小遣いもあげずに、買い与えたりもしませんでした。何か物を買うときも親の思いを通してたので、もう結婚してるのですが、いまだに買い物に行っても悩んで迷ってなかなか買えないって、この前一番上の娘に愚痴られたんですよ。

 でも衝動買いとかはしないので、かわいそうな反面安心感はあります。けっこうリサイクルショップとか利用したり、お友達同士で回したりして上手にやりくりしているみたいで。
 下の子が、新しく出たゲームをほしがっていたんですけれど、ありがたいことに即完売で、どこにも売ってなかったんです。そうこうしているときにうちの子が池中先生の子供さんに鼓笛で会ったときに「どうせすぐに飽きるよ、またすぐに新しいのが出るで」ってアドバイスをもらったんです。そしたら「私もそう思うわ」ってコロッと変わっていて、ゲームを買うことをあきらめてくれたんです。

池中 私も子供のときは何も買ってもらえなかったのですけれど、それでよかったなあ、親が徳積みしてくれていたんだなあと思えます。当時もらったスカートをずっと同じものをはいていたのですが、あんまり嫌やから自分ではさみでスカートを切ったんです。
 そして「お母さんこのスカート破れたからもう着られへんわ」と言ったら、次の日ちゃんと縫われていました。お母さんのほうが一枚上手だったんです。でもそれだけのことを今自分の子供になかなかできないんですね。やっぱり甘いなあと思いますね。

司会 結論として、お道を信仰している私たちができること、私たちがしなければいけないことは何でしょうか。

池中 よく会社などで「ほうれんそう」という言葉が使われていますが、報告、連絡、相談という意味で「ほうれんそう」をしっかりすることが大切と聞きますが、家庭の中でも「ほうれんそう」をしっかりしなければいけないと思います。

子供がまだ小さいうちは目の届く範囲にいるので何をやっているのかすぐに分かりますが、大きくなるにつれてそれぞれの行動範囲も広くなって、帰ってくる時間もばらばらだし、どこで何をやっているのか把握できなくなってくると思うので、いちいち聞くと嫌がるかもしれませんが、「今日どうやった?」「何時に帰ってくるの?」「これはどう思う?」など、家庭の中でもコミュニケーションをしっかり取ることで家族の絆も深まるのではないでしょうか。

清水 奈良の放火殺人の事件を聞いたときに、放火した子がかわいそうに思えたんですね、あの子は居場所がなかったんだってすごく感じたんです。それぞれどの子にも居場所が必要なんだ。学校でも、家でも、またそれ以外でもどこかに居場所があれば生きていけると聞いたことがあるんですが、あの事件を起こした子にはどこにも居場所がなかったんじゃないかってすごく思いました。

うちの子が学校でトラブルがあったときには、鼓笛隊という居場所があって仲間に支えてもらえたから乗り越えられたんだと思うんです。今は兄弟の少ない子も多いので、子供の友達とか遊びにきたときには鼓笛隊に誘っているんです。そうやってよその子供さんにもなるべくたくさん居場所をつくってあげられればいいと思います。

村上 おふでさきに、
                    せんしょうのいんねんよせてしゅごする
                    これはまつだいしかとおさまる
                              (1、74)と教示されています。
このおふでさきは一般的に結婚に関するおふでさきと解釈されていますが、すべての人間関係に関するものだと私は思います。夫婦、親子というのは同じいんねんではないと思うんです。
           おふでさきにも、
              おやこでもふう~~のなかもきよたいも 
              みなめへ~~に心ちがうで
                 (5,8)
とあるようにみな微妙に違っているんですが、それぞれのいんねんを納消するのにいちばんいい組み合わせになっていると思うんです。

 お互いが神様が選ばれたベストの組み合わせなんだということ。今の親子関係は親分子分みたいになっているように思えます。それは本当の親子関係ではない。子供というのは神様からお預かりしているものである、そういうふうな思いで子供を丹精させてもらう。その中に自分が親として成人させてもらえるのではないでしょうか。


司会 みなさん本日はありがとうございました。

No.100 教理随想(51) 家族の絆(2)

司会 ずいぶん古いデータですが、職場での事故の原因の90%は家庭の不和だという調査結果があるんです。このことからも家庭の治まりというものは本当に大事だと分かると思いますが、子供の前で夫婦げんかをしたり、子供さんに自分の弱いところは見せますか。また子育てで気をつけていることなど教えてください。

村上 最近は本当に離婚している家庭が多いですね。父性は規律を教える。母性は優しく抱きかかえる。たとえ夫婦が揃っていても両方が父性の厳しさだけを子供に教えるとそれは親心になっていないと思う。女性だからといって父性がないわけではない。だから母子家庭でも父性と母性をもって育てれば母親1人でも子供は育つ、反対に両親が揃っていても父性と母性の役割分担ができていなければ子供はちゃんと育たないと思います。

池中 うちは夫婦げんかというものはほとんどしませんね。自分が子供のころに親がけんかしているのを見たときにいちばん寂しい気持ちになったので、子供の前では特にしません。特に繕ってるわけでもない。うちの場合は先ほど村上先生がおっしゃてたように父性も母性も会長さんがやってくれるので(笑)、私は何もしていません。

 それから、なかなか自分の子供を褒めてやるというのができないんですよね。しかってばっかりで。押さえつけていたかなと思う。人の子には良く頑張ったねって言ってあげられるのになんで自分の子にはそれが言えないのかなって。 それと陰口はいけないなと思います。子供は聞いているんですよね。「おかあさん、あんなこと言ってたで」とかぽろっと言われるとドキッとしますね。本当に子供って親の言っていることをしっかり聞いてますね、顔色もよく見ていますしね。

清水 子供が大きくなってきて、子育ての方針がこんなに違うんだというのが出てきました。 上2人の子供にはとにかく厳しくしないといけないと思っていたのですが、やっぱり反発があって、子供の意見も聞いてあげないといけないということに気がつきました。ですから子供の様子や学校であったことなどを聞くようにしています。
以前下の子のクラスが学級崩壊のようになったことがあってうちの子にも影響があったときにも早く気がつけたのでなんとか乗り切ることができたことがありました。

子供が全部私たち親に話してくれたのでよかったのです。学校にいる時にストレスをためていたので、家では励ましてあげていて、今はいいクラスに恵まれているようで、今ではそういう悩みを抱えている友達に自分の経験からアドバイスしてあげたりしているみたいです。身近でやっぱりそういうことがあるんですね。聞いていたら今の小学生は忙しいんですね。おけいこ事とかでストレスがたまってそれが人に攻撃的になる原因なのかな。

司会 よその子を叱れますか?

池中 なかなかできないですね。そこまで親身になれてないのですかね。

清水 普段から知っている子ならまだいいのですがどういう子かまったく分からない子にはやっぱり言えないですね。以前に上の子が中学生のときにちょっと学校が荒れてて、学校の外で中学生が悪いことしてても注意しなくていいですと先生から言われて、でも目に余ったら警察に電話してくださいと言われたことがあって、それが心に残ってて、もし注意して危害を加えられたらどうしようとかいう心配もあってなかなか言えないですね。

村上 昔は先生というものはとても怖い存在だったんです。だから親も子供が悪いことをしたら親も怒るけれども、先生に怒ってもらっていたんですね。今は親が怒れないんですね、もし子供が目に余るようなことで他人が注意したらその子の親は普通なら感謝しなければならないところが逆に注意してくれた人に怒ってしまうわけです。

司会 この前にいわゆる大阪のおばちゃんに出会って、ものすごく感動した話を聞いたんです。
 それは自分の子供が小さいときの話で、誕生日に手帳を買ってあげたんですって、するとその手帳を近所の子供がすごく気に入って、黙って持って帰ってしまったんです。それに気がついたその子供の親が謝罪の電話してきたそうです。「うちの子が手帳を持って帰ってきてしまった申し訳ないです」と。
 
それに対しておばちゃんは何て言ったかというと、「今すぐ子供を連れて謝りにきてくれ」と言ったそうです。そしてすぐに手帳を持って子供を連れて謝りにきたそうです。そのおばちゃんを見るやいなや玄関先で土下座して謝ったそうです。
そこでおばちゃんは子供に何て言ったか「あんたは自分のお母さんにこんな姿をさせて平気でいられるのか。あんたのしたことでお母さんはこんなに恥をさらしているんだ。二度としたらあかんで」と懇々と言い聞かせて、そして三人手をとって泣いたっていうんですね。
 
池中 すばらしいですね。子供が万引きして親が謝りにいって逆にお店の人に「お金払ったらいいんやろ!」と居直ったりすることがよく見受けられるけど、そうじゃなくてこの場合自分の子もそうだし人の子も同じような思いで間違ったことをその場で正す、自分の子も人の子も同じ感覚でしておられることがすごいことだなと思いますね。
それが今なくなってきて人は人、自分は自分と希薄な人間関係が問題になっていますよね。私たちはよふぼくなのですからこのおばちゃんに負けないように頑張らないといけませんね。

村上 子供もそうですけれど、まず親がなってないから、その親を何とかしなければいけないと思いますね。しつけはいくらでもつけられると思うんです。
私たち家族が教会を出て泉北ニュータウンへ移ったころ、子供たちは五歳、三歳、一歳だったのですが、子供たちにまず物の不自由さに耐えさせようと思い、朝食は端パンにしました。子供に物を与えるときに必ず理由付けするんです。端パンというものは食パンの端で栄養がここに集中しているんだよ、と。そして絶えず「もったいない、もったいない」と言い続けました。
すると子供たちも学校やよそでも、もったいないと自然と言うようになりました。しかし、不自由もやりすぎるといけないんですね。私たちが子供のときと同じようにやってしまうと、ついてこれなくなりますからね。そして子供には親の思いを押し付けたりせずに、しっかりと意見も聞いてあげることが大切ですね。