「結構や、結構や」(『教祖伝逸話篇』二十一)
を見てみよう。
これは山中忠七が入信して五年後に、持山が崩れ、大木が埋没し、田地が土砂に埋まるという大被害をうけたとき、教祖から「さあ~~、結構や、結構や。海のどん底まで流れて届いたから、後は結構やで」と諭されるという逸話で大難を小難にしていただいたことが結構である、と理解されているが、それだけではなく、大被害をうける「ふし」によって、ほこりのそうじをしていただいているので有り難い、結構である、ということを教える逸話としても見ることが出来ると思われる。また、
・・・ずつない事は「ふし」、「ふし」から芽を吹く。やれ「ふし」や~~、楽しみや、
大き心を持ってくれ。・・・・
(M27,3,5)
・ ・・怖わい中にうまい事がある。・・・
・ (M29,4,21)
・ ・・やれ怖わい恐ろしいという中に、楽しみ一つの理がある程に~~~。・・・・
・ (M29,4,25)
等に明示されているように、「ふし」が「楽しみ」、「うまい事」であるのも、「ふし」が親神によるほこりのそうじであるという観点から理解できるのではないかと思われる。
ところで病はまた、神の「ざ(ん)ねん」
、「りいふく」[「やまいでわない をやのさねんや」(十四,77)「やまいでハない 神のりいふく」(一,32)]とも教示されているが、これはどのような意味であろうか。
けふの日ハどのよな事もつんできた
神のさんねんはらすみていよ
(十七、33)
・・・残念の理程怖いものは無いで。残念の理一代で行かにゃ二代、二代で行かにゃ三代、切るに切られんいんねん付けてある。これは退くに退かれん理によって。なれど神に切る神は無い。・・・ (M24,1,28)
等の神言は、神の残念が一見すると、キリスト教における神の怒り[「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ、3,36)]と同じものとして、うけとられるかもしれないが、神の残念と怒りとは決然と区別される。
なぜなら神の怒りにおいては、神は「切る神」で、愛が神の本来的なわざであるのにたいして、怒りは神の非本来的なわざ、あってはならないもので、怒りによって人間は救いをしりぞけられ、切り捨てられる。
しかし神の残念においては、
月日にもざねんりいふくはらしたら
あとハめづらしみちをつけるで
(十三,36)
このさきのみちをたのしめ一れつわ
神のさんねんはらしたるなら
(十二、72)
と教えられるように、残念をはらすことは救済の間接的な条件、いわば親心の発現で、むしろなくてはならないものなのである。
ではなぜ残念と言われるのであろうか。
たん~~とふでにしらしてあるけれど
さとりないのが神のざんねん
(四,47)
この事ハたれでもしらぬ事やから
むねがわからん月日さんねん
(七,44)
そばなるにいかほど月日たのんでも
きゝわけがないなんとさんねん
(九,41)
等における残念は明らかに人間に向けられているが、
とのよふなせつない事がありてもな
やまいでわないをやのさねんや
(十四、77)
の残念は親神に向けられ、立教以来人間に、たすけ一条の道として、つとめとさづけを教え、それによって人間が自発的に心のほこりをそうじして、たすけられることを期待してきたのに、期待をはずされ、親神が人間に代わって「ふし」を通してやむを得ず、強制的にそうじをしなければならないということ、それが残念であるということではないだろうか。
したがって立腹も親神に向けられて、自発的にそうじをするように人間を思うように成人させられない自分に腹が立つということになるのではないだろうか。
おふでさきの中で、残念という言葉は全部で九十五回、最後の十七号においては十五回、五首に一回の割ででてきて、神の残念の思いは、
この心神のざんねんをもてくれ
どふむなんともゆうにゆハれん
(十七,70)
と言われるまで昂じてくるが、この残念も単に人間にたいする思いで、人間が神の言うことを聞かない、信じないことや、人間の成人の鈍さにたいする思いと考えるとき、残念の外への表現である「かやし」、「ふし」は心得違いにたいする罰や神の怒りと同じもので、親心の発現とはおよそ縁のないものになってしまうのではないかと思われる。
しかし残念とは単に人間に向かうものであるのみならず、親神にも向かい、自分で心のほこりをそうじしようとしない人間に代わって、そうじをしてやらなければならないことに対する思いであると考えることによって、「かやし」、「ふし」が親心の発現で、それゆえにわれわれにとっては有り難いご守護でもあることが理解されるのでないかと思われる。
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