2012年5月3日木曜日

No.79 教理随想(30) 「元の理」と神話

 益田勝美氏は『ムック』第二号において「元の理」には「ほんとうの神話が、しかも従来のどの伝承とも全く別のたぐいまれな思想をたたえた新しい神話が、創造されている。」(173頁)と述べているが、では「元の理」は従来の神話と一体どの点において異なっているのだろうか。
 今回はこの問題について考えてみよう。

 さて従来の古今東西の神話との相違について色々あげられると思うが、人間創造の目的、意義が「陽気ぐらし」として明確に示されていることについては、説明するまでもない。そこでここでは「元の理」においては、焦点があくまで人間におかれ、人間中心の創世説話になっている点についてまず検討してみよう。

 村上重良氏は『ムック』第二号において「こふき」神話と記紀神話と題する論文をのせ、記紀神話は古代における天皇の全国土の政治支配を正当化し、その政治権力を基礎付けるために編成された政治神話に他ならず、日本の国土の創成は語られても、人間創造の意義にはふれられていないのに対して、「こふき」神話は、徹頭徹尾、人間本位の神話であると、述べている。(168~169頁)

 また益田氏は「こふき」神話が、当時の政治権力によって弾圧されたのは、記紀神話と同じ神名を使っているという理由によるというよりは、官憲がむしろ「こふき」神話を貫流する「強靭な生命力」にショックをうけ、それが自分たちに向けられていると本能的に感じたからと推論し、「元の理」は、「人間出現の意義の大きさ」、「人間存在の重み」を教えるものである、と述べている。(174頁)

 ではこの人間本位の神話、「人間存在の重み」は、具体的には「元の理」、「こふき」話のどの点にうかがえるのであろうか。
 
 「神の古記」(明治十六年本)によると、次のように説かれている。
 「とろのうみに、月日りょにんいたばかりでわ、神とゆうてうやまうものなし、なにのたのしみもなく、人げんをこしらゑ、そのうゑせかいをこしらゑて、しゆごふさせば、にんげんわちょほ(重宝)なるもので、よふきゆうさんを見て、そのたなにごともみられることとそふだん(相談)さだまり」
 
  つまり人間世界創造のときの順序が「人間をこしらえ、その上世界をこしらえて」と、あくまで人間が先になっている点にうかがえる。

 「元の理」においては「一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別できるように、かたまりかけてきた」、「五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て」と示されているように、人間の成長の過程と天地創造の過程が表裏一体となっている点にもうかがえるように思われる。

 キリスト教の創世記によると、五日間の天地万物の創造のあと、六日目に人間創造となるのであるが、この場合、神の栄光、創造の業に重点がおかれ、人間そのものは、「土のちりで人を造り、それに息を吹き入れた」と記されるように、神の栄光の前の、卑小な存在にすぎないものとしてみなされることになる。
 
  また「神の古記」の「人間は重宝なるもので、陽気遊山を見て、その他何事も見られる」というような人間観は、他の神話には絶対に見られないものと言えよう。

 ところで「元の理」は「過去的理解にのみとどまってはならず、現在的理解を必要とする」(深谷忠政著『元の理』9頁)のであるが、その現在的理解も「今までは陽気ぐらしの出来なかった人間(日常的人間)が元の理を理解実践して、陽気ぐらしの出来るおたすけをいただく信仰的成人の姿が元の理にしめされている」(同書10頁)というような象徴的理解、信仰体験に基づく実存的理解にとどまるのではなく、「今の今、現在生きている人間が、突き詰めて言えばまさしくこの自分が、いかに生かされて生きているか、という生命の根源に関わる話」(松本滋著『陽気ぐらしへの道』81頁)として、理解されなければならないと思う。

 松本滋氏はそのことを、
「身体の中に、また心の働きの中に、うなぎがいるのです。かれいもいるのです」、「みんな一緒になって整然と泳いでいるのです。それらが、ぬくみ、水気という基本的な神の働きと調和しつつ、みな力を寄せ合って、人間という不思議なものを構成しているのであります」(同書90頁)とわかりやすく説明している。

 次に「人間存在の重み」については、九億九万年の「水中の住居」を検討することによって考えてみよう。
 この「水中の住居」は文字通りうけとるとき、人間は「五尺になった時・・・陸上の生活をするようになった」のであるから、五尺になるまで海の中で生活をしていた、ということになってしまうので、あくまで象徴としてうけとられなければならないのであるが、その一つの意味は「親の懐にいだかれて、全く無意識のまま、ごく自然のまま人間が生かされていた」(松本滋氏『GTEN』 第三号59頁)こととして理解するのが妥当ではないかと思う。

 松本氏は人間は智恵、文字の仕込みによって、自己意識をもつようになり、今日の科学文明を築いているが、人間が自己意識をもって自立できるようになったのは、十億年を一年に換算して、一月一日から人間創造がはじめられたと考えるとき、十二月三十一日午後十一時五十五分ぐらいになり、「水中の住居」の中で、自己意識をもつようになる以前の人間を抱きかかえて育ててくださった年限がいかに長いものであるかを分かりやすく説明してくれている。

 ところで「水中の住居」については、松本氏の解釈とともに、それをさらに敷衍する次のような解釈も可能ではないだろうか。
     いままでハがくもんなぞとゆうたとて
  
    みえてない事さらにしろまい
                     (四,88)
 このお歌の「みえてない事」とはふつう「これから先の未だ少しも目に見えていない事柄」(『おふでさき講義』)として解釈されるが、
     いかほどにみえたる事をゆうたとて
  
   もとをしらねばハかるめハなし
                     (四、81)
のお歌が「みえたる事」は「もと」に支えられて今ある、と解されるなら、「みえてない事」とは、今現に見えない根拠として考えられるのではないか。そして将来の見えない事柄は、その根拠に含まれるということになるのではないだろうか。また、
     いままでも今がこのよのはじまりと
  
   ゆうてあれどもなんの事やら
                     (七,35)

 このお歌も「天保九年、この世の表に親神様がお現われ下されて、いよいよ本当の陽気ぐらしを、この元のぢばにおいておはじめ下されたのです。ですから、これはやはりこの世の初まりである、入信した時が、その人にとってのこの世の初まり」(『おふでさき講義』)と解されているのであるが、そのような意味だけではなく、今現われているものの根拠についてのお歌で、「このよのはじまり」は今現在の存在を支える根源でもあると考えられる。なぜなら親神は永遠の現在において実在する時間を超越する存在で、「このよのはじまり」と今われわれの生かされている現在は親神にとって同時であるからである。

 このように考えるとき、「水中の住居」とは、現在あらわれて見えているものを支えているみえない根拠、根源であり、それがいかに大きなものであるかを「水中の住居」によって教えられているのではないだろうか。
 われわれはともすると、 
     それよりも神のしゆことゆうものわ
  
   なみたいていな事でないぞや
                     (四,125)
     これからわ神のしゆごとゆものハ
  
   なみたいていな事でないそや
                    (六、40)
     月日よりたん~~心つくしきり
  
   そのゆへなるのにんげんである
                     (六,88)
等のお歌を、親神の人間創造のときの御苦労、五尺の人間に育て上げるまでの御苦労としてのみ理解し、今現在における人間を育て、成人させる上での御苦労を見落としがちになるが、「水中の住居」によって教えられていることは、まさに今現在の「なみたいていな事でない」御苦労ではないだろうか。

 また「水中の住居」と智恵、文字の仕込みの年限の比率は、十億対一万、十万対一であるが、この比率は今現在のわれわれの生命における見えない、意志の及ばない働きと、目に見える、自己意識による働き、意志の及ぶ働きの比率と考えることもできるのではないか。
     いままでにないたすけをばするからハ
  
   もとをしらさん事においてわ
                     (九、29)
 この「もと」は単なる過去の起源ではなく、現在の根拠、根源であり、それを教えない限り、「つとめ」を教えることができず、真のたすけも完成しないから、親神はわれわれに一見荒唐無稽にみえる、単なる昔話、神話に思えるような「元の理」を教えられたと思われる。
 

4 件のコメント:

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  4. お答えを頂けないようなので質問は削除しました。三・一のパクリ疑惑の件も三・一批判の立場ではどうでもいいといえばどうでもいいので。
    ただし、「人間そのものは、『土のちりで人を造り、それに息を吹き入れた』と記されるように、神の栄光の前の、卑小な存在にすぎないものとしてみなされることになる」という文言は再考を要すると思いますよ。聖書において人間は「卑小な存在にすぎないもの」などではなく、たとえば詩篇8篇には人間創造への驚きと賛美が表わされています。
    「人間が何であればとて、あなたはこれを思い起こし、ひとの子〔が何であればとて〕、これを心にかけられるのか。/あなたはこれを神よりもわずかに欠けたものとし、栄光と栄誉をこれにかむらせ、/あなたの手の業をこれに治めさせ、すべてのものをこの足の下に置いた。」(5~7節.岩波版OT)云々とあるとおりです。

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