次に陽気ぐらしの教理に基づく「ふし」にたいする見方をみてみよう。
この見方はいんねんの教理に基づく見方とは逆に、未来から現在を見て、「ふし」を人間をたすけたい、陽気ぐらしをさせたいという親神の思い、親心の現われとしてうけとる見方である。
おふでさきには「みちをせ」(道教え)、「てびき」、「ていり」(手入れ)、「せきこみ」、「よふむき」(用向き)、「をもわく」等の言葉が数多く見られるが、これらはいずれも「ふし」を意味し、「ふし」は人間創造の目的である陽気ぐらし、たすけが将来において実現されるための手段とみなされる。
したがって「ふし」は罰のような悪しきもの、人間にとってあってほしくないものではなく、陽気ぐらし、たすけの実現のためには、むしろなくてはならないものとして積極的な意義をもつようになる。
このことは次のおふでさきから、はっきり理解されるであろう。
にち~~にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる
(十四,35)
それしらすみなせかいぢうハ一れつに
なんとあしきのよふにをもふて
(十四,36)
(後者のお歌の「あしきのよふにをもふ」ものとは、親神の教えという漠然としたものではなく、親神が「ふし」を通してたすけを急き込んでいるのに、教えがわからない者は、その「ふし」を悪しきものとうけとっていると解される。)
ところでこのような見方は、いんねんの教理に基づく見方が過去志向的で、暗く悲愴なひびきをもつのにたいして、明るく、将来に向かって生きる勇気をふるいおこさせるが、この未来―現在の見方も一面的であるため、この見方だけでは、いんねんの教理が軽視され、現実を遊離した軽薄な信仰になったり、陽気ぐらしも単に「ふし」のない状態というように表面的にしか理解されず、「ふし」と陽気ぐらしが切り離され、外的にしか結びつかないという問題が生じてくる。
「ふし」と陽気ぐらしとは、究極的には陽気ぐらしは「やますしなずによハらん」、「せかいよのなかところはんじよ」といわれるように、「ふし」のない状態となるが、今の成人段階では両者は相互否定の相容れない関係ではない。
それでは「ふし」と陽気ぐらしとはどのように結びつくのか。また「ふし」は親神が人間を「たすけるもよふ」で、たすけに結びついているものであるなら、いったいどのような意味で結びついているのであろうか。
「ふし」を過去、未来からではなく、現在、「ふし」の根底に立脚して考えるとき、「ふし」を与えられること自体どのような意味をもつのであろうか。次にこのような問題を考えてみよう。
おふでさきに、
このよふにやまいとゆうてないほどに
みのうちさハりみなしやんせよ(三,23)
と教示されている。また、
なにゝてもやまいいたみハさらになし
神のせきこみてびきなるそや
(二、7)
このそふぢむつかし事であるけれど
やまいとゆうわないとゆておく
(四、109)
とも述べられているが、これは一体どのような意味であろうか。
教内においては「病とは人間の心得違いを知らせ、それを改めさせる手段に過ぎず、神のほうから見れば本来ないものである」とか「病とは実体のない影のようなもので、常に親神に向かっているとなくなる、気にならなくなるものである」等の解釈があります。
これでは「病とは心一つの持ちようによって、各自が感じているに過ぎない虚像のようなもの」ということになってしまいます。
もしこのような意味であるなら、病は単に否定的な、あってほしくないもの、ということになるでしょう。
ではどのように考えればいいのか。
「やまいとゆうわない」とは、そのような病という現象の有無という意味ではなく、病の意味に関することで、病はこれまで考えられてきたような悪しきもの、たすけと相容れないものではなく、それは「親神がほおきとなって、銘々の胸を」掃除される篤い親心のあらわれ」(『天理教教典』69頁)であること、つまり病とは親神によるいわば強制的な心のほこりのそうじであり、間接的なたすけでもあることを意味しているのではないだろうか。
(「病んで果たす者もある」(M33,7,25)にみられる「果たす」は、したがって親神による心のほこりのそうじと理解される)
次のおふでさきの意味を考えてみよう。
このかやしみへたるならばどこまでも
むねのそふぢがひとりでけるで
(十六,16)
このお歌はふつう、「心通りが現れればどうして澄み切るのか。それは、心の汚れが分かるから掃除するのであって、それを気づかせてくださり、どうでも掃除をせずにおれぬようにしてくださる」と解釈されるが、この解釈では、あくまで人間がそうじをすることになり、掃除が「ひとりでける」ことにならないのではないか。
親神にとっての「むねのそふぢ」とは、人間のとっての心のそうじ、心を澄み切らせることと同じような、現実、実在と直接結びつかないものではなく、
にち~~にむねのそふぢにかゝりたら
どんなものでもかなうものなし
(十二,73)
このそふぢどふゆう事にをもうかな
月日たいないみな入こむで
(十二、74)
このよふをはじめたをやか入こめば
どんな事をばするやしれんで
(十五,61)
からわかるように、現実にある出来事が生起してくることであるから、「ひとりでける」とは、心通り現れてくることが、直接的に親神によるそうじである、と考えられるのではないか。
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