2012年2月3日金曜日

No.68 教理随想(19) 「ひながた」の一考察(3)


 このような主観的解釈は、
「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」(『教祖伝逸話篇』四)
・・・難儀不自由からやなけにゃ人の難儀不自由は分からん・・・  M23,6,12
等において、また「貧におちきる」ことを一切の人間思案を捨て、心を裸にして親神の思召どおりになること、つまり神一条になることとみる解釈においても示されているが、結局物を手放すことによって、心の執着を取り去ることを目指しているという点で共通していると言える。
 つまり「貧におちきる」ことは、心のほこり、執着をとるということになるのであるが、しかし単に心の執着をとり、神一条で通ることを教えるために、また物や形の上で不自由する中に、人の苦しみや悩みがわかる人間になることを教えるためにのみ、教祖は二十五年もの長きにわたる「貧におちきる」道中を通られたのであろうか。

 なるほど神一条で通ることが、本教において大切なことは言うまでもない。しかしただ神一条と言うだけなら、およそ宗教において神一条を強調しないものはないから、特に本教独自のものとは言いがたい。
 問題は神一条の内容である。また形の上で自ら進んで不自由することによって悩める人と共感する、といっても特に本教独自のこととはいえない。とするなら「貧におちきる」ことは、他宗においても表現こそ違え、みられるにすぎないようなものなのか。もし他宗と異なる本教独自の点があるとすれば何か。この問題を次に考えてみたい。

 さて『教典』六頁に、
「教祖は、世界の子供をたすけた一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された。」
と記されているように、「貧におちきる」御苦労はわれわれ人間をたすけたい一心から通られた道中であることは、「世界一列をたすけるために天降った」との立教におけるご宣言を引用するまでもなく明白であり、このたすけ一条を除外して「貧におちきる」ことの意義は考えられないのであるが、一見自明のことのようにみられる、たすけ一条と「貧におちきる」ことがどのようにつながるのかと考えると決して明らかではない。
 「程越し」の施しによって貧しい人を救けられた、と一見思われるが、実際に施しをうけた人が、ほとんど道についていない史実をみるとき、一時的に物質的困窮を救うために貧に落ちきられたとも思われない。

「大きなたすけ一条の道の確立に向かうという大前提の最初の段階としての『貧に落ちきる』道」(矢持辰三氏『ひながたを温ねる』9頁)との解釈をみてみよう。
 この解釈によると「貧におちきる」道中によって、教祖は「たすけ一条の道の確立」を目指された、ということになるが、「たすけ一条の道の確立」といっても、それが具体的に何を意味するのかあきらかではなく、それを「ひながた」の後半二十五年において急き込まれる「つとめ」と解しても、「つとめ」の前段階として「貧におちきる」道中があるというにすぎず、「つとめ」と「貧におちきる」ことがどのようにつながるのか分からない。

 ではたすけ一条と「貧におちきる」ことはどうつながるのか。
 私見によれば「貧におちきる」道中は、たすけ一条の道中ではあるが、貧しい人をたすけることが直接の目的ではなく、人間をたすけるに当たって、従来自明のごとく思われてきた人間とは何か、また神とは何か、神と人間とはいかなる関係にあるか、たすかるとはどのようなことか、これらのことを「貧におちきる」という常軌を逸した御行為によって示されたと思われる。
 したがって世界に向かっての本格的なたすけ一条は、
  よう~~ここまでついてきた
  じつのたすけハこれからや
      (三下り目、四つ)
(「これから」とは深谷忠政氏『みかぐらうた講義』によると、元治元年のつとめ場所のふしん以降)と示されるように「ひながた」の後半二十五年において展開されることになる。
 
つまり教祖は「ひながた」後半の中心となる「つとめとさづけ」を教えられるに先き立ち、「貧におちきる」道中によって、人間にとって救済の完成、成就とは何かという救済論を理屈抜きで、まさに命をかけられて教えられたのであるが、それが従来のものと根本的にことなるものであるが故に、常識はずれの御行為となったのであり、そしてその救済論を後半の二十五年において「つとめとさづけ」、「元の理」として基礎付けられ、さらに展開されていかれたと考えるのである。

 またこのように考えることによって従来並列的に並べられ、どちらか一方にのみ重点が置かれて論じられてきた「ひながた」前半、後半の「貧におちきる」ことと「つとめとさづけ」の関係が、救済論のいわば実践篇と教理篇のごとき相補的、必然的なものとして理解できるのではないかと思われる。

 ではまず「貧におちきる」ことによって示された人間観、救済観とは何かみてみよう。
 さて先に引用した、
「物を施して執着を去れば、心に明るさが生まれ、心に明るさが生まれると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける」との解釈は「貧におちきる」ことの代表的な解釈として、よく引用されるが、ここに述べられている執着とは何か、また執着をとるとはどういうことか考えてみよう。
 執着というとふつうは物への執着、つまり物質本位の考え方、物や財産の多寡が幸不幸に結びつくとの見方とうけとられ、この物への執着が物に恵まれているにもかかわらず、さらに求める心となり、日々不平不満をもたらし、不幸の一番の原因になるとみなされる。そこでこの物への執着をとるために、物や財産を施すのであり、それによって物にこだわらない不動の心、喜びの心が生まれ、陽気ぐらしが実現される、と説かれるのであるが、この物への執着が物を一切施しても、簡単にとれないところに、「貧におちきる」ことの難しさがあるのである。

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