「水を飲めば水の味」との一見当たり前で何の変哲もないように思えるお言葉には、本教教理のエッセンスが濃縮され、くめどもつきない深い味わいがあり、われわれの心を強くひきつけてやまないのであるが、前述のように、それは燃えるような「生命の讃歌」に等しいお言葉であり、この讃歌をぬきにして「貧におちきる」ことを語ることは、その意義を軽視するか、歪めることに他ならないと思われる、。
「水を飲めば水の味」にみられる救済観を少し検討してみよう。
さて先述したように「水を飲めば水の味」によって、生かされていることが最高の御守護であるとの救済観が示されているのであるが、この本教独自の救済観はしたがって単に心さえ救かれば、身体、物はどうでもよい、というような現実を遊離したような救済観ではない。
また今ここにあるがままの現実を、詭弁を弄して即救済の成就である、と認めるような神秘的な救済観でもない。また物、自己への執着を根強く残したまま、形の上のご守護にのみこだわる救済観でも無論ない。
そうではなく形、物の上の目に見えるご守護をご守護として受け取ることは、もちろんであるが、それにとどまらず今、ここにこうして生かされていることが第一義的なご守護であり、ここから身上や事情がなくなる等のご守護が第二義的なものとして派生してくることを教える救済観である。
本教においても「やますしなすによわらん」、「百十五才ぢよみよ」、「りうけいがいさみでる」、「せかいよのなかところはんじよ」等のご守護が説かれるが、それらは決して明日の幻想的なご利益ではなく、われわれにとっては現実的で切実な、結果として与えていただかなけれならないご守護である。しかしいかに喉から手の出るくらいほしい切実なものであっても、あくまで第二義的なご守護であり、第一義、第二義の本末を転倒してはいけないことを教える救済観である。
本居宣長の『神のめぐみ』と題する一節を少し長いが引用してみよう。
「たとへば百両の金ほしき時に、人の九十九両あたへて、一両たらざるが如し、そのあたへたる人をば悦ぶべきか、恨むべきか、祈ることかなはねばとて、神をえうなき(用のない)物にうらみ奉るは、九十九両あたえたらむ人を、えうなきものに思ひてうらむるがごとし、九十九両のめぐみを忘れて、今一両あたへざるを恨むるはいかに」(『玉勝間』下、岩波文庫226頁)
つまり生かされているということは「九十九両のめぐみ」で、物、形の上のご守護は、たとえそれが巨億の富であっても、所詮一両いや一分、一朱にも満たないもの、その得失に一喜一憂する価値のないもの、第二義的なものにすぎず、心の成人に応じていくらでも結果として与えていただける、ということを教える救済観である。
われわれはともすると、いかなる逆境、物質的貧困にあっても、その中、心倒すことなく生かされている喜びを忘れることなく、人だすけにつとめると、そのうちに状況が変わり、物に恵まれ、運命がよくなってくる、との見方が「貧におちきる」道中によって示されていると考えやすい。
したがって
いまのみちいかなみちでもなけくなよ
さきのほんみちたのしゆでいよ
(三、37)
のおふでさきが、人だすけの上で貧に落ちきっている人を勇気付けるために、よく引用されるのであるが、ここにある「さきのほんみち」とは単に一粒万倍の形の上のご守護だけを示す言葉であるはずがない。
したがって先のお歌の意味は「今は苦労の道中を通っていて、つらいかもしれないが辛抱してくれ、そのうちに褒美を与えるから、それを楽しみにしていよ」というような意味ではなく、むしろ「今はまだ心の成人ができていないので、物や自己への執着が強く、貧はつらいものかもしれない。しかし人だすけを通して成人するにつれて、執着、欲の心がとれて、貧にあっても、裕福であっても、もはや物にとらわれない楽しみづくめの生活、生かされていることが有り難い最高の御守護と悟れるような見方がおのずとできるようになってくる」と解されねばならないと思われる。
「さきのほんみち」とは一時的に欲望を抑えるだけの禁欲の過程をへて到達される、形の上の万倍の御守護に浴するような卑俗なみちではなく、形の上の御守護に執着しない、貧にあっても、財があっても、、楽しみづくめの「ここはこのよのごくらくや」において示されている境地であり、生かされていることが最高の御守護と悟れる、「生命の讃歌」を高らかに歌い上げる道なのである。
しかしこの「生命の讃歌」における生命の肯定は、欲望、本能、情念、感性等をあるがままに、直接的に是とするような卑俗なものではない。また単に人間的生命だけが讃えられる人間主義でもない。
そしてこのような意味での「生命の讃歌」こそ、他宗と決然と一線が画される本教独自の教えであり、対立抗争にあえぎ、物質的繁栄に酔いしれ、酔生夢死の生き方をしている現代の多くの人々にまさに希求される、世界に真の平和をもたらす教えなのである。
ところでこの「生命の讃歌」の基礎となる教えが「かしもの・かりもの」の理にほかならないのであるから、教祖は「貧におちきる」ことによって結局「かしもの・かりもの」の理(「神の懐住居」、「一列兄弟」は視点が違うだけで同じ教えである)を教えられた、ということになる。
次に「かしもの・かりもの」の理を詳しく検討してみよう。
さて、
めへ~~のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん
(三,137)
のおふでさきを引用するまでもなく、「かしもの・かりもの」の理は、本教の根本教理で、本教の信仰は、この教理に始まり、この教理に終わると言ってもいいくらいであるが、この教理には次の二点が大切なポイントとしてあるように思われる。
第一は真の主体性で、この教理によって人間の主体の所在と根拠が示される。そして第二は今まで述べてきたように、つい見落とされやすい生命の貸与が最高の御守護との見方である。
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