ところで「たんのう」には諦めや忍耐、我慢にはない楽しみ、喜びが要素としてあり、「ふし」、成ってくることが楽しみとうけとられるのであるが、、一体なぜであろうか。
なぜなら「ふし」は先にみたように親心の現われであるから、と教えられるが、では親心の現われとは何を意味するのであろうか。
まず第一に「ふし」が先にみたように、親神による人間の心のほこりのそうじであることと考えられる。
ほこりの教えは、ともすると仏教の宿業やキリスト教の原罪にくらべて浅薄にうけとられ、心のほこりは信仰によって簡単に払われ、救済にあずかることができると楽天的に考えられやすいが、決してそんな生易しいものではない。
『教祖伝逸話篇』(130、小さな埃は)の中の
「どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。」
との教祖のお言葉は、「新建ちの家」を成人した人、悟りを開いた人、解脱した人と解し、「目張り」することを世間を離れて出家することと理解すると、人間はいかなる人も、この世に生きる限り、ほこりを積まないことは不可能で、ほこりのそうじを忘れると、多くのほこりをつむことを教えるが、間接的には宿業、原罪にも匹敵するくらいのほこりの多さ、ほこりの根強さを教えるものであるといえよう。[「わしでもなあ、かうして、べつまへだてて居れば、ほこりはつかせんで。けれども、一寸、台所へ出ると、やっぱり埃がついてなあ」、「わしは懺悔する事はないといへば、いきはないものやで」『正文遺韻抄』152頁』との教祖のお言葉も同じ意味をもつと思われる。]
また本教においては「生まれ更わり」が説かれ、この世一代だけではなく、前生、前々生、さらにはそれ以前の過去生におけるほこりまで問題とされるので尚更である。
親神は人間のこの心のほこりを、つとめとさづけ、人だすけを通して、人間が自分で払うことを望まれるが、たとえそのようにしても、ほこりの量はあまりにも多く、今生一代ではとても払いきれないので、人間を何度も生まれかわらせ、「ふし」によって親神が強制的にほこりのそうじをし、「ふし」通して人間が自分でほこりのそうじの続きをするように急き込むのではないだろうか。
・ ・・たんのうは前生いんねんのさんげ・・・
・ (補遺 M30,11,19)
と諭されるが、これはしたがって「たんのう」とは、「ふし」を親神による人間の心のほこりのそうじと喜んでうけとめ、これからは自分でほこりのそうじをすることを決意するという意味であり、この点において「たんのう」が単なる満足ではない、と考えることができるのではないかと思われる。
第二の意味として、「ふし」を大難を小難にして見せてくださることと考えられる。
このことは分かりやすく説明すると、今仮にほこりを数量化して、十のほこりが残っているときに、親神は全部のほこりのそうじを、一度の「ふし」によって(もしそうなら人間はとっくに生存を許されていないであろう)するのではなく、十のうち例えば二、三のほこりのそうじを、いくつかの小さな「ふし」を通してするようにしてくださる、だから「ふし」が有り難いということである。
したがって「大難小難の道」(M23,10,20)
とは、信仰によって大難を小難ですましてもらうということではなく、親神が大難によって強制的にほこりをそうじするのではなく、小難によるそうじですまし、残りのそうじを人間に委ねるという親神の親心のあふれる、お計らいという意味であると思われる。