まず第一の主体性についてみてみよう。
われわれは「かしもの・かりもの」の教理を、神が身体を貸与しているのであるから、われわれを拘束する、主体性をうばう教理としてうけとってはならないことは言うまでもない。
そうではなく「かしもの・かりもの」によって主体の真の所在が示されるのであり、われわれの自由の根拠が明らかにされるのである。
・・・人間というものは、身はかりもの、心一つ我のもの。・・・ (M22,2,14)
によって示されていることは、われわれの主体(魂の問題があるが、ここではふれない)は心一つであるということであるが、この心一つはわれわれの自由の根拠であり、人間の尊厳を示すものであるが、反面では一切の運命の起点として、われわれを厳しくとらえてはなさず、どこまでも責任をとらせ、他に転嫁させることを許さないものであり、その限り人間の主体を制約するものである。
なんぎするのもこころから
わがみうらみであるほどに
(十下り目、七つ)
・ ・・たった一つの心より、どんな理も日々出る。・・・ (M22,2,14)
との人間に甘えを許さないお言葉は、現代のように科学が万能視され、神話化されている時代において今尚根強い運命からの逃避、責任転嫁を排し、運命に真正面からとりくませ、その立て替えを強く求めるのであるが、この運命と立てかえも、人間は神の子にほかならず、神とは心一つにおいて断絶しているが、身体、物的環境において連続していて、われわれの心一つによって神からの恩寵に浴することができるという「かしもの・かりもの」の本義を解さない限り不可能であるといえよう。
ところで人間は心一つにおいて神と断絶し、次元を異にするのであるから、本教の信仰の究極目的である神人和楽は、単なる神人合一ではない。
増野鼓雪氏は『選集 第三巻』の中の「神秘と真理」題する一節の中で「人間は神様の子供だから神様にならねばならん」(184頁)、「人間と神とが合一する事によって、神秘の世界にはいることができ」(190頁)、「第六感の機能が特に発達」(193頁)し、「神様から啓示を受け」(190頁)ることができると述べ、神秘主義的神人合一を説いているが、このように考えると、神と人間とは心一つにおいて同次元ということになり、その断絶面が消えてしまう極めて傲慢な信仰になってしまうのではないか。本教の信仰から逸脱するのではないかと思われる。
神人和楽とは神人合一ではなく、神と人との親子団欒、談じ合いの関係であり、「人間を親神との談じ合い的存在として見ることこそ、天理教的人間観の根底をなす」(深谷忠政氏『天理教教義学序説』132頁)といえるのであるが、このことは「ほこり」の教理からも言えるのではないかと思う。
「ほこり」の教理はキリスト教の原罪や仏教の業、宿業とちがって、われわれを宿命論から救い、積極的な人生観をうちたてる教理であるのみならず、神人関係が「談じ合い」の関係であることを示す教理であるように思える。
一般に信仰は、われわれの主体性をなくし、無我になることによって、神仏と一体となることを目的とすると考えられやすいが、「ほこり」の教理は自我をなくすのではなく、自我を澄み切らせ、神と一体になるというより、澄み切った自我が、成ってくる現実を通じて神と対話することを教えるように思われる。
したがって、
・ ・・神は心に乗りて働く。・・・
・ (M,31,10,2)
との一見増野氏の神人合一説を裏付けるようなお言葉も、神と人が一体となって、人間が教祖のような月日の心になって神格化するという意味ではなく、あくまで人間の心を神が見て、澄み切るに応じて、より神が働くという何ら神秘主義的色彩のないものとして解釈されねばならないと思う。
「心一つ我がのもの」によって教えられていることは、運命の真の所在と、神の子として神人和楽、親子団欒を求める神の言うことを、なってくる現実を通して謙虚に聞かなければならないということである。
次に第二のポイント、生命の貸与が最高の御守護であるとの、つい見落とされやすい見方について検討してみよう。
さて従来の宗教的人間観においては、どちらかというと人間の精神面が重視され、身体、生命(あくまで有機的、物質的)については、木石と同じようなものとして扱われ、その存在意義は無視、軽視されがちであった。
仏教、キリスト教においても、一部例外があるが、身体、生命については積極的意義をみとめられず、むしろ信仰の邪魔もの扱いされてきたのであるが、身体が救済の足かせとなっているところには、この世における「陽気ぐらし」は説かれず、せいぜい、あの世、彼岸における天国や極楽か、この世における現実を遊離した精神、魂のみの救いが空しくとかれるに過ぎない。
そこで本教の「ここはこの世の極楽」との教えが、クローズアップされてくるのであるが、そうであれば当然「かしもん・かりもの」の生命観も、単にそれ自体意義のない生命を親神からお借りしているというような単純なものではなく、もっと深い意味をもつはずである。
ところで本教においては、従来親神による人間創造の秘業が、人間創造の元一日として強調されてはいるがその元一日が今、ここにわれわれが生かされていることと直接に(といってもわれわれにとっては「生まれかわり」、「出直し」によって媒介されているが)結びついている点については、軽くみられてきたように思われる。
つまり人間創造の「元初まり」が、単なる過去の事実、出来事としてのみ、考えられてきたように思われる。
この点について次のおふでさきを検討してみよう。
いままでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら
(七,35)
この意味は「なんの事やら」といわれているように難解でいろいろ解釈されている。
「今」を入信したときと解し、「入信したときが、陽気ぐらしの世界の始まり」でそれが「その人にとっての、この世の始まりである」との解釈や、「今がこのよのはじまり」を、
このよふをはじめかけたもをなぢ事
めづらし事をしてみせるでな
(六,7)
から理解して「つとめによって『元初まり』と同じ働きをあらわして人間をたすける」との解釈もあるが、どちらも不十分ではないかと思う。では「今がこのよのはじまり」はいかに解釈されるのか。