2012年5月13日日曜日

No.80 教理随想(31) 「元の理」と科学




今回は「元の理」の表現様式である神話(従来の神話と同一次元のものではなく、神による象徴的な話という意味)と科学における知識のあり方の相違について考えてみたい。
 
一般に日常的、科学的な知識によって表現されず、「どじょう」、「かめ」等の動物を使って象徴的に、具体的なイメージによって説明されている「元の理」は、荒唐無稽な前近代的で克服されるべき遅れた低級の知識、神話にすぎず、科学の発達とともに霧消していくものと考えられがちである。

 また動物の具体的イメージによって表現されたのは、聞く相手が知的レベルの低い農民であり、内容を単にわかりやすくするためであったと考えられやすい。
 がはたして「元の理」はおとぎ話で、非科学的な話であろうか。
 また単に内容をわかりやすくするために、象徴的な表現になっているのであろうか。

 一般に科学こそ正しい真理を伝えるもので、神話は虚偽との価値判断がなされやすいが、科学の知とは一体何であり、どのようなあり方をしているのであろうか。
 まず科学の知の対象をみてみると、科学的であることは、実証的であることから、実際に観察、実験が可能で、かつ数量化しうるものだけが対象となる。

また科学の知とは、実在するものの質的な相違、多義性、意味、価値等を度外視し、質的なものを量的に(例えば音を音波の振幅の大小によって、色を光線の波長の長短によって)説明するという抽象作用によって、また理論化という抽象作用によって成立するのであるから、単に実在するものの一面に関わるにすぎず、実在をあるがままに捉えているわけではない。
 したがって科学の知は、実在するすべてについての知識ではなく、単に部分的、一面的な知識にすぎないのである。

 ところでこのように言うと科学はまだ未発達であるから、いまはそうかもしれないが、将来すべてのものを対象とし、科学によって解明されないものはなくなる、という見方がでてくるかもしれないが、科学の限界は、今現在においてだけの程度上のものではなく、科学に内在する原理に由来するものである。

 なぜならこの世界には、科学の立場からは原理的に肯定も否定もできないような、生と死、人生の意味、目的、価値、理想等の個人に関わる実存的な問題、主体としての精神、絶対的な存在等が数多く存在するからである。

このような科学の限界については、科学の認識方法についても、不確定性原理における観測の問題によっても指摘されている。
 近代科学の方法の中心となったのは、分析加算方法、物を最も単純な要素に分解し、それらの要素の性質を明らかにすることによって、全体を再構成する方法である。これによって物の研究において大きな成果をあげたが、現在では素粒子を扱うミクロの物理学において、例えば電子の位置を決めようとすると電子の速度があいまいになり、速度を決めようとすると、位置があいまいになって要素の不確定性がふえ、電子の運動の状態を正確に知ることができない。また電子が粒子と波という相反する性質を同時にもっているために、これまでの分析的方法を適用できなくなっているといわれている。

 また要素と全体の関係についても、全体は要素に依存すると同時に、要素も全体との関連においてはじめて成立するから、分離された要素をいくら集めても、決して一つの全体にならないことが、特に生命現象の研究において明らかにされている。

 このようにみてくると、結局科学の知とは、いかに精密になり、量的にふえても、実在するものの一部に光をあてる一面的で不完全な知識であるということになる。
 したがって科学が全能か、限界はあるのか、という反省や批判の精神を失って科学を妄信することは、それは反科学的な独断ということになる。

 この科学の知にたいする神話の知とはどのようなものであろうか。
 最近科学への過信が反省されるようになって、人々の神話への関心が種々の立場から高まっているといわれている。
 特に構造主義者のレビイストロースによると、神話とは宇宙、世界の秩序や現在あるものを、太古の具体的なイメージ、出来事をつかって説明しているので、科学とあまり異なっておらず、神話においては異なった論理が使われているに過ぎないと考えられ、神話の持つ意味が高く評価されている。

 では神話における科学と異なった論理、考え方とは何であろうか。
 科学の知においては、観察する主体と対象の自然とは徹底的に区別され、自然は必然的な因果関係に従う機械的なものとして、切り離して考えられる。しかし神話においては、「元の理」において「一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も漸く区別できるように、かたまりかけてきた」と示されているように、自然と我々人間とは生きた有機的なつながりをもったものとみなされる。

 無機的な自然(光、水、空気、土等)も生けるものとして擬人化されるので、現代人からは古代の精霊信仰、アニミズムの復活として批判されるのであるが、生態学(エコロジー)を見るとき、その批判は当たらないと思われる。
 生態学においては、無機的な自然と生物(人間を含む)の共存共栄関係、両者の有機的なつながりが解明されつつあるからである。

 また神話は科学のような抽象的な概念によってではなく、動物や月日というような天体等の具体的なイメージ、象徴によって語られるが、これは知的レベルが低いことを示すのではなく、ふつうの経験をこえる実在や現象の根底、不思議な働き等は、もはや抽象的概念によっては表現されえないからである。
「象徴というものは、そのいわく言い難いものに表現を与え、それによって人間の心魂の奥深い所に働きかけ、それをゆり動かすもの」(松本滋氏第三巻82頁)であり、それを理解する者のレベルに応じて様々な悟り、解釈を可能にし、また行為にかりたてるものである。 

 したがって神話の知は、科学の知と異なり、われわれの生き方に意味、方向性を与えるが、これは人間には現実の生活の中で見失い、科学が無残にも切り捨ててきた宇宙の神的な秩序や生命の故郷への郷愁があるためであり、また人間とは常に生きる意味や自己了解を求める存在でもあるからと思われる。

 しかしまさにこの点において、現代においても科学、技術、財貨、政治等における神話が、それと気づかれずにつくりだされ、それによって無知の大衆が巧妙に操作されるということがおこりうるのである。

 したがって我々に求められることは、神話を非神話化したり、理論から神話性を取りのぞくことであるよりも、むしろ神話の中身、構造をじっくり吟味し、神話の指示するものを深く考え直すことであるといわなければならない。「元の理」についてもおなじことであると思われる。

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