2011年10月29日土曜日

No.54 教理随想(5) 出直し(5)

 この判定を自分なりに下す前に、『おふでさき注釈』にのせられてある、牛馬にかんするお歌の実例として説かれたと言い伝えられている話をそのまま引用し吟味してみよう。

 『某女は邪険な性質で、教祖様に数々の御恩をうけながら、お屋敷の前を通っても立ち寄る事さえしなかった。それ程であるから、人々に対してもむごい心遣いが多かった。教祖様は常にそばの人々に「報恩の道を知らぬ者は、牛馬におちる」とも「牛見たようなものになる」とも仰せられた。果たして、某女は、明示七年から歩行かなわぬ病体となり、二十年間いざりのような姿で家人の厄介になってこの世を終わった』

 簡単にまとめると恩に恩が重なり、いざりとなって苦しみ、出直したということになるが、問題は「いざり」となったことの意味、その姿と牛馬とがどのように関わるかということである。
 「いざり」となったことは、単に第一段階にすぎず、来世牛馬に生まれかわって、今までのつぐない、恩返しを無理やりさせられることになるのか、あるいは「いざり」という歩行困難な姿が牛馬とみえる道、「牛見たようなもの」であり、来世も人間として生まれかわることになるのか、そのどちらであるかという点である。

 『おふでさき注釈』によると前者ということになるが、私見によると後者の意味に解するほうが本教の教理より考えて、よいのではないかと思う。
 言うまでもなく、本教教理の根幹は陽気ぐらしで、いんねんの教理も、これに基づいて考えられねばならないが、従来のいんねん論は、どちらかというと、仏教的な因果応報と同じようなものとして、したがって牛馬道も文字通り牛馬道として、忘恩の徒にたいする罰のようなものとしてみなされ、説かれてきたように思う。

 たとえば肺病の人に対しては、肺病の病気によって牛馬の先き道、来世牛馬になることを知らされているのであるから、普通の人間らしい生活を捨て、土間にむしろを敷いて寝ることによって、いんねんの納消はできる、というような諭しがなされ、それなりの布教上の効果をあげてきたと思うが、このような説き方は、本教の教理の根本から少しはずれているように思われる。

 このことは『教典』の一部が改正され、「元のいんねん」(人間は陽気ぐらしができるように創造された)が強調されるようになったことからも言えると思われる。
 「にちにちにをやのしあんとゆものわ たすけるもよふばかりをもてる」(十四、35)のお歌から、忘恩の徒の罰として牛馬に生まれかわらせて、人間に酷使されたり、食べられたりすることが、「たすけるもよふ」であり、親神の慈悲であるとはどうしても思えないのである。

 また「理はみえねど、みな帳面につけてあるもおなじこと、月々年々あまればかやす、たらねばもらう、平均勘定ちゃんとつく」(M25,1,13)の中の「たらねばもらう」には、足らねば牛馬に生まれ変わらせてでも恩報じを強制的にさせるという意味があるのかと考えると疑問に思える。このおさしづはあくまで人間に当てはまるのであれば、「たらねばもらう」には人間として生まれる中に、いろいろの節をみせられることによって、平均勘定をつけられるということではないだろうか。

 このように見てくると、牛馬道とは、牛馬そのものではなく、あくまで人間として生まれながら、牛馬のように人間的自由を失った姿で生きなければならない、という意味であり、それが牛馬そのものと受け取られたのは、本教の草創期に強かった仏教の因果応報の思想の影響によってではないかと思う。

 ところで教内には次のような出所不明の話を論拠にした牛馬論があるが信憑性は極めて少ないと思われる。
『ある日のこと、白牛がお屋敷の前を通った。教祖様はそれをご覧になって、「あれはおかのの生まれ変わりや」仰せられ、かつその牛に近寄って「お前もこれで因縁果したのや」と人に諭すが如くに優しくお話しきかせになった。その後まもなく、その白牛は死んだとの事』(この話については山澤為次氏が『復元』第三号四二頁において、作り話ではあるまいか、と述べている)

 また『天理教校論叢』第二二号に芹澤茂氏の「牛馬考」(この中で人間から牛馬への転生が論証されている)が掲載されているので興味のある方はのぞいてください。

 では諸井政一氏の『正文遺韻抄』の「動物の進歩について」の教祖のお言葉は、どのような意味をもつのだろうか。
「動物の進歩について」のポイントになる部分を引用してみよう。
 「生物は、みな人間に食べられて、おいしいなあといふて、喜んでもらふで、生まれ変わるたび毎に、人間の方へ近うなるのやで。さうやからして、どんなものでも、おいしい、おいしいと言うて、たべてやらにゃならん。なれども、牛馬といふたら、是れはたべるものやないで、人間からおちた、心のけがれたものやからなあ」

 ここには人間から牛馬、牛馬から人間への転生がはっきりと示されているのであるが、これを文字通り受け取れないとすると、一体何が意味されているのだろうか。
 まず西山輝夫氏の解釈をみてみよう。
「私たち人間は生き物を殺して食べることが許されているとはいえ、それは必ずしも無条件ではないのであります。その条件というのは、せっかく、いのちあるものを食べることを許されているのだから、そのかわり、おまえたち人間はそれに十分感謝し、それによって得られたエネルギーをもって互いに助け合って生きるように努力せよ、と親神様はいうておられるように思われます」(『ひながたを身近に』187頁)、「生き物でも何でもそれが親神様のお与えであってみれば、おいしいといって食べることが、物を生かす道であり、自分もまた生かされる道であることを知るのであります」(同頁)

 つまり西山氏によると「動物の進歩」によって、われわれが食べ物にしている生き物への恩が教えられ、その恩返しとして人救け、物を生かす道が示されている、と理解されているが、はたしてこのような意味だけであろうか。
 西山氏の解釈は、極めて常識的ですぐに思い浮かぶ解釈ではあるが、「動物の進歩」にはもっと深い意味があるのではないだろうか。

2011年10月28日金曜日

No.53  教理随想(4) 出直し(4)

さて輪廻の原義は流れること、生あるものがさまざまの形態の生をくりかえすことを古代インドにおいて意味し、それが仏教に入って具体的に五趣(天上、人間、畜生、餓鬼、地獄)あるいは六道(人間と畜生の間に阿修羅が加わる)として転生する世界が明示され、これが業の思想と結びついて、善き行いには来世での善き結果、よりすぐれた人間や天人への生まれかわり、悪しき行いには下等な人間、動物への生まれかわり等々と説かれ、人間に道徳的行為をすすめる積極的な役割とともに、宿命論という消極的な役割をもはたし
後世に至るまで多大の影響をおよぼしているのである。

この輪廻においては、輪廻の輪からの脱出、つまり解脱が人間にとって目指されるべき究極の理想であり、救済の成就と説かれる。
仏教においては、生まれかわる世界が人間界より上等の天上界であっても、それが輪廻の一部である限り、決して永遠に平安な世界ではない、と考えられているので、もはや生まれかわらないこと(生まれかわらなくなった人間は仏陀とよばれるが、それがどのような人間なのか、また生まれかわらなくなった人間はどのようになるのか、仏教において具体的に示されていない。それゆえに生死即涅槃というような考え方がでてくるのであろう)が苦からの解放であり、救済の完成ということになるが、本教においてはこの世に人間が何度も生まれかわりで出かわりしつつ、救済の目標であるこの世での陽気ぐらしに向かって成人していくと考えられている。

本教においては人間創造の目的は、この世における神人和楽の陽気ぐらしの実現であるから、生まれかわらないことが救済の成就である、と考えることは絶対にできないのである。 、

 次に輪廻においては人間から動物(畜生)への転生が説かれるが、本教においては、この問題はどのように、考えられているのだろうか。
 諸井政一著『正文遺韻抄』にのせられてある「人間の数について」を少し長いが引用して検討してみよう。

 「元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、生き物が出世して人間とのぼりているものが沢山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、ああうらやましいものや、人間になりたいと思ふ一念より、うまれ変わり出変わりして、だんだんこうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらうたものが、沢山にあるで」(153頁)

 ここには動物から人間への進歩(?)とともに人間から動物への退歩(?)が「牛馬におちて居る者」という言葉によって示されていて、人間の数が元の子数より増えている訳が教えられているのであるが、人間が牛馬におちること、牛馬が人間に転生することは文字通りに受け取ることが果たしてできるだろうか。

 言うまでもなく引用した文章は、教祖の御言葉に基づくものであり、後世の人の作り話であるとは、まず考えられないから、問題はそれをそのまま受け取るか、あるいはたとえ話として、当時のいかなる人にもわかる話として、受け取るかであり、どちらであるかは「牛馬におちて居る者」の解釈いかんによる。
 「いままでハぎうばとゆうハままあれど あとさきしれた事ハあるまい」、「このたびハさきなる事を此のよから しらしてをくでみにさハりみよ」(五、1,2)

 この二つのおふでさきの意味は『おふでさき注釈』によると「これまでから牛馬におちる、牛馬におちると説く者もあるが、如何なる者が牛馬におちるか、又如何にして牛馬の道から救われるか、今日まで明らかに説き諭した事はないから、だれも知らないであろう」、「この度は、身に障りをつけて、来世の事をこの世から知らしておくから、現れている我が姿を見てよく反省せよ」と解され、牛馬は文字通り牛馬とみなされている。また「来世の事をこの世から知らしておく」とは、今世うけている病気によって、来世牛馬に生まれるかどうかを知らせる、という意味として解されている。

 ところが「だんだんとをんがかさなりそのゆえハ きゆばとみえるみちがあるから」(八、54)のお歌の場合、『おふでさき注釈』によると「恩に恩を重ねたならば、さいごには牛馬に等しい道におちるの外はない」と解され、牛馬は、牛馬に等しいもの、つまり牛馬そのものではなく、牛馬とみえる、牛馬のようなものとして受け取られているのであるから、この場合は人間は牛馬におちないということになる。

 先のお歌の「ぎうば」と今のお歌の「きゆば」の「う」と「ゆ」の文字の違いが、そのような解釈の違いをもたらしているとは、とても思えないが、『おふでさき注釈』による限りでは、二つの解釈が成立するということになる。(もっとも後のお歌の「牛馬とみへるみち」を牛馬のような道と解さず、来世には牛馬になることがみえている道とうけとると、牛馬はあくまで牛馬であるとの先のお歌と同一の解釈とみなすことができる)
 では一体どちらが正しいのであろうか。

2011年10月27日木曜日

No.52 教理随想(3) 出直し(3)

 では矢島氏によると前生いんねんも否定されることになるのか。
 氏はその問いに対してとまどいを示しながら、「過去の積み上げでもってこの体はできているのですし、また過去の積み上げでもって意識の世界、無意識の世界、心の世界までできているのです。それで今までの経験でもってものの考え方もある程度決まっているのです。」(『ほんあずま』九八号)と一応過去の影響をみとめながらも、「前世、前々世のこと、先祖のことなどは、今の幸、不幸を支配するほど強くは意識の世界にはのぼってこないのです」[この意味はよくわからないが、前世、前々世のことは、幸、不幸にほんのわずかしか影響がない、と理解する]とのべて、前世いんねんを何とか否定しょうとしている。

 氏にとって大切なのは、「現在の心づかいというものは、陽気ぐらしに生きようと思い、助け合いをすれば幸せになれるし反対に殺し合いに借りものを使ったら、途端に不幸せになってしまうほど、幸せ、不幸せを決定的に決める重要な要素なのです」からわかるように現在の心遣いなのであるが、このような議論はよく考えてみると、過去から将来に目を転じさせ、前生いんねんという合理的思考のつまづきとなる問題を巧妙にさけ、常識的な理解へとわれわれを導くだけにすぎないように思われる。
いかに現在の心づかいを強調しても、過去を前提としてなってくる現実(特にわれわれにとって不都合な)をいかにうけとめるかの問題の解決は全くできないからである。
      
・・・後々誰の生まれ更わり言えば世界大変。一つ事情よう聞き分け~~・誰がどう、彼がどう、とは言わん。想像これ一つどうもなろまい。・・・・(M31,4,29
は決して生まれ更わりを否定しているのではなく、誰の生まれ更わりの詮索を制止しているところに、かえって生まれ更わりの真実性が間接的に教えられ、前生が直接的に分からず不透明であることは、親神の慈悲であることが同時に教えられているように思われる。

 したがって氏のような生まれ更わり論は、単に目先の生起する現実にのみとらわれ、なってくる現実の深みにまで入り込まない近視眼的で浅薄なもの、楽天的なものにすぎず、教祖の教えに基づいた見方であるとはおよそ言いがたいと思う。

 次に「出直」は生まれ更わりで、仏教の輪廻と同じように見られやすいが、それと同じものか、違うとすればどの点か、について考えてみたい。
 仏教の輪廻について考える前に、まず八島氏の輪廻観についてみてみよう。
 さて輪廻の教えとは氏によると
「前生よいことをした人間が、よい身分に生まれ、前生悪いことをした人間が悪い身分に生まれて、裁かれた結果できている正しい社会なのだから、上の者はあぐらをかいてのうのうと食っていろ、下の者は食べられないで苦しんでも物を捧げ命を捧げて今生を通りなさい、そうすれば来世よくなるよ、こういうふうに言ったのがこの輪廻の教理であるわけです」(『ほんあずま』)と解され、この考え方はインドのバラモン教に由来するとみなされている。

 バラモン教では人間はスードラ(奴隷)、バイシャ(市民)、クシャトリア(王、政治家、武士)、バラモン(僧侶)の四階級に分かれ、今生たくさんの罪を犯した者は低い身分のところに、ときには動物に生まれ更わり、バラモンに仕えると身分の高いところに生まれかわると説かれ、この教えが仏教に入って輪廻となったと氏は考えるが、氏によるとこのような輪廻の教えは、実在するものでは決してなく、抑圧者が説く差別があっても当然であるという神学に基づく架空のものとみなされている。

 氏にとって輪廻の教えとは、今から約四千年前にインドを占領した白人系の支配者が、自分たちの地位を守るために、社会を乱されれぬように人為的に捏造した教えにほかならないのである。

 氏はさらに日本の仏教にも言及して「日本の天皇制確立に役立たせようということで外国の思想家を呼んだのが坊さんで、彼らは、「身分の差別というようなことを言っていたら本当の幸せは得られないというお経を読みながら、自分たちを雇った人(天皇)からは、身分の違いをはっきり説けと命令され」、その結果、「本来、輪廻からの解脱を説き、差別社会否定の教理を教えるべき坊さんが、輪廻を教え、差別思想を説いてしまった」という極めて歪められた見方をしている。

 なぜなら仏教においては輪廻からの解脱が確かに説かれるが、このことは輪廻が克服されるべきものではあっても、決して実在しないようなものではないことを示すのに、氏は「輪廻というようなことを信じていると、むごい心になってしまう」、「やったら、されるのだ、されたら、仕返しをするのだ、こんな根性の人は、輪廻の通り返しを本気で信ずるわけです」等とものべ、その実在を全く認めようとせず、それを差別思想と考えるからである。

 氏にとって大切なことは輪廻の克服ではなく、輪廻を全く認めないことであり、それゆえ、「因縁話にしても、教祖の教えの中には、通り返しの話、したことがかえってくるとか、前世の何代前の因縁が今でてきて、こんな苦しみをつくっているのだよというようなことは別段説いていないのです。それらの話というものは、四千年も前から説かれていたいわゆる差別社会を守るための高山の説教であったわけです。」という歪んだ見方が平然となされるのである。

 ところで氏のこのような輪廻の教えイコール高山の説教との暴論の根底には、輪廻イコール差別思想の見方があり、輪廻はなるほど差別という価値判断と結びつきやすいものであるが、輪廻そのものは無色の価値中立的なもので、輪廻イコール差別思想との短絡視はできないのではないか。ゆえに輪廻は単なる高山の説教としてむげに否定できないのではないか。

 筆者は
     ・・・生まれ更わり聞き分けば、どんな理も治まる。・・・・( 補遺 M27.5.19
と教示されているので、輪廻(生まれ更わり)に実在を信じる立場に立ち、それを否定すると教祖の教えが成立しえないのではないかと考える。とすれば問題となるのは、輪廻と本教の「出直」、生まれ更わりの相違点である。どこに違いがあるのだろうか。

2011年10月25日火曜日

No.51 教理随想(2) 出直し(2)

 前置きはこのくらいにして、「出直」の教理がわれわれに何を教えるのか考えてみよう。

先に引用したように「出直」とは、「古い着物を脱いで、新しい着物と着替えるようなもの」で、人間は死んでもまたこの世に生まれ更わってくるのであるが、この「着物」は人間が自由に着たり、脱いだりできるものではなく、心にふさわしく貸し与えられるものである。つまり「出直」はまずかしもの・かりものの教理を教えるのである。人間の身体は親神からのかりもので、借りている間は生命を持つが、「出直」によってかりものを返し、また新たなかりものを借りて、新しい生を始めるわけである。
 従って「出直」は、われわれに生命の尊さ、かけがえのなさを間接的に教えてくれるように思われる。

 古来多くの人は、死の問題を論ずるに際して身体と魂を分離し、身体は解体して無に帰すものであるのに対して、魂は不滅で、死によって身体から自由になり、精神的な永遠の生に入る、と考えられてきたのであるが、このような思想はともすると、身体に対する精神の優位を説くあまり、身体を副次的な、それ自身価値をもたないものとして、軽視する危険性をもつであろう。

 これに対して「出直」によって教えられることは、魂は不滅であっても、この世を離れたところに永遠の生を認めず、あくまでこの世に生まれ更わりし、この世における身体的生命が問題とされる、ということであるから、そのような思想とは逆に、われわれに生命の重さ、かえがえのなさを間接的に教示するように思われる。

 本教において「着物」は精神と比べて価値の低いものではなく、親神の十全の守護が入り込んで働いている有り難く尊い存在である。
     ・・人間にわみな神かいりこみ、なにのしゆうごもするゆゑに、人間にまされた神かないことなり。・・・(『神の古記』明治十六年本)と明示されるように、「着物」は人間の精神の足かせとなるようなものではなく、逆に神聖なものであり、「着物」を着せられていることは、「もはや奇跡としか言いようのない出来事である」(池田士郎氏『身体と信仰』)

「出直」によって教えられることの第二点は、これまたかしもの・かりものの教理から派生してくる「心一つが我がのもの」という主体性である。次にこの点について考えてみよう。

 さて人間の生死のパターンについては、死によってすべてが終わるという人生一回説、死後極楽や地獄というこの世からかけはなれた場所での生を認める二回節、死後何度も生まれかわってくるという無限回説の三つに大別することができる。
 人生一回説は無信仰者の常識的な見方で
、二回説は多くの宗教においてみられる死生観であるが、ともにこの世を無前提に考える点において不十分な見方である。

 一回説においては、この世における不平等、不運はすべて不条理とみなされ、ニヒリズムにおちいったり、あるいは刹那的な快楽主義に走ったりして、この世の生を全うできなかったり、二回説においては、この世からの逃避の場所があの世や霊界において空しく求められるだけで、これまたこの世の生を充実させることがむつかしくなる。
 なぜなら両方ともこの世を前世を前提にして考えるのではなく、この世をいわば根無し草のごとく考えるからである。

 これに対して「出直」は無限回説の立場に立ち、前生、今生、来生の時間相において人間を見ることを教えるが、この「出直」によってはじめて人間の主体性が真に成立することになる。主体性とは単に「心一つ我がのもの」としての自由な心遣いを意味するだけではなく、
  なんぎするのもこころから
  わがみうらみであるほどに(十下り七つ)
     ・・たった一つの心より、どんな理も日々出る・・・(M22.2.14
と教示されるように、なってくる現実を自分の現実として真正面からうけとめることも意味するが、人生一回説、二回節においては、この世の生が前生なしに考えられるので、この世の不運の原因が自分以外のものに転嫁されることになりやすく、そこには真の主体は成立しないからである。

 前生において親神は前々生の心づかいと通り方に相応しい境遇を与え、「出直」に際して、一代の清算をされ、その結果がそのまま今生にもちこされて今生の生がはじまり、人生が展開されるのであり、それを認めることによって、ここ世における不条理に光があてられ、この世における救済が可能になるのである。

 このように「出直」よって真の主体が成り立つと言えるが、ここで注意しなければならないことは、出直して生まれかわってくる主体は、前生、今生、来生を通じて同一の主体であるということである。姿、形は当然かわるが、心の持ち主は同じでありつづけるということである。この点がはっきりしないと次のようなおかしな議論になってしまう。

 八島英雄氏の生まれかわり論をみてみよう。 「教祖の生まれかわりの考え方は、ちょっと違うのです。つまり次を生んで、また次を生んでというように教えてくださったので、自分から子供、子供から孫、孫から曾孫というように、だんだんに成長し立派になっていくことを教えられ、そういうふうに生き続けて八千八たびを繰り返したということをおっしゃっているのです」(『ほんあずま』)

 矢島氏は「元の理」の八千八度の生まれかわりをこのように理解し、死後の霊については「教祖のお話はない」、「死んだ人間については何も語られていない」とのべて、その存在を否定している。したがって霊魂不滅を信じないで、親、子、孫へと生命が連綿と続いていくことを、生まれかわりとして解している。このような見方は、輪廻を遺伝子の相続と考え、親、子、孫へと遺伝子が受け継がれていくことを輪廻とみなす解釈(花山勝友氏『輪廻と解脱』参照)においても見られるが、こうなると厳密には生まれかわりとはいえないことになる。

 なぜなら一つの生存が終わり、それを縁として他の生存が始まったというだけでは、前者が後者に生まれかわったとはいえず、生まれかわりとはあくまで同じ主体が、死後再び姿を変えてこの世に現れること、つまり転生を意味するからである。

2011年10月22日土曜日

No.50 教理随想(1) 出直し(1)

「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」(『教祖伝』一五二頁)
 
これは秀司さんが明治十四年、六十一才で出直されたときに、教祖が秀司さんに代わられて仰せられたお言葉です。私たちにとって一番気になりながらも、一番理解することの難しい死、出直しについて(『あらきとうりょう』163、164号「出直」について、を加筆、転載)勉強させていただきます。

 哲学者ハイデッガーは、人間を「死への存在」と規定した。これは単に死に向かって進んでいる存在という常識的な意味だけではなく、死とは人事ではない自己の不可避の存在可能性であり、死の自覚によって、それまでの世間に埋没した自己とは根本的に異なった本来的自己にめざめるということ、また常に死を意識し、死の危険が迫っていなくても、自分の死について思いをめぐらし、不安や恐怖にかられる存在である、という意味である。

 人間にとって死は避けることのできない必然的な宿命であるが、死すべきものであるがゆえに必ずしも苦しむわけではなく、死の意味が分からず、不安、恐怖にかられる「死への存在」であるが故に悩むのである。それ故に古来宗教や哲学は「死とは何か」に種々の解答を与え、死を避けることなく、死を人生に積極的に位置づけることによって、死の苦悩から人間を解放しようとつとめてきたが、未だに十全なる解答を提示しえていないようである。

 このことはわれわれを死から守り、死の恐怖をやわらげるために貢献してきたと思われている近代現代医学についても同様である。
 なるほど今まで不治の病が医学の発達により予防されたり、治療法が見出されて完治するようになったり、平均寿命が延びてきたことは周知の通りである。しかしこのことはもろ手を挙げて喜べることとは必ずしも言えないと思われる。

最近話題になっている脳死や臓器移植の問題は、死の時期の観点からすると、前者は死を手前にずらし、後者が死を先へ伸ばすことにほかならず、人間の死が医学によって、矛盾した形で操作されるという不気味な事態であるとらえるとき、「われわれを死から守ってくれると思っていた近代医学が、われわれの死を促進するのではないかという、新たな恐怖を与えるように」(河合隼雄氏『宗教と科学の接点』七七頁)なってきており、死への恐怖が医学の発達によって、逆に強められつつあるのではないか、とも考えられるからである。

 では本教において死はどのように考えられているのであろうか。
 『教典』とおさしづに、
 ・・・・身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもの・・・(七十頁)
     ・・古着脱ぎ捨てて新たまるだけ・・・
                    M26.6.12
と明示されるように、本教では死は肉体の単なる終わりではなく、この世で再び肉体を借りるために再出発すること、「出直」と教えられる。

 ところでこの「出直」は一般には直接に死と結びつかず、最初から改めてやり直すこと[この意味は「こころえちがいはでなおしや」(六下り八ツ)に含まれると思われるが、ここでは省いて考える]を意味するので、本教の用例は他に例をみないのであるが、「出直」が教語として死を意味するようになったのは、みかぐらうた、おさしづ(ここには「出直」は数例しかなく、生まれ更わりが圧倒的に多い)に「出直」の語があるにもかかわらず、決して古いことではない。おふでさきでは「出直」はなく、そのかわりに「しりぞく」、「むかいとり」、「てばなれ」、「かやし」等が使われ、またこふき本にも「はてる」、「クレル(崩れる)」、「しぼす(死亡)」等しか見られない。一体いつから「出直」が死の意味で使われるようになったのか。

 これについては教内において定説がなく、その詮索はあまり意味がないと思う。われわれにとって重要なことは「出直」をどのようにうけとめ、日々の生き方に映していくかであろう。では「出直」の教理はわれわれに何を教えるのか、またそれにまつわる問題は何か、を以下において考えてみたい。

 さて「出直」とは、
     ・・人間というは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・(M39.3.28
に示される生まれ更わりと同義であるが、この生まれ更わりの事実は、神の存在と同じく経験をこえた形而上的なものであるから、理論的には肯定も否定もできない。従って科学的に証明できず、信じるよりほかないものである。

なるほど岡部金治郎氏のような科学者による推理科学的(氏によると自然科学の成果を重視しながら、自然科学の水準からある程度飛躍した仮定をおいて考えること)な次のような証明も考えられるかもしれない。
 [人間死ねば、肉体は、もちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう。・・・魂の核は生き通しのものだから、いつまでも熟睡が続けられるものではなく、いつかは、肉体に宿って、熟睡から醒め、活性状態になろう。つまり、いわゆる「生まれかわり」の可能性があることになろう。](「」人間は死んだらこうなるだろう』五七~五八頁)
 しかしこの説も魂の不滅、生まれ更わりの可能性を示唆する程度で、証明といえるもの
ではないと思われる。

 またトランスパーソナル(超個)心理学において、キューブラ・ロス等によって死後の生が単なる信、神話の対象としてではなく、科学知の対象として強調されたり、レイモンド・ムーディによって瀕死体験や医学的に死と判定された人の奇跡的な蘇生の具体的な事例がうんざりするくらいに多く紹介(『かいまみた死後の世界』参照)されたりしているが、これも人間は死によって無に帰すのではなく、死後の世界があることを暗示する程度で、生まれ更わりの事実を積極的に論証するようなものではない。

 「出直」、「生まれ更わり」とは結局信じるより他ないものであるが、このことは「出直」が非現実的だ、事実に基づかないものであるということではない。

 河合隼雄氏の「科学者はアイ・ノウ(I know)といっていたけれども、それはそれほど確かなことではなく実はアイ・ビリーブ(I believe)なのではないかと考えられます。自然科学というのは絶対性を誇ってきたけれども、そうではなくて、一種のパラダイム、いわゆる自然科学的パラダイムによって世界を見ているというわけです。パラダイムが換われば、違うことがみえるということがある。つまりいままでアイ・ノウと思っていた人たちも、実際はビリーブにかなり規則付けられているのであり、アイ・ビリーブといっていた人も、実はまだまだアイ・ノウといえることがたくさんあるわけです。」(『G—TEN』9号48頁)との指摘をまつまでもなく、信は相対的に過ぎない科学知と同じ地位、否むしろそれを基礎付ける地位にあって、積極的な価値をもつのである。
 従って、科学的に証明されないから価値がない、事実に根ざしていない、ということは決して言えないのである。

2011年10月14日金曜日

No.49 教祖を身近に 連載 第49 三つの宝

教祖を身近に 連載 No.49 三つの宝

「教祖は、籾を三粒持って、
 『これは朝起き、これは正直、これは働きやで。』と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、 『この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。』と、仰せられた。」(『逸話篇』二九)
 教祖は人間生活の指針、生活倫理として、「朝起き、正直、働き」を教示されています。「朝起き」と「働き」について考えてみましょう。
「朝起き千両」、「朝起きは七つの徳」という諺がありますが、教祖はこのような常識的功利的な意味だけではなく、心身にとってもっと大切なことを教えられていると思われます。
 最近の脳科学による眠りや生体時計の研究をみてみましょう。
 人間の体には自律神経、体温、睡眠、覚醒、各種のホルモンなど、およそ一日の周期で変化する様々な生理現象があって、そのリズムはすべて脳にある生体時計からの命令で刻まれています。

 人間の生態時計は両目の奥にある視床下部の視交又上核と呼ばれる部分にあります。この生体時計の一日は二十四時間より約三十分長くなっています。従って睡眠覚醒のリズムは地球時間より毎日三十分づつ遅れていくので、二十四日目になると、体の一日のリズムが昼夜が逆転し、昼に体がいちばん不活発な状態になるということも起こります。しかしふだんこういうことがなく、地球時間と歩調をあわせて生活することができます。これは生体時計の周期を地球の周期にリセット(同調)させる因子があって、中でも朝の光による同調作用が効果的で、脳の視交又上核が毎朝光を認識することによって、生体のリズムを二十四時間になるようにリセットしています。夜ふかしの生活では朝より夜に自然光でない光を浴びることになり、生体時計の周期を長くし、二十五、六時間になり、このズレを夜ふかしをつづけると拡大していき、修正できないようになります。これが「内的脱同調」とよばれる慢性の時差ぼけ状態で自律神経失調症の一つである起立性調節生涯(起き上がると血圧が急に下る)、慢性疲労、抑うつ、活力消耗等の症状となっていきます。

 又朝の光には心を穏やかにする神経伝達物質であるセロトニンの働きを高める作用もあります。この物質は脳内の神経活動の微妙なバランスを保ち、これが不足すると精神が不安定になり、人間関係がうまくいかなくなってくることがわかってきています。 人間は当り前のこと思われるかもしれませんが、朝日を浴び、昼夜は働いたり、活動したりして、夜はゆっくり休むときに持てる能力を最大限に発揮できるように守護されているわけです。 次に「働き」について考えてみましょう。このシリーズNo.44「働く手は」で働く意味について述べましたので、今回はそれを補足して別の観点から考えてみます。

 これまでの労働観において働くことは生きるための単なる手段、生活の糧を手に入れるためにやむをえずしなければならないことや義務とみなされ、働かざる者にマイナスの評価が与えられてきました。これに対して教祖は「人間というものは働きにこの世に出てきたのや」と仰せられたと聞かして頂きますが、このお言葉は人間は働かずにおれない存在で、働くことは生きることと離れず結びついている人間の本性であることを教えられていると悟ることができます。

シリーズNo.44「働く手は」において「人間にとって他者から承認されることは、ほとんど本能的ともいえる根源的な欲求である」という仮説を紹介しましたが、その欲求とともに、人間には贈与に対してお返し、お礼をせずにおれないという本能的ともいえる欲求があるのではないでしょうか。

 人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり 三、28
 このお歌は他人に物を借りたなら利子をつけて御礼を言い、早く返済するようにという常識的な意味の奥に、人の物でも借りたなら利がいる、まして神からの借り物となると、どれだけの利がいるか思案してみよ、という意味があると考えられます。

 人間の身体は親神からの借り物で、それは親神の見返りを求めない絶対的な無限の価値をもつ贈与であると悟りますと、感謝の気持ちが生じ、恩義に感じてお返しせずにおれなくなる、このことが「働き」、働くことの根本にあるのではないでしょうか。

 昨今、世界金融危機、世界同時不況によって、労働環境が悪化し、働くことについての、ひいては生きることそのものについてのシニシズム(物事を正面から立ち向かおうとするのを冷笑する考え方)が人々のあいだにしのび寄ってきているように感じられます。はたらくのは所詮金のためにすぎず、要領のいいやつが勝組となって得をする、正直者は馬鹿をみる社会になっている、つまり働くことが生きがいとならないと感じる若者が増加してきています。 この根本原因として、借り物を自分の意のままに処分できる自分の所有物であり、働くことは生きるための単なる手段にすぎないとの考え方や社会における生産至上主義、能力主義、成果主義が考えられます。

 本教では「身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。」(M2261)と教示されています。

 これは身体は親神からの借り物で、人間に所有権はなく、使用権しかないことと「我が理」として許されています心(自我を含む一切の精神現象)は借り物である身体、いのちに支えられて成立することを意味していると悟ることができます。私のいのちは借り物の身体に宿りますが、それは又親のいのちによって授けられたものでもあります。又社会のいろいろな人のいのちや世界の国々の人々のいのちの営み・働きによっても支えられ、食物(動植物のいのち)をはじめとするいろいろなものによって維持されています。

 それらのお金には換えることのできないいのちの営み・働きによって私が支えられている、また心を使うことができると悟りますと、心の使い方も自ずと制限され、それらのいのちの贈与に対するお礼の心づかい、働きとなってくるのではないでしょうか。

 この報恩としての働きにおいては、職業に貴賎はなく、たとえ家事労働であっても、報恩の心でなされる限り、尊いということになります。

 最後に働きに伴います与えについての神言を紹介しておきます。
 「めん/\年々のあたゑ、薄きは天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという。」(M21918)「あたゑというは、どうしてくれこうしてくれと言わいでも、皆出来て来る。天よりの理で出来て来る。」(M261128)「欲しいと言うてあたゑはあろうまい。心にたんのう持たねばなろうまい。」(M24520)「渡世商売という/\、一時には良いように思う。(中略)数々商法中にせいでもよいものもある。よう聞き分け。せいでもあたゑ、ならん事すれば理を添えて後へ返える。」(M31629

 格差社会といわれ、与えに関して不平等にみえる現実は確かにありますが、これについては「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け。」(M25113)とのお言葉を心に治めたいものです。

No.48 教祖を身近に 連載 第48回 本当のたすかり 

教祖を身近に 連載 No.48 本当のたすかり

「あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。」(逸話篇 四七)

 このお言葉は、山本いさが年来の足の身上の御守護を頂いてから、手のふるえがでてきて、中々治らないので、教祖におたすけを願い出たときに、教祖が仰せられたお言葉です。「すっきり救かる」は身上が全快し、病んでいるところがないことを意味しますが、「真実救かる理が大事」、「本当のたすかり」とは何を意味するのでしょうか。

   東本初代中川よしさんのおたすけをみてみましょう。
 中川さんは明治二十五年から郷里の丹波での布教を開始されます。「一人を助けるのに百里を歩く」(丹波、ぢば間を二往復)決心をされ、時には九日間絶食、不眠不休、真冬、真夜中の水行、願いづとめという超人的なおたすけを続けられます。死者が蘇生する等の不思議だすけが続出しますが、東京布教にでて四年後に丹波に帰ったときに、助けられた人々が出直し、道からはなれている姿を見て、大変落胆し、次のような反省をされます。
「私の丹波におけるお助けは間違っていた。私は、助かって貰いさえすればよいという考えから、身上助けばかりしていて、精神を救うということに気がつかなかった。そのためにこんなことになった。可哀想なことをしてしまった。私が間違っていた」
                        (『中川よし』三五〇頁)
 ここで述べられている「精神を救う」ことへの布教方針の転換は、身上だすけをしたことが間違いであったからではありません。

 信仰とは心、魂の救済が本義で病だすけは大切ではない、病だすけを標榜する宗教は低級であるとう見方がこれまでも、否現在でも根強く残っています。従って「精神を救う」とは身上助けをやめて、心の救済のみを目指すように思われますが、決してそうではありません。

 心身問題(心とは何か、心身はどのように結びついているのかという問題)は現在でも哲学上の難問の一つといわれています。心身は一如、一つのものとみなしますと、身体をはなれた心、精神だけの救いというのは意味がないと考えられます。教祖は「すっきり救かる」つまり病だすけに対して、心だすけ、「精神を救う」を対置されるのではなく、「真実救かる」つまり心身ともに救かることを教示されています。「真実救かる」、「精神を救う」とは具体的に何を意味するのでしょうか。

 まず第一に、前生いんねんが悟れるようになることです。教祖は手のふるえ、生活に支障のない身上が残っていることによって、「前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで」と仰せられています。今生における通り方、心づかいの反省だけでは不十分で、前生(信じることは難しいのですが、出直しが本当に胸に治まるとき、出直してこの世に帰ってくる自分からみると、今の自分は前生の自分ということになります)を視野に入れた反省、さんげが不可欠となります。

 第二に神恩がわかるようになり、恩報じができるようになることです。東本初代は次のように述べています。「世の中は、恩を受けることに我ままとなり、恩を果たすことに気ままになっている。これでは、日本の国どころか、自分の身が、精神が持たぬこと当然である。金儲けを教える学校はあっても、果たしを教える学校はない」(三五一頁)

 問題となるのは、何に対する報恩かということです。

     「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで。」(M3424

                         と教示されています。
 これは人への小恩にとらわれて、神への大恩を忘れてはいけない、と解されますが、それだけではなく、神恩にも大恩、小恩があって、救けられるということは小恩で、生かされている、身体をお借りしているということが大恩であることを教えられているのではないでしょうか。

 病気を助けて頂くということは御守護であることは言うまでもありませんが、救けて頂いて元の健康な身体に復すことよりも、生かされていてその健康な身体をこれまでずっと維持して頂いていることの方がはるかに大きな御守護と言えるのではないでしょうか。病気になってはじめてその大恩に気づき、それへの報恩のたすけ一条の心定めをすることによってつとめ、さづけによって救けて頂けるのではないでしょうか。すっきり救かっていなくても、真実助っていることが成立するのも、この大恩への生涯末代の報恩の念があるからと考えられます。

 第三に病の見方がかわり、病を御守護の一つの姿とうけとれるようになることと思われます。
 本教では病の元は悪霊、怨霊のような外来のものではなく、あくまでも各自の心であると教えられるとともに、病は神の残念立腹、急き込み、よふむき(用向き)、意見、みちをせ(道教え)、手引き等と教えられていますが、又「ていり」(手入れ)とも教えられています。残念立腹は一見キリスト教の神の怒りのようにうけとれますが、そのあとに「心しだいにみなたすける」、「ふんばりきりてはたらきをする」(十五、1617)と示され、神の愛の発動であることが分かります。急き込み、用向き、意見、道教えは病は神からのメッセージであり、それが正しくよみとれることがたすかりであると悟れますが、では「ていり」とは何を意味するのでしょうか。

          これをみよせかいもうちもへたてない


          むねのうちよりそふぢするぞや

          このそふぢむつかし事であるけれど


          やまいとゆうわないとゆてをく


          どのよふないたみなやみもでけものや

          ねつもくだりもみなほこりやで    (四、108110

 三番目のおふでさきは、病の元が埃であることを単に示しているように思えますが、前の二首をよくみますと、病とは「そふぢ」(掃除)でもあること、つまり病によって神が埃を掃除して下さっていること、それが「ていり」であることを教えていると悟ることができます。「やまいとゆうわない」とは病そのものがないという意味ではなく、病は神による強制的な埃の掃除で、忌避されるものではなく、痛みの伴う御守護である、ということではないでしょうか。このことはガンを例にとりますと医学的には次のように説明されます。

 石原結実氏は『病気にならない生活のすすめ』の中で「ガン性善説」を唱えています。「ガン細胞は血液の汚れを処理し、血液をきれいにしている。ガン細胞も白血球と同様に身体のなかにたまった老廃物を処理するために必要で、浄化装置が手術で取り払われたら、生きている限り、新しい浄化装置をつくる、それが転移と考えられる」(四八~四九頁)

 第四に、「めづらしたすけ」が究極のたすけであると悟れるようになることです。

          たん/\と神の心とゆうものわ


          ふしぎあらハしたすけせきこむ   ( 三、104)

          たすけでもあしきなをするまてやない


          めづらしたすけをもているから    (十七、52)

 本教の救済において、不思議だすけと「めづらしたすけ」が明確に分けられています。前者はガンが救かる等のたすけで、後者は「病まず死なず弱らん」、「百十五才定命」のたすけで、このたすけの条件として、埃を完全に払うことが求められます。逆に考えますとこの「めづらしたすけ」が実現していない限り、埃は残っているということになります。生かされている大恩への報恩をたすけ一条の御用を通して生涯末代続けさせて頂くことによって、前生からの埃が少しづつ払われ、日々「陽気づくめの心」で通れるようになる、これが「真実救かる」、「本当のたすかり」であると悟らせて頂きます。

          ことしから七十ねんハふう/\とも


          やまずよハらすくらす事なら

          それよりのたのしみなるハあるまいな


          これをまことにたのしゆんでいよ    (十一、59 60