2012年2月11日土曜日

No.69 教理随想(20) 「ひながた」の一考察(4)

われわれは物への執着は、物に恵まれているから生じるのであって、物を手放せば、それで執着をとることができると思いやすいが、よく考えてみると、物に恵まれた人よりも、かえって形の上の貧にある人のほうが、物への執着が強い場合もあり、物がなくても執着が生じるのであるから、物を手放せば執着を取ることが出来るとは単純に割り切れないのである。

 物への執着とは、単なる物へのとらわれであるのではなく、その本質は物に対する我がもの意識、排他的自己意識であり、利己的な自己、つまり、
    ・・俺が~~というは、薄紙貼ってあるようなもの。先は見えて見えん。・・・・
           (M24,5,10
において戒められている高慢な自我が、執着心の根底に深く潜んでいて、それが対物、対人関係において、をしい、ほしいという物へのよくとなり、またにくい、かわい、うらみ、はらだちという自己中心の高慢のほこりとなって現れてくるのである。
 八つのほこりとは、このように考えると、物への執着であるよくと、その根底にある自己への執着、高慢の二つに集約され、物への執着をとることを通して、結局自己への執着をとることを教えられたのである。

 ところでこの自己への執着とは、教祖が嘉永七年(母屋とりこぼちの翌年)のをびや許しをはじめる際に言われた「人間思案は一切要らぬ」の人間思案でもあるから、これを捨て親神の思召どおりにすること、つまり神一条になることを「貧におちきる」ことによって示されたとの解釈が成り立つように思えるが、しかし先述したように、神一条といっても、本教独自のものではなく、その内容が明らかにされない限り、「貧におちきる」ことの解釈として不十分であると思われる。

では神一条とは何か。
一般に神一条というと、人間思案、人間性を否定した神のみの立場、そこでは人間が無に帰してしまうような主体性なき立場が意味されているように思われやすい。しかし本教においては、従来考えられてきた、また他宗において見られるような立場であるではなく、「人間の真実の生き方、本当の在り方を会得させ」、「最も人間を価値あらしめて行く上の神一条」であり、「人間生命の根を培うこと、これがこの神一条の道」(『諸井慶徳著作集』第7巻1~3頁)なのである。

神一条とは、このように「人間生命の根を培う」つまり人間の根拠、在り方を明示する道であり、此の限り「貧におちきる」ことによって教祖がわれわれに示された根本精神であると言えるのである。
 つまり「貧におちきる」ことによって、「人間の生命の根」、われわれ人間は親神によって生かされているという厳粛な、全ての人間に無条件に存する確固たる生命の根源を教えられたのである。

 「貧におちきる」という日常性を破壊する徹底した御行為によって、教祖は人間の存在、自己そのものを、ただそれだけで実在する、自明のものとして前提する「あざない」人間、つまり人間の生命の根底については、何も知らず、いわば根無し草のごとく、うつろに行方知れずただよい、目で見え、手で触れることのできる様々な形や動きのみを関心の対象としている「いぢらしい」人間、存在の根拠から遊離して、虚しい自己を絶対化し、異常な欲望と執着のとりことなって、ニヒルな気分にむしばまれているこの人間をたすけられるに先立ち、人間の生命の根拠を開示され、しかもその根拠が「唯一の大いなる奇蹟「(滝沢克己著『宗教を問う』170頁)であり、人間にとっては生かされていることが「絶対無償のこの神の恵み」(同書268頁)であり、「ただ感謝してこれを認めるほかない」(同著『現代の事としての宗教』281頁)事実であることを教えようとされたのである。

教祖が母屋とりこぼちの後に通られた赤貧のどん底の生活の中で仰せられた、
    ・・・水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。・・・・
        (『教祖伝』40~41頁)
とのお言葉の真意は、そのような観点から理解されなければならないと思うのである。
 
「水を飲めば水の味」とのお言葉を検討してみよう。
 普通このお言葉は、
・・・枕元に食べ物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さん言うて苦しんでいる人・・・(『教祖伝』40頁)とちがって、われわれは健康に生かされている、だから有り難い、と「健康」にポイントが置かれて理解されるのであるが、それにとどまらず、「生かされている」ことにポイントを置いて、生かされていること自体が有り難い、生かされていること自体が第一義的な最高の御守護であることを意味していると思うのである。

なぜなら「水を飲めば水の味」の境地は「貧におちきる」ことによって、自己への執着をとり、心澄み切った末に到達される境地であるから、もはや健康や病気、苦楽、貧富(「どれ位つまらんとても、つまらんと言うな。乞食はささぬ」の意味もこの境地に立ってはじめて理解される)等にとらわれず、それらを相対化しうる境地であり、しかも「水の味」という現実的な生命感覚に立脚し、生かされていることを第一義的に享受する境地だからである。

「水を飲めば水の味がする」とは、したがって単に生かされている喜びがわかるとか、物への執着をとった後の単なる精神的な救い、魂の救いを示されたものではなく、まさに
  ここはこのよのごくらくや
  わしもはや~~まゐりたい
         (四下り目、九つ)
の境地であり、神人和楽の陽気ぐらしとは何かを、つまり人間にとって救済の完成、成就とは何かを端的に示されたお言葉なのである。

 「水を飲めば水の味」によって示されていることは、人間は親神によって生かされていることと、生かされていることが最高のご守護であるとの、これまでの人間観、救済観を根本からくつがえす教えなのである。
 「水を飲めば水の味がする」と一見赤貧のの中で淡々と物静かに語られているように思えるが、教祖はそれによって燃えるような「生命の讃歌」(飯田照明氏『ムック』四号33頁)を朗々と歌い上げられ、それを「つとめとさづけ」、「元の理」を通して人間に伝えんと御苦慮されたように思えてならないのである。
二十五年もの長きにわたる御苦労、いや「ひながた」五十年の御苦労も、まさにこの点にあった、と思われる。

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